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愛媛の景観(平成8年度)

(1)架橋の海に生きる②

 イ たきよせ漁と砲台の島

 **さん(今治市小島 昭和3年生まれ 68歳)
 小(お)島は来(くる)島の北方約500m、来島海峡の西水道に面する面積36haほどの小島である。激しい潮流が岸を洗うため周囲のほとんどが岩石海岸になった、最高地点で106.5mの平坦な島である(写真1-2-11参照)。
 江戸時代の元禄13年(1700年)に、来島の漁民(8戸)が北側の柳井田(やないだ)に移住したが、冬の北西風を避けるため南側の分谷(わかれだに)に移り住んだ(⑥)。昭和23年(1948年)ころには55戸、約200人まで増加していたものの、現在は過疎化が進んで25戸、45人の島である。
 かつてこの島では、「たきよせ漁」という独得の漁法が盛んであった。

 (ア)岩戸(いわと)を焚(た)く

   a 岩戸株

 小島では、「たきよせ漁」のことを「岩戸(門)を焚く」と言う。
 **さん(76歳)は、**家に伝わる漁業鑑札を保存していた。一本釣りの鑑札と鰮焚寄抄網(いわしたきよせすくいあみ)の鑑札で、一本釣りの鑑札にはタヒ(タイ)、スズキと魚種が記されている。
 写真中央の小型の鑑札が一番古く、表に岩門株、裏には発行された天保3年(1832年)と漁場名らしき文字がある。これは、旧松山藩乃万郡(のまごおり)の時代のもので、今(平成8年)から164年前のもの、小島入島からは132年を経過した年の発行になる。鑑札の中央上部に穴があるから、漁船に取り付けたものと思われる。
 8月の初旬、小島港の近くで60歳過ぎの婦人がイギス(カズノイバラ)を天日干(てんぴぼ)ししていた。今年は水温の関係で、7月末までイギス採りができたが、島を離れて行った子供たちに送るだけで、昔のようには大量に採れないとのことであった。イギスを豆腐に混入した「イギス豆腐」は、今治市を中心に、旧越智郡一円にみられる独特の郷土料理であるが、イギス採りを続けるこの婦人も岩戸を焚いた経験者である。

   b イワシの干場

 現在、来島漁業協同組合の組合長として、漁協のある来島へ通う**さんに、「たきよせ漁」を中心に話してもらう。
 「昔からの岩戸ちゅうのは、鑑札をもろてね。いうたら、漁業権は個人に下りとったんじゃがね。昭和24年(1949年)に漁業法が全面改正になって、漁業権を買い上げられてしもてからは、こんどは組合へ権利が下りた。だから昔は、家の内がおかしなってしもたら(経済的に行き詰まると)、漁業権を売買しよった。昔は、旧株の前組と後組で11株、新株が8株で、小島のたきよせ漁は19株になっとりました。」
 たきよせ漁は、主としてイワシを抄(すく)い網で捕ったが、ほかにもいろいろ捕れたようだ。
 「夏の間はイリコイワシ(カタクチイワシ)よね。それに、エソ、イカ。ここでは、秋口の9月から正月までの間でも捕れんものはない。春はイカナゴ。」と言う。
 「イワシは、小島の海水浴場(ビワ首の砂浜)まで干していって、それでも干せいでね、馬島まで手押し舟で運んで干したほどよ。わたしらのたきよせ漁は戦後じゃからね。戦争(太平洋戦争)中は、年寄りと女性しか残っとらんから、海が荒らされてないので漁も多かったね。当時は、舟にエンジンが付いてないもんで、干しに行ったもんの(ものの)、潮によったらもんてこれん(帰ってこれない)。夜は夜で商売(漁)しとるでしょ。朝になったら捕れた魚を干さないかんし、馬島へ運ばないかん。これが夏中に何日もあったね。夏のことじゃけんね、どこでも影(日影)へ行って寝られるけど、油断すると、もんてこれん。」
 **さんが血気盛んな20歳ころの話である。漁獲量が多く、くらしは豊かであったが、夜の漁に加えて昼間の労働も苛酷(かこく)なものであった。かつては水先案内をした来島水軍の子孫とはいえ、海峡の急流と渦には勝てなかった。

