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愛媛の景観(平成8年度)

(1)渓谷深きむら

 松山市の南方、四国山地の中央部に位置する上浮穴郡柳谷村は、北は大川嶺(おおがわみね)(1,525m)、笠取(かさとり)山(1,562m)、明神(みょうじん)山(1,541m)などの高い山々に囲まれている。村域を流れる面河(おもご)川の支流黒(くろ)川は、両岸に断崖が続く典型的なV字渓谷を形成し、落出(おちで)(村の中心地)から上流約7kmは柳谷キャニオンとよばれる。その中ほどにある八釜(やかま)の甌穴(おうけつ)群は、黒川の流れが太古の昔から岩石を削り続けてきたもので、昭和27年(1952年)に国の特別天然記念物に指定されている。南部の高知県との境域は、東西約25kmにわたるみごとな石灰岩の高原地帯(標高1,200~1,400m)で、四国カルストと称されている。
 黒川は、急峻(きゅうしゅん)な地形と、年降水量2,359mm、さらに水を養う緑のダムといわれる森林の存在などによって水量は豊かであり、しかも急流である。この条件を利用して明治期より、水力発電所が次々と開設され、本県の水力発電上の重要な河川の一つとなっており、柳谷村は、「水と緑とふれあいの村」をキャッチフレーズに掲げている(①)。

 ア 森林(もり)と渓谷(たに)はむらの財産

 (ア)緑のダム

 **さん(上浮穴郡柳谷村西谷 昭和元年生まれ 70歳)
 人口や田畑が増え、町や村が発達しさらに文化が進み、諸産業の原料や燃料として木材の利用が多くなるにしたがって、森林は減少あるいは荒廃し、それに歩調を合わせるように洪水の被害や水不足が問題になる、というのが人間の歴史の通例のようである。

   「世の中はなにか常なる飛鳥川 昨日の淵は今日は瀬となる」

 『古今和歌集』にあるこの歌は世の中の無常、有為転変を詠んだものとして有名であるが、淵(ふち)とは川の深み、瀬とは浅いところであるから、先進文化圏である都の飛鳥の水源の森が荒れて洪水禍が相次ぎ、昨日の淵が今日は瀬となるほど土砂を押し流すことがある、と読みとることができる。洪水の歴史は古い。渇水の歴史もまた古い。いま森林は「緑のダム」といわれる。特に近年の水不足にともない、水源かん養機能に大きな期待が寄せられている(②)。柳谷村は森林と渓谷の村である。この村で、長年にわたって公私ともに、村おこしや山林の育成、自然保護に努めてきた**さんの口述を要約した。

   a 水を養う天然林

 「柳谷村でも高山地域に属する四国カルストの周辺は、ブナやミズナラなどを中心とした広大な天然林が広がり、そのほとんどが国有林に属します。特にこの地域は年間を通じて降水量が多く、これらの天然林は『緑のダム』として、豊かな水を蓄えてくれています。しかし、戦後の国有林の木材生産事業によって、天然林の大部分が択伐(たくばつ)(選択して伐採すること)や皆伐(かいばつ)(全伐)によって人工的に更新(こうしん)(再生)され現在に至っています。
 近年、人々のくらしが豊かになってくるとともに、心の豊かさやゆとりを求めて、特に自然環境の保全と天然林の『緑のダム』としての機能に期待する声が高まりをみせているのですが、一方では天然林の択伐計画も根強く存在しているのも事実です。
 現在残っている原生林は、われわれにとって貴重な財産なのです。遅きに失しましたが、十数年前から原生林の保存について各方面に働きかけてきました。その結果、全国的な保存意識の高まりもあり、現在では一応その成果を挙げているといえます。名荷(みゅうが)谷の奥から、大川嶺にかけて広がる、伊豆ヶ谷(いづがや)山の見事な天然ブナ林なども成果の一つです(写真1-3-2参照)。昭和63年(1988年)、猪伏(いぶし)山国有林は松山営林署の素材生産事業に組み込まれ、原生林の択伐計画が進行していました。その計画の中にすばらしいケヤキの大木が含まれていることを、当時の柳谷村森林組合長さんより連絡を受けたのです。
 早速、関係者で現地調査を行いました。途中のブナ・トチ・モミ・ツガなどの巨木に目を奪われながら、目指すケヤキの大木に見参したのです。その感動は終生忘れ得ないでしょう。胸高直径1.36m、樹高30m、枝下高10m、その周辺に林立するケヤキの大木の中でも、一際目をひく雄姿。見事というか、図り知れない自然の営みの偉大さを感じたものでした。さらに近くのトチの巨木に、山の木を見慣れている一同がまた感動したものです。
 この地域は、猪伏の集落から四国カルストの五段城(ごだんじょう)(標高1,446m)への登山道の途中の4段目付近にあります。日本アルプスに『けやき平』の地名があることを知りながら『四国一の欅(けやき)』のそびえている五段城近くの地名を、「欅平(けやきだいら)」と名付けて保存に努めることに意見が一致したのです。その後、猪伏山国有林の択伐計画は中止され、現在は面河自然休養林に属していますが、欅平自然休養林とも呼ばれ、遊歩道も設置されています。択伐の危機にあった大ケヤキとの出会い、その保存に理解と尽力をされた人々との出会い、これも自然と人とのきずなでしょうか。(③)」