   c 反流(ワイ)の効用

 **さんの話。
 「魚いうもんはね。じっとここ(漁場)におるもんじゃないからね。うちらで捕るのはみな燧灘(ひうちなだ)におるんじゃけん。それが流れてきて捕れるわけよ。今治の糸山と馬島の間の瀬戸(の流れ)をうち(小島)が真横に受けとるんじゃ。引き潮(北流)になったら、小島の胴へ潮がまともに当たるんじゃけんね。その潮を利用してたきよせ漁をやりよった。馬島の上から流れてきた潮が、いったん今治に当たって、ほいて(そして)今治からこっち向いて来るんじゃけんね。うちが、この瀬戸でじーっと手を拡げとるのよ。うちの島が。」なるほど、小島はたきよせ漁に最適の位置を占める。
 「いったん漁港に当たって、こっち向いて跳ねる(青灯台・間ノ瀬(あいのせ)方向)。一方はこっち向いて跳ねる(赤灯台・鴻ノ瀬(こうのせ)方向)。そしたら多少のワイ(反流)ができらいね。そこい魚がみな入る。磯がずんべらぼう(凹凸がなく平坦)でワイができんとこへは、潮を止めるものをこしらえる。波止(はと)のようなものをちょっとでええ(よい)。畳2、3枚のものを造れば、大けな(大きい)ワイができらいね。」
 そのような規模の小さい突堤(寄せ場)で、たきよせ漁が成立することを半信半疑と見てとったのか、青灯台を指さして、「今現在、灯台が一つついとるでしょ。あそこに磯が二つあるでしょうが。ここから流れて行った潮が磯へ当たって、両方へ分流して、反対側で合流するんです。その合流の内側へワイができるのよ。合流するいうても、まっすぐ潮が来るんじゃない。何百mかあらいとらい(あいている)ね。その間を利用して、言うしに(言われるように)じゃね、2はいなら2はいの舟、3ばいなり5はいなりの舟が、アンカー打って火を焚(た)くのよ。そしたら魚は火に寄らいね。それを陸(おか)へもって行って(誘導して)、火を消して抄(すく)う。陸へもって行かなんだら、沖じゃ捕れん。浅いところへもていたら、魚はたばにならいね。」

   d 魚種と抄網

 「なんぼこんまい(小さい)たも網(*3)じゃ言うても、舟へ取り込むのに、簡単には上がらんわいね。大きいのは直径が2mくらい、マツの枝をたわめて、直径3mのイワシ網をこさえて使いよったときもある。」
 たきよせ漁に使用する網は、魚種によって大きさも柄の長さも異なる。
 「浮(う)き魚(うお)」と**さんが言うエソやイカなどは、舟から離れているため、柄を長くした小型網ですくう。**さんは、父親と2人でエソを60貫(225kg)すくった記録がある。
 「一潮(ひとしお)が6時間、たきよせ漁は5時間ほどやる。旧株の前組と後組は1日交替で漁場を変え(*4)、舟の位置はくじ引きで決めてね。魚が多かったころ(昭和30年代まで)は。大きな船でも通ったら、イワシが驚いて砂浜へ跳ね上がりよったんよ。捕っても干場が足らいで、魚がおっても途中で漁をやめよった。」
 昭和20年代から30年代にかけては、たきよせ漁一本で生計が立った。「戦後のわしらの漁は、『お金やなんかは、沖へ出たら、いつでも釣れるんじゃが。』と言うてね。銭の有り難みがなかったわいね。」と**さんは言う。昭和初期の最盛期には、小島の収入の70%が、たきよせ漁によるものであった(⑦)。その後も、昭和40年代までは、「ここ(小島)の娘さんじゃったら。」と引っ張りだこであったほどに、くらしは豊かであったという。

   e 肥松(こえまつ)からカーバイト(*5)、電気へ

 「わたしには肥松(脂が多く、松明(たいまつ)に使用)の経験はないが、おやじらは肥松でやりよったと思う。この小島はマツが多うて、歩けんほど、マツの根がいぶしこぶしに(こぶ状にマツの根が盛り上がって)出とるんじゃけん。戦時中にカーバイトを焚(た)いたが、それまではマツじゃろ。」**さんのたきよせ漁は、燃料でいえば、アセチレンから電気へ移行した時代の漁法である。電気に変わっても苦労はあったようで、「バッテリーに変わると、今度は日に日に、充電のため重たいものを持って行かないかん。両手を広げたくらいの大きいものでね、たきよせ用のは。家の中に八つくらい置いとった。一つが12ボルトじゃった。」と言う。
 現在の小島にもクロマツやアカマツが見られるが、どれも若木でまばらにしかない。**さんの記憶に残る戦前のマツは、藩政時代から、かこう岩地帯の芸予諸島に一般に見られたマツ林(⑦)の一部が、砲台築造で軍が植えた、明治時代のマツ林より下層に残っていたものと思われる。小島では、たきよせ漁に使用する肥松を、一部は北条市からも取り寄せた。
 「焚くところは舟の胴の間よ。灰を盛っとってね。そこで焚いた。人間は、舟の前と後ろにおってね。」と言う。鵜飼い舟のかがり火とは違って、舟の中央で肥松を焚いた。**さんの場合は、アセチレンガスの灯を消したり、電球のスイッチを切って、たも網を繰り出したのである。

   f たきよせ漁は今も

 「いまだに、昔と変わらんのがイカナゴじゃね。これは回遊魚じゃのうて(なくて)自分らの州へ固定してしまうので、現在でも春になるとやるんです。小島は、この裏がね、波方(対岸の越智郡波方町)の沖からひっかけて(その延長が)、一帯が州でね。これは、言うしに、うちの組合の米櫃(こめびつ)じゃけん。砂を取らさなんだんよ。昔はね、今治から桜井の海水浴場は、春がきたらイカナゴをいっぱい捕りよった。それが、景気がようなって、海の砂をどんどん取るもんじゃけん、おらんようになったんじゃがな。」
 昭和30年代からの、高度経済成長期に、漁業の将来に展望がないこともあって、漁協によっては、「イカナゴ・イワシは組合員でも一部の者じゃ。砂なら、みんなに補償金が当たるんじゃが。」と大々的に、砂を取る方向へ傾いたけれど、小島の**さんたちは砂を残した。
 「お蔭でイカナゴだけは毎年捕れる。」と、今年(平成8年)も7月末まで、たきよせ漁を続けた。イカナゴ漁の漁場を地元では下(しも)の州と呼ぶ。**さんのほかには、イカナゴたきよせ漁も、桜井に2、3人を数えるのみとなった。

 (イ)砲台跡と自然体験

 **さん(今治市小島 昭和2年生まれ 69歳)
 **さんは、かつては小島漁協の組合長を務めた漁家であるが、現在は、ミカンや野菜づくりをしながら、小島の総代として島を統括し、砲台跡を訪ねる外来者の案内役もしている。
 小島には、南部砲台跡、中部砲台跡および北部砲台跡のほか、最高地点106.5mの司令塔跡をはじめ、発電所、弾薬倉庫、兵舎、井戸、浄化槽などの建造物が、ほとんどそのままの形で残っている。小島のことに詳しい**さんに、砲台を中心にした小島の話をしてもらった。

   a ツバキ参道

 三つの砲台跡を結ぶ遊歩道を、**さんは「ツバキ参道」と呼ぶ。
 遊歩道の入口に、昭和37年(1962年)に建設された「瀬戸内海国立公園 小島」の記念碑と、小島を紹介する看板が立っている。

   いにしえの海賊島の夜の灯を 遠くながめてなつかしみおり   吉井 勇

 歌人吉井勇ならずとも興味がわき、魅力を感じる島であると書かれた看板には、ロシア海軍に備えた芸予要塞の、第二の関門として小島に砲台が築造された歴史が記されている。だらだらと登る坂道は、公園を過ぎると平坦で、夏の日差しを遮(さえぎ)るツバキ並木が優しく人を迎える(写真1-2-15参照)。
 「この島も瀬戸内海国立公園に指定はされたものの、その後、道路沿いがやぶになってね。『砲台へ行くのに、どうにもならんが。』と言うて、今治から史談会や婦人会の方らが大勢来て整備されたんです。昭和40年代の後半じゃったと思います。この道そのものは、軍用道路でね。中央部の1.4m幅だけを、後で舗装したわけです。ツバキは、今治明徳短期大学の越智勇さんが、実生(みしょう)を一斗缶(いっとかん)へ入れて来て植えたのが最初ですが、『よその人だけに任しといたらいかん。』と、婦人会や地域の人らも一緒になって植えたんです。お蔭で、今治市役所からも苗木が届けられてでき上がりました。」