   b 沢奥に育つ山の幸

 昭和45年(1970年)、「柳谷村自然林野保護条例」が制定され、人々は環境保護に意を配っている(④)。
 「自然環境の保全については、もっと早く共生の大切さに気付くべきであったとの思いがします。世の中の流れというか、価値観の急速な変化に対応することができなかったことを痛切に感じているのです。近年、自然環境保護意識が高まってきていますが、それは自然に恵まれたこの村においても同じです。昭和40年代の前半ころでしたが、村の人々が大切に見守っていた高山性の花木や野草が、ごっそりと採取され持ち去られたことが度々あり、残念な思いをしたものです。この山村に育っている野草は、高山性を帯びているので低地の町へ移しても育たないのです。この条例は、規制というよりもあくまでも自然保護の大切さを人々の心に訴えているのです。
 『育てる』ということについては、山林の村といいながら、余りにもスギ、ヒノキの育林にこだわり過ぎた嫌いがあるように思います。これらの人工林も水を養う機能を果たしているのですが、その効果については疑問視する意見もあります。その機能をより効果的にするには、天然林に近い山林を育てることです。そこで植林の際、たとえ本数は少なくても、ケヤキの混植をすることを勧め、実行もしているのです。
 今、都会では街路樹や庭園木としてケヤキの植栽がはやっています。また、それがビルなどの洋風の建物によく似合っています。この村の山林にもいつの日か、スギ、ヒノキ林の中にケヤキの木が大きく、育っていくことを期待しています。
 清涼な流れのある谷奥の沢には、昭和30年(1955年)ころにはワサビが自生し、人々は春の訪れとともにこれを摘み、ワサビ漬けにして季節を味わっていたと思われます。ワサビが自生しているということは、適地でもあるわけで、沢の所々に小さいワサビ田を見かけたものです。ミツマタが消え、山がスギ、ヒノキ林に変わっていくに従い、自生していたワサビもその姿を消していきました。
 人々のくらしと食生活が豊かになるとともに、自生していたワサビが自然食品の香辛料として見直されてきました。そこで、このワサビの特産化を目指して試作を始めたのです。適地と考えられる国有林内の自然の沢を借地し、また山奥の棚田を利用して、静岡(遠州)系と島根系を導入しました。いずれも成育はいいのですが、ワサビ特有の辛さの点で、自生しているものに優るものはないようです。ただ、自生種は芋(根茎)が小さいので生産名柄化には適していないようです。最近、高齢化してきた農家では、山菜のゼンマイやウドの栽培が始められていますが、これらは自生のものの株根を、家の近くの畑へ移植したということです。
 もともとスギ、ヒノキの山林を伐採すれば、焼畑の名残りでしょうか、自然にゼンマイが芽吹き、お茶が生えてくるのです。この山の自然を生かした山菜などの特産物の栽培について、いろいろと課題もありますが、大いに期待しているのです。

 (イ)クリーンエネルギーのむら

 本県最初の水力発電所は、明治36年(1903年)に伊予水力電気によって、石手川上流に完成した湯山(ゆやま)発電所(出力260kW)である。その後、水量が豊かでこう配のある面河川や黒川(仁淀(によど)川水系)や肱(ひじ)川で電源開発事業が進められた。この開発事業は四国で最初の事業でもあり、現在においてもこれらの河川が、水力発電の最も重要な位置を占めている。
 黒川の最下流部、面河川との合流地点には、昭和36年(1961年)竣工の面河第二発電所と並んで、明治44年(1911年)竣工の黒川第一発電所が、県内最古の水力発電所として稼働していたが、昭和の終えんとともに姿を消した。このほか黒川水系には、黒川第二(昭和36年竣工、5,000kW)、黒川第三(大正12年〔1923年〕竣工、350kW)、黒川第四(小村発電所、昭和18年竣工、2,900kW)、黒川第五(愛称ゴクロ、昭和26年竣工、5,300kW)発電所の五つの水路式発電所(上流のダムの水をトンネルや水路で導水し、落差を利用して発電する)が建設されていた。いずれも出力は小さいけれども、水路式であり自然景観を損なわなかった点と、水没した集落も無かった点で大きい価値がある。その当時は、大きいダム(貯水池)を建設するほどの土木技術が進歩していなかったことも要因の一つであった。
 面河川水系については、面河第一(昭和3年〔1928年〕竣工、7,000kW)、面ニ(1,600kW)、面三(面河第3、昭和13年竣工、7,100kW)発電所の三つの小さい発電所が建設されていた。その中で、県境付近に建設されていた面三は、昭和55年(1980年)に下流の大渡(おおと)ダム(高知県)による水没のため廃止された(⑤)。それに代わる新面三(2.2万kW)が昭和59年、旧面三から約2.5km上流、柳谷村旭(あさひ)地区に完成した(写真1-3-5参照)(③)。