   b 砲台の爆破に至る経緯

 砲台は、明治30年(1897年、7年後に日露戦争開戦)、小島の最後の調査を終えて、直ちに築造に着手したが、完成までに10年近くの歳月と当時の金で30万円という巨費が投じられた(*6)と看板に記されている。その間に、海から空への戦術転換で芸予要塞は不要となり、大正15年(1926年)小島砲台廃止、翌昭和2年に波止浜町へ払い下げられた。**さんは、「大正11年の軍縮で廃止が決まった後(*7)、大正15年に、海軍の航空隊が小島砲台を標的にして爆撃演習をしたんじゃそうですが、どうも当たらなんだらしい。」と言う。
 **さんの著書『島守記 埋もれ木(④)』によると、大正12年11月末で軍隊を退役(たいえき)した父親が、妻と、小島砲台を処理するために来島した陸軍大将上原裕策と兵士たちを、馬島の**家で接待している。航空隊が、爆撃演習をしたときの、馬島側の記事があり、それによると、「退役早々、小島砲台を目標にした軍の飛行機による最初の爆撃演習があった時も、馬島が沈むほどやってきた多勢の兵隊に慕われた。島の城の台山頂に本部を置き、砲台を築いた当の上原裕策陸軍大将が指揮を執った。曹長あがりの**を信頼して何かにつけて相談したが、島に泊まり込んだ指揮官を接待した**の方をべたほめにほめて帰るという状態であった。」とある。また、上原大将が、「わしが精魂傾けて築いた砲台じゃ。爆撃で壊れてたまるか。」とも言っていたと、**さんは**さんから聞いている。
 こうして小島の砲台は、大正15年でその役目を終わったが、司令塔の爆破は飛行機の爆撃によるものではなく、来島した陸軍によって行われたのである。

   c 完全な形で残る砲台跡

 **さんは話を続ける。
 「発電所に使われたレンガはドイツのハンブルグから持って来た。建築様式も、当時最も進んどったドイツのものらしい。ほぼ完全な形で残っておるのは小島だけのようですね。
 弾薬庫は、分厚いコンクリート造りですが、雨水はもちろんのこと、湿気を除くような工夫が、床の溝にも天井の空気抜きにも見られます。
 伝声管はね、こちらからおらぶ(呼ぶ)と、今でも、向こうへよく聞こえます。堅固な石垣を上手にくりぬいて、司令塔から中部砲台、南部砲台、北部砲台へそれぞれつながっとるんです。陸軍工兵隊の精鋭が大勢来てやったんでしょうが、感心しまさい。」
 中部砲台跡からすぐ上に司令塔がある。道路から直角に石段が山頂へ伸びるが、86段の石段は段差が大きく、金属製の立派な手すりはあるものの、お年寄りにはきつい。「わき道があったはずじゃがと道を探しましてね、人が通れるように草も刈ってあるんです。」と**さんがいう山道も、道幅は広くて、軍用物資の運搬に使われたものと思われる。
 山頂の司令塔跡(写真1-2-17参照)へ上ると、爆破によって地上部が壊された司令塔は、今は分厚いコンクリート壁を残すだけであるが、その壁からは、いかにも堅固な構えが想像できる。
 全方位が一望できる司令塔跡は、**さんが草を刈り取った広場にベンチも置かれ、来島海峡や瀬戸内の島々が手に取るようで、ここからの眺めは飽きない。
 眼下の西水道を挟んで北東に位置する馬島、西水道の中空に張られた3本の送電線とそれを支える紅白の2基の鉄塔は、馬島と小島が、くらしの中でしっかりと結ばれていることを示すようである。