   a 沢が潤すむら

 **さんは電源開発について次のように話している。
 「村の谷川は水量が豊かで、落差のある急流です。これに着目した先人は次々と電源開発を手掛けていったのです。クリーンエネルギー源としての森林と水のかかわりは、今日では広く知られています。水力電源開発当初の先人の思考が愛媛県森林土木協会記念誌『五十年の歩み(⑥)』に載っています。『澤潤万物』。『克制自然』。『水中有火』。『流水生文化』、渓谷にかかわるこれらの誌は近代産業のエネルギー源の開発にかかわった先人の心意気を表しているのです。」
 黒川第一発電所の建設が決定したころの村人のもっぱらの会話は「水から火を出す工事をするんじゃげな。」、「どげんするんじゃろねや。」ということであった。また、セメントと砂と砂利を水で混合したコンクリートが一夜で石のように固まること、地底に穴をあけるトンネル工事など、これらのことを初めて知った村人を驚かせたという。そのうえ、工事にかかわる高い労働賃金は村人にとってこの上もない喜びであった。しかし、2、3年後に好況期が過ぎると、工事労働に依存していた人の中には、身代(しんだい)限り(破産)をして村を去る人も出てきたという(⑦)。
 創設の歴史とともに80数年間、力強く回り続けた2基のドイツ製発電機(水車と発電機が1セットになっていた)のあった、黒一や黒二、黒三が昭和の終わりとともに相次いで老朽化のため廃止され、黒二の跡地に、新しく柳谷発電所が平成元年に竣工した。この発電所の水車は地下62mの位置にあるため、水の有効落差は約211mあり、最大出力23,000kWは県下の水力発電所では最大である。
 現在、村にある発電所は五つとなっている。これまでに揚水式発電所(*1)の建設計画なども浮上したが、諸般の事情により昭和58年(1983年)中止に至っている(③)。
 「この山奥の村が他の山村に比べて財政的に先進的位置にあるのは、電源開発にかかわる事業に負うところが大きいのです。公共的、教育的な面はもちろんのこと、水力発電所関係の固定資産税の収入を基本にした森林基金(*2)の活用による道路網、林道の充実、整備は目覚ましいものがあります。例えば、最奥の小田深山との境界の近くに、昭和26年(1951年)に竣工した黒五の貯水ダム建設工事用道路が、その後整備されて、現在、小田町を結ぶ県道本川(ほんがわ)・西谷(にしだに)線に昇格しているのです。『緑のダム』にかかわりのある林道開設の比率にしても県下で上位にあるのです。水資源の開発が、村の開発であり人々のくらしの向上の大きい節目となっていることは明らかです。」

   b 水しぶき

 「面3ダム湖が完成し貯水した翌年の昭和60年のことでしたが、国道33号から、湖面を遊泳している鮮やかな彩りのコイの大群を発見したのです。道行く人たちは『これは、どうじゃ…』としばし見とれたものでした。このコイの群泳が、ふるさと創生事業として湖面の活用につながったのです。渓谷の村であり、また水の村、クリーンエネルギーの村のシンボルとして独特の噴水を建設することとなり、苦心の研究の結果、対岸の『龍の川』の岩山を活用して竣工しました。公募の結果『昇龍噴水』と名付けられ、道ゆく人に必ず見てもらえる、四国一高く水を吹き上げる噴水として、しぶきを上げています。噴水を眺める施設については、山奥の天然林でよくみかける木肌のきれいなヒメシャラ(*3)(姫婆羅)の木にちなんで『ヒメシャラ休息所』と名付け、ヒメシャラの古木も移植したのです。
 残念なのは、あれほど悠然と群れ泳いでいたコイが、施設の完成とともに姿を消したことです。うわさでは、上流のダムに移入され、いつの間にか繁殖したブラックバス(*4)にやられたといいますが、確認はされていません。移植したヒメシャラの古木も干ばつで枯れたようです。噴水についての評価はさまざまですが、この噴水のようにふるさとの村が活性化されることに期待を寄せているのです。」

 イ 谷あいの焼畑むらのくらし

 **さん(上浮穴郡柳谷村西谷 大正9年生まれ 76歳)
 **さん(上浮穴郡柳谷村西谷 昭和3年生まれ 68歳)
 焼畑とは雑木林をなぎ伐(き)り、火入れして開いた耕地をいい、切替畑(きりかえばた)ともいう。高知県境域の山岳地帯に属する柳谷村の西谷地域は、焼畑耕作が盛んに行われた地域である。菅行(すぎょう)(写真1-3-7参照)と中畑(なかはた)の集落は黒川の最上流沿いにあり、小田深山渓谷の景勝はこの辺りから始まるが、まだまだ緩やかな流れである。このむらに古くから継承されてきた焼畑農耕は、川の流れとは異なり、山間地特有の厳しいくらしであった。その厳しさに耐えてきた長い歴史の中で、明治20年(1887年)ころより導入されたミツマタ作りは、焼畑むらのくらしに明るい灯をともし、ミツマタ山は宝の山ともなるに至った。

 (ア)ミツマタ畑のお色直し

 **さん、**さんに焼畑むらのくらしの移り変わりについて語ってもらい、以下、それを略述する。
 **さんは、焼畑耕作とミツマタ栽培の盛衰を次のように話している。
 「昭和初期から30年代まで、村中が焼畑耕作をして、周期的に自分の持ち山を回っていたのです。焼畑には最初は前作(まえさく)として谷筋にトウキビ(トウモロコシ)、尾根筋にヒエ、アワ、ソバ、大豆、小豆などの雑穀類の作付けをし、2、3年目にはミツマタを植え付けていました。3年目の春には、畑全面がミツマタの黄色い花で彩られ、それは見事なものでした。あれほど盛んだったミツマタ栽培が昭和30年(1955年)ころからいかん(不況)ということになったのです。その原因は価格の停滞と、折からの木材ブームでスギ、ヒノキの植林に焼畑を転換したためです。適地でのミツマタは約20年間、抜き切り(大きいものから切り取る)によって収穫することができたのが、植林によってミツマタ栽培は急速に消えていったのです。さらに、伐り倒して焼き払っていた雑木まで、パルプ材として売れるようになり、雑木林は焼畑にすることなく、スギ、ヒノキ苗の植栽をしたため、ミツマタの植え付けは途絶えていきました。そのうえに、和紙から洋紙へ、紙幣から硬貨への切り替えによる需要の減退が、ミツマタの価格の停滞を招いたのです。」
 **さんの話。
 「ミツマタの好況期は大正3年(1914年)ころからと言われ、昭和12年(1937年)には最盛期を迎え好況にわいたものでした。その後、戦時体制とともに労力、食糧不足から低迷期に入り、戦後再び一時的に好況期(昭和27、8年)を迎えたが、数年後には最悪の不況期に突入し、再び明るさを取り戻すことはなかったのです。経済復興の進行とともに木材の好況期が到来し、ミツマタ不況は片隅に追いやられていったのです。」

 (イ)かやぶき屋根の小屋下(さ)げ

 **さんは、ミツマタとかやぶきの屋根とのかかわりを次のように話す。
 「ミツマタブームの最盛期のころは、ほとんどの家が、かやぶき屋根で囲炉裏(いろり)のあるくらしでした。菅行・中畑の農家13戸中、瓦(かわら)屋根の家は2戸でした。それも広い山林と田畑を所有する自作型農家に限られていたのです。あとは焼畑小作か自小作型の農家で、いくらミツマタが好況でも、小屋下げ(かや屋根の棟を低くすること)をして、瓦屋根にすることは経済的な面から容易ではなかったのです。
 戦後の農地改革によって、すべての農家が自作農となり、おりからの木材ブームによって昭和30年代中ころから、瓦屋根に変わったのです。それとともに古くから受け継がれてきた『かや講(*5)』も消えていきました。
 この地域で小屋下げをすることは、経済的に大きな負担が伴います。かなりの蓄えがあっても瓦の運賃に食われ(費やされ)てしまうのです。古味からでも1里(約4km)、落出から約6里の道のりを駄賃(だちん)持ち(馬で荷を運ぶ職業)か、牛や人力で瓦を運ばなければならないのです。火災の心配から小屋下げをしたいのはやまやまですが、なかなか決断しにくいのです。しかし、かや場がなくなるにつれて、かやぶき屋根も消え、瓦かトタンぶきになっていました。」

 (ウ)むらの付き合い

 菅行、中畑の集落は、焼畑耕作によってくらしてきた。焼畑耕作は共同作業を基本にして成立する。その共同作業と助け合いのくらしにおいて、大きな役割を果たしたものに「講(こう)」がある。講には金融や物の助け合いを図る経済的講と信仰にかかわる講とがある。菅行と中畑の13軒の小集落における最大の講は「かや講」であった。その他に季節ごとの各種の付き合いもあり、これに要する日数も多いけれども、これが人々のぬくもりのあるふれあいの場ともなっていた。
 **さんの話。
 「むらの付き合いは、次々と年中ありました。お盆過ぎまではそれぞれが作(農作業)に精を出し、それからは、きりのないくらい付き合いが多くなるのです。作付けのための道浚(さら)い(道路の補修)、道刈り、作負い(農作物を人の背で運ぶ)のための道浚い、台風で丸木橋が流れるたびの橋架(か)けや、『ごう(木橋を架ける川中の石組、いわば橋脚)』の補修など。『盆すぎから半分は、もやい(付き合い)をせにゃいけんので仕事にゃならん。』といった年もありました。そのほか、焼畑むらには大切な『足立ち(*6)』があり、組内や親類の家普請(ぶしん)などもあります。この付き合いには、毎年定例化(日にちの定まった)された公共的なむらの付き合いと、私的な親類を含めた家などの普請にかかわる付き合いがあり、年間3分の1くらいはこのような出夫(でぶ)(共同の奉仕作業)があったのです。しかし、冬の農閑期におけるこれらの付き合いは、女性や子供にとっては特に楽しみでもあったのです。そのほか、救急の病人が出た時や災害時などは、どうしてもむら中の人が助け合わなければ、山奥ではくらしが成り立たなかったのです。
 先人から受け継いだくらしの知恵とでもいうのでしようか。そのうえ、着ているもの、食べるものは比べようもない貧しさですが、自給自足でみんなが同じようなくらしをしているということは、ゆとりのあるのんびりしたくらしだったということができます。」

 (エ)母屋と隠居

   a 囲炉裏(いろり)のある家の間取り

 農家の間取りがほぼ形造られたのは、近世になってのことである。家の間仕切(まじき)りのない時代、農家では間仕切りにむしろや、板を利用したようである。その後、間仕切りが移動できるように板戸や障子・ふすまなどが利用されるようになり多くの人が集まるときは、大部屋として使用できるように造られた。西谷地域に多くみられたのは、一列並び型といわれる方式で、隠居部屋も同じ棟に取られていた。これは豪雪による寒気の厳しさに対するくらしの知恵ともいわれる(⑦)。茶の間には、畳半枚敷き(3尺〔約0.9m〕平方)の囲炉裏(ユルリともいう)が造られていた。囲炉裏は、そこで煮炊(にた)きし、それを囲んで食事をしたり、暖をとるなど、家族のだんらんの場であり、日々のくらしに欠くことのできない存在であった。囲炉裏の周囲の座は、先(さき)座、てつ座、奥(おく)座、下(しも)座と呼ばれ、家長は先座、主婦はてつ座(台所〔しず〕に近い)、来客は奥座と決まっていた(④)。
 囲炉裏の思い出について、**さんは次のように話している。
 「わたしらは囲炉裏端で育ったのです。囲炉裏の中央には天井から真っ黒になった『自在鈎(じざいかぎ)』が下がり、煮炊きは全てこれを使っていたのです。家族の多い家では、囲炉裏の周りに子供が目白押しに座って食事を待ち、囲炉裏の火でトウキビ餅(もち)やジャガイモ、サトイモを焼いて食べたものです。囲炉裏の四隅からは『グンゼ』と呼ばれる太いたきぎ(薪)が、中央に向かって突き合うようにくべられていましたが、『グンゼ』のある隅の席は、ぬくく(暖かく)ないのでよくもめたりしたものです。このぬくもりのある一家だんらんの炉端の風景も、囲炉裏の周りの座の名前も、かや屋根が姿を消すとともに、いつしか存在しなくなったのです。」

   b 隠居のならわし

 **さんの話。
 「この焼畑の村には、隠居という古くからのならわしがあります。それは、当主の長男が嫁を迎えると、その後1年間はすべての仕事を必ず長男夫婦と一緒にしますが、その翌年からは、あらゆることを長男夫婦に任せて隠居(退)してしまうのです。いつまでも居座っていると、組内(くみうち)の人々から非難されます。若い長男夫婦は、付き合いを初めとしてすべてのことをやっていかないけんのです。そのうえに若い夫婦は、子やらい(子育て)もしていかないけんのです。それで隠居は1等地(良い畑)を耕作することなく、やや劣る山畑を耕作することになります。
 長男以外の二男や娘は隠居と同居して、同じ棟で2世帯別々のくらしになるのです。しかし、一家の大きい出費や可愛いい孫のためには隠居の財布の紐(ひも)は緩みがちです。このならわしは、川下(黒川の下流地域柳井川あたり)では多少の違いがあるようです。ただ、嫁姑(よめしゅうとめ)のかかわりも、嫁いびりがなくかえって嫁の方が強くなりがちです。
 もう一つの特徴は、長男が満16歳になると、付き合いのすべてを息子に任せて、いくら若い親でも口出しができなくなることです。二十歳前の若さで嫁でもとればなおさらです。隠居がいかに反対しても家長としての権限は絶対的なものがあったのです。」

 ウ 女たちのくらし

 **さん(上浮穴郡柳谷村西谷 昭和4年生まれ 67歳)
 **さん(上浮穴郡柳谷村西谷 昭和6年生まれ 65歳)
 焼畑のむらがミツマタ景気で潤った中で、その好景気を裏で支えたのがむらの女性たちである。ミツマタの品質を決めることになる最終工程のシラソ作り(黒皮を削り白皮に加工する)は女の仕事である。そのうえに女性たちには日々の食生活の役割が加わってくる。焼畑むらを支えた女性のくらしについて、**さん、**さんの話の一端を略述してみた。

 (ア)川のほとりのシラソ作り

 「ミツマタの品質を決めるシラソ作りは、真冬からミツマタの黄色い花の咲く春先にかけての女の仕事です。菅行では川向こうの水辺に、軒並みシラソ作りの作業小屋ができていました。昔は水につけた黒皮を古い刃物で削ったそうですが、わたしらは、はさみ状の削り器でした。小屋は1、2坪(1坪は3.3m²)の広さで、川に面した側は開け放しですが、小屋の奥では小さい火を燃やしながら、寒い冬の日を一日中、川につけてある黒皮を引き上げては削るのです。厳しい寒中のころですが、小屋の片隅は子供の遊び場ともなり、座って子守をしながら作業ができるため、体と気分は楽でした。冬場の女性の仕事としてはお金も入り、いい仕事でした。ですからミツマタ作りのむらでは、よそへ働きに行く女性はいなかったのです。削ったミツマタはもう一度よく水洗いをして、川辺に張り渡した針金に掛け乾燥させます。暖冬であたたかい雨の日が続いたりするとカビが発生するため、大きい桶(おけ)に漬(つ)けたりしたこともありました。主に真冬の仕事なので、傷や黒変部を除いていると、シラソが冷たさでがちがちに凍るようなこともあり、あの寒さは今も忘れられません。」
 真っ白なシラソは、冷水にさらすほど白く上質になるという。最終的には寒風の中で女性の手によって仕上げられる。天候によっては乾燥できないこともある。やはりここでも寒さと天候に左右される厳しさがある。
 ミツマタの刈り取りの最盛期は、4、5月である。黄色い花の咲いたミツマタを切り取り、蒸して皮を剥ぐ、運搬、皮削り、乾燥、貯蔵して、冬場に一丸(ひとまる)といって3.1貫(1貫は3.75kg)の重さで、長さ5、6尺(約1.5、1.8m)の円柱状に結束して出荷する。100丸も作れば人もうらやむ大金が入ってきたという。

 (イ)水車まわり(巡り)

 人は昔から川や谷沿いに住み、流れる水を生活用水や田畑のかんがい用水に利用したり、水の力をもの作りに利用してくらしてきた。水とくらしとのかかわりの一つに水車がある。昔はどのような山奥の小さい集落であってもそこにくらしがある限り、共有の水車がゆっくりと回っていた(写真1-3-9参照)。水車の回る山村のたたずまいはふるさとの一つの風景でもあった。
 水車にかかわるくらしを**さんと**さんは次のように話している。
 「菅行、中畑ともに共同の水車があったり、各家が順番に1日ずつ自由に使っていましたが、谷の水が少ないので苦労したものです。水車を順番に使うことを水車まわりとよんでいましたが、水車を使うのは主に女性の役目とされていました。渇水期の冬と夏は、ゆっくりとしか回らないので、雑穀(ヒエ・アワなど)を搗(つ)く(精白する)3連の杵(きね)の装置を使いますが、雪解け水の多い春先には、主に挽(ひ)き臼(うす)(製粉用石臼)によって、主食のトウキビ飯にするヒキワリ(トウキビを挽き割ったもの)かハッタイ粉をつくるのです。水車まわりがめぐってくると、谷の水量に気を遣いながら、穀物を入れた木綿(もめん)袋を肩にして、水車小屋に通ったものです。真夏の大雨などで急に水が出て来ると、『粉(こな)挽きまわり』といって、急きょ時間制の順番で、団子用の小麦粉やそば粉などを挽くこともありました。そのまわりを待ちながら話に花が咲いたものです。
 わたしらは、ハッタイ粉とトウキビ御飯を食べて育ったのです。水車まわりの時は母は一日中ハッタイ粉を作っていました。作り方は、水車小屋に備え付けの大釜で、トウキビを煎(い)るのですが、これを『煎(い)リハナ』といい、これを石臼で挽いて細かい粉にしたものがハッタイ粉です。ブリキの缶で保存しておいて年中食べるので、主食のようなものでした。むらの子供たちが『ハナおくれや…』と水車小屋にやってくると、必ず与えるならわしがありました。子供のころ小さい布袋をさげて、一日一回はおやつ代わりにもらいに行ったものです。このころは、まだ寒い春先で、雪解け水が多くなって水車が勢いよく回りだすころでした。」
 谷川の水量の少ない菅行の集落には、水車のある谷に『そうず』という水櫓(やぐら)(精白用)5基余りが、少ない水量を補うように階段状に連立していたという。昭和18年(1943年)に電灯がともり、両集落とも共同の動力精米所が完成して、水車のある山村らしい風景は姿を消した。しかし、水車まわりの付き合いとならわしは、今も共同の精米所に受け継がれている。

 エ 名荷谷のくらし

 **さん(上浮穴郡柳谷村西谷 明治43年生まれ 86歳)
 美川村の大川嶺(1,525m)や、伊豆ケ谷山の天然ブナ林などを源とする名荷谷(みょうがだに)川の清流は、黒川第五発電所の地点で黒川に合流して、黒四のダムに貯水される。かっては焼畑むらであった名荷の集落(写真1-3-10参照)は、この川に沿って点在している。ここで山の仕事に欠かせない雨具の簑(みの)を作りながら、スギ・ヒノキの山林造りに打ち込んできた、**さんの話を要約した。

 (ア)チャ・カミソ(コウゾ)があるからええわい

 「わたしは16歳で養子にきて当家を継ぎ、現在も現役で働いています。そのころの山畑はほとんどが切替畑(焼畑)でトウキビを作り、その後作としてミツマタを植えていました。大正の初期は製茶が盛んで、この辺り(標高500~800m)の斜面全域が茶畑でした。広い茶畑を所有する農家は、毎年茶摘み娘を4、5人雇っていたのです。娘さんたちは川上(かみかわ)村(現温泉郡川内(かわうち)町)の出身者が多く、中にはここに住みついた人、ロマンスの花が咲き、実を結んだ人もいます。
 茶摘みは八十八夜が過ぎてから低い畑から始まりますが、ここは標高が高く気温が低いため、100mの差で3曰くらいずつ茶摘みの日が遅れていきます。人より作物の方が季節をよく知っているのです。茶摘みは谷の入り口から開始され、この下の川辺にあった協同製茶場で、香りの高い上質のホイロ茶(摘んだ葉を釜(かま)で蒸しホイロ紙〔特製和紙〕に乗せて煎(い)りがわかしにする製法)と、釜煎茶(かまいりちゃ)に製造されていました。釜煎茶はやや広めの茶葉を煎って揉(も)み干(ほ)しにしたもので、これがこの地域で昔から作られている番茶です。製品になったお茶は、大人が乗ると足が地面に着くくらい小さい馬で大川嶺を越えて、久万町を経由し松山の城下に出荷され、神戸へ直送されていたと聞いています。
 この地域の土は真土(まづち)といって肥よくなのです。トウキビはほかの地域よりよくでき、しかも連作がききます。お茶やカミソ(コウゾ)にも適しています。カミソは家の近所の畑や田の縁で昔から作られていましたが、大量生産ができません。和紙の原料としては最高とされ、価格も良かったのですが、ミツマタにとって代わられ、今ではそのミツマタも栽培されていません。お茶やコウゾの栽培が盛んだったころは『名荷には、チャ、カミソがあるからええわい。』とまでいわれうらやましがられたといいます。」
 コウゾが栽培されてなくなった原因について、明治24年(1891年)の愛媛県農事概要によると、「三椏に一種特有の能あり。該樹は元来苦味を有せり。兎鹿の之が芽葉を傷ふなし。楮は之に反し、獣害を被むること甚だしきを以て深山の地へ絶て之を植ゆることなし。…中略…三椏の価は楮草に劣ること大なるも、好て三椏を山岳に栽ゆるは是故なり。』とある(⑧)。
 「若いころ全国の林業地を見て歩き、結局この山奥では、山林以外に生きる道はないと考え、ヒノキの植林を徐々に始めたのです。昭和13年(1938年)でしたが、この植林は村でも早い方でした。いまでは約40町(40ha)の山はほとんどヒノキ林ですが、この手入れに毎日精をだしています。」

 (イ)蓑(みの)編みの技

 昔から山村の仕事用の雨具は、蓑・菅笠(すげがさ)であった。自生するスゲ(*7)を夏から秋の間に取って陰干しにしたものを材料にして手編みする。大蓑と背蓑があり、背蓑は、女子が夏の日除(よ)けとして使用した。特に猪伏(いぶし)地域(黒川の支流、高野(たかの)川の上流の廃村)で作られた蓑は材料のスゲがよく、その編み方が、京都の奥地のものと共通していた。丈夫さと着ごこちの良さで人気があって多く作られたが、化学製品の雨具が出回りだした昭和30年ころから次第に姿を消し、今では民芸品として細々と作られいるのみである(④)。
 「蓑は小学校を卒業した14歳のころから編みました。父は、スゲを何本編み込むかが蓑の寸法になることを、フジカズラの端を砕いた筆で障子紙に書いていたので、それを見て編み方を覚えたのです。**家に養子に来てすぐに家内に教えたのですが、家内の方がかえって達者になり、その後はほとんど家内が夜なべ仕事に編みました。一人役で大蓑1枚を仕上げますが、知り合いに頼まれては、見事な蓑を編み上げて喜ばれていました。その家内も昭和54年に亡くなりました。
 材料のスゲは家の裏のアド(斜面)などへ植え込んでおくと、よく増えますが、山奥の天然林の谷筋に育ったものが葉が広く軟らかくて最適です。夏から11月ころまでに取り入れて陰干しにしておくと、薄い緑色に干し上がります。猪伏の集落の蓑が知られたのは、近くの国有林の深い谷筋に大量のスゲが育っていたからです。家内が編んでいた昭和30年(1955年)ころまでは、蓑は山仕事になくてはならない雨具でした。特に暑い盛りの農作業には、風通しがよくて涼しいのです。蓑・笠にカツボ(ブユまたはブト)いぶしのカッコ(木綿と綿とワラを丸めて点火して煙でいぶす)を腰にぶら提げ、暑い夏の雨の日も風の日も山仕事に精を出したものです。夏の雨の日には、特にカツボが多く、火をつけたカッコを提げるのに蓑が適して(湿って燃えないため)います。蓑は天然のスゲを材料にして編まれています。よく乾かしておけば7、8年は使えますが、湿ったままにしておくと、カビが発生して腐ってしまいます。蓑作りで大切なのはスゲの取り入れの時期と、いかに細いスゲの縄をなうかです。現在も高齢者が背蓑を観光土産用に編んでいます。まだまだわたしも編めるので、いつか暇になったらやってみようと思って、30年前に取り入れたスゲを土蔵に蓄えています。
 土蔵の2階には、ハンドという8斗(約144ℓ)も入るような大きな甕(かめ)が残っています。この地域はトウキビが多く作られ、主食はトウキビ飯とコンコともいわれるハッタイ粉です。これは真冬の寒気の厳しい時期でないと細かい粉になり難いといわれ、各家では冬の間毎日、トウキビ挽きか、コンコ挽きの仕事に追われていました。年中食べる分を蓄えておくため、多い家では、1石(10斗)以上も作っていました。これをハンドに固く詰め、和紙を置き木のふたをしておけば、湿ることもなく、味も変わらず、長く保存できるのです。
 小さいころ、土蔵の2階へ母についていって、ハッタイ粉の中に入れ湿らないように保存してある『板アメ』を割って小さいかけらをもらうのが、とても大きな楽しみでした。なつかしい夢のような思い出です。
 西谷地域のほかの焼畑むらでは、ヒエが防備用の雑穀として作られたのですが、このヒエは俵詰めにしておけば、何年でも保存できるのです。
 保存食としてのハックイ粉、ヒエなどともに雨の日の農作業に欠くことのできない蓑作りなどは、自給自足の焼畑むらに受け継がれてきたくらしの知恵ともいえるのです。
 今年(平成8年)の夏のことでしたが、3世代交流の集会があったのです。子供やUターンした若者からは、『ここは自然に恵まれ、いいところ。』という意見が聞かれました。都会の生活を、そのまま持ち込んだのであれば、水も空気もきれいで、緑の自然に恵まれ、確かにいいところかもしれません。しかし、この山奥でくらすことは、大変なことなのです。わたしらの世代は、雨の日も風の日も、1年中で夜なべ(夜業)をしない日が少ないようなくらしをしてきたのです。このようなくらしを今の若者に求めても無理です。わが家の長男も松山市に出ていますが、夫婦でよく山へ帰って、山林の手入れをしています。わたしも、今まで山林を育ててきたかいがあったと頼もしく思っています。」


*1:夜間の余剰電力を利用してダムに揚水し、再度クリーンエネルギーの水力発電に活用する方式。昭和56年に計画され四
  国電力より発表されたが、地質上の問題、需要の低迷によって中止された。
*2:村内水力発電所関係の固定資産税の年収を基本金として設立された。むらおこしの各種事業の助成などに活用されてい
  る。
*3:ツバキ科の落葉高木で、山野に自生するが、庭園本として植培もされる。木肌が褐色で美しく、材は床柱などに用いる。
*4:北米原産でオオクチバス、1925年日本に移殖。湖沼や川にすみ甲殻類、カエルなども食べる。ルアー釣りの対象として
  人気があるが、生態系を乱すもとになっている。
*5:かやぶき屋根のふきかえは集落の共同作業で行われ、労力以外に材料のカヤやワラナワなどが規定量提供された。その付
  き合いをいう。
*6:山焼きなどのような大切な作業のときなど、13歳以上の足の立つ男性全員が参加する共同作業をいい、焼畑むらの大き
  い付き合いの一つである。
*7:カヤツリグサ科スゲ属の草本の総称、種類が多く自生するもの200種、初秋にカンスゲ、カサスゲなどの葉を刈りとり乾
  燥して蓑・菅笠を作る。

写真1-3-2 緑のダム・ブナの天然林

写真1-3-2 緑のダム・ブナの天然林

伊豆ヶ谷山国有林にて。平成8年8月撮影

写真1-3-5 新面河第三発電所

写真1-3-5 新面河第三発電所

発電所は右岸の地下30mにある。昭和10年代には、この下流に渡し場があり、渡し守がいた。平成9年1月撮影

写真1-3-7 川辺にたたずむ菅行の集落

写真1-3-7 川辺にたたずむ菅行の集落

小屋下げされ、かやぶき屋根は1軒もない。平成8年11月撮影

写真1-3-9 現在の水車小屋の風景

写真1-3-9 現在の水車小屋の風景

国道33号沿いにある水車。平成9年1月撮影

写真1-3-10 蓑作りの里、茗荷下の一集落

写真1-3-10 蓑作りの里、茗荷下の一集落

家の近くまでスギ・ヒノキの山が迫っている。平成8年8月撮影