   d 小島は黒土、馬島はメブトズナ

 **さんは、小島の海辺で遊んだ子供のころを思い出して、菊間(越智郡菊間町)へ運ぶ瓦土(かわらづち)の掘り出し風景を話した。
 「この小島と来島、津島(越智郡吉海町)もそうじゃね、大体が瓦土というか、黒土なんよね。波方(なみかた)(対岸の越智郡波方町)の農家のおいさん(大人)が来て、ユングリ(わら縄をクモの巣状に編んだもの)を担いだり、おそがけには(後には)タイヤの付いた大八車に泥(粘土)を入れて、船へ積み込んでね、菊間へ行きよったんじゃがね。」
 黒土というのは、菊間型と呼ばれる片状(へんじょう)花こう閃緑岩(せんりょくがん)を指し、粘土質である。
 南部砲台跡の丘の真下に民家がある。集落の中では山手の一軒であるが、背後の切り立った崖(がけ)は瓦土を掘った跡で黒味を帯びている。
 「その点馬島のはメブトズナいうてな、保水力が弱く地力もない。対岸の糸山から馬島、大島の館山(たてやま)へひっかけて、この西水道で分かれとる。」と言う。「そんな加減でね、糸山、馬島、大島の館山の辺りはヤマツツジが自然に生えるんじゃがね。小島にも、何ぼか(いくらか)はひょいと目にかかるけんど、植えたものですよ。」と植生にも話が及ぶ。
 また、小島港桟橋左手の砂浜では、銀砂(ぎんずな)と呼ばれる砂の中から、黒く光る砂鉄をより分ける仕事をした人もいたようである。瓦土と呼ばれる小島の黒い粘土は、鉄分によるものであった。

   e 観光とイベントの島

 昭和40年代に入って、小島の漁業は、たきよせ漁の不振に加えて一本釣りも次第に衰退していった。漁船・漁具の発達、とりわけ網漁業が盛んになるにつれて、資源としての魚が減ってしまった。**さんは、遊漁船の増加が衰退に拍車を掛けたと言い、**さんは回遊魚の減少を指摘する。
 そのころ、造船業界が空前のブームを迎えたこともあって、小島には漁船から通勤船に乗り換えた人が多い。男にも女にも働き口があった。「75歳以上が13人おる。」と**さんがいう小島の人口は、平成8年現在45人である。高齢化が進み、後継者問題で悩むこの島にあって、「年金のお蔭でね、くらしに困らんのよ。」と言うのは、造船所などへ勤めた人たちであった。
 今は、豊かで平穏にくらしている小島であり、父祖伝来の島を守って果樹園や菜園も生き生きとしている。むしろ、漁港や漁場も、以前よりは整備されて、人を待っているように思える(写真1-2-18参照)。
 そんな小島に、新しい風が吹き始めた。
 子供たちによる『世界環境サミット』が平成7年に開かれ、続いて今年(平成8年)は『子供の自然体験教室』である。
 **さんは、環境サミットを振り返って、こんな話をしてくれた。「あの時は、ケニアからも子供が来とった。外国の子供は、腹の底から他人を受け入れるような行動をとるねー。日本の子供がみな外国の子供の所へ寄って行くんじゃが、みなを受け入れる。ええ。拒否反応なんか全然ないけんね。そこらを日本人もこれから学ばないかんと思うねー。」
 今年8月3日に、波止浜観光港から出航した朝の第二くるしま丸へ、23人の学生が乗り込んできた。H大学のワンダーフォーゲル部の一行で、後輩たちがせっせと鍋釜・食料を運び込んだ。**さんは、「あそこは毎年来よる。電話をかけてきてね。K大学も来るんですよ。」と言う。小島の総代さんは、どうも連絡先になっているようである。「竹原からフェリーで来れるからね、波方へ。」という好位置に小島はある。
 小島港の桟橋左手に「風の顔ランド」がある。木造りの事務所風の店であるが、人影がない。一山越えた裏の海岸へ移動して、シーズン中(春~秋)は、キャンプや自然体験教室の世話をしているとのことであった。
 帰路の第二くるしま丸を待つ小島港の桟橋へ、地元今治市の海洋少年団が集結した。キャンプ場から引き揚げてきた子供たちは、特船2はいに分乗するほどの人数であった。
 毎日新聞(平成8年12月6日付)の、「風の顔ランド・小島」の紹介記事によると、厚生省から自然体験ゾーンに指定されて2年目とのことである。指定のねらいは、「子供の王国」をつくることで、「70人の子供スタッフがイベントの運営を支えている。」という事務局長さんの談話が載せられている。全国で3か所しかない子供の野外施設の一つである。
 「風の顔ランド」に指定されて2年目の今年、夏休みには北海道、東京、大阪などから家族連れなど約4,000人が小島を訪れ、高齢化の進む小島に、元気な子供たちの歓声が響いたと報じられている。
 波止浜観光港から船で10分の小島には、ツバキが咲くころの散策、夏の海水浴、秋の自然体験と、イベントの島として生きる道がある。その中で、砲台の遺跡に加えて、たきよせ漁や島に伝わる民具を生かすことができれば、小島が島ごと、若者の受け皿になれるのではないだろうか。


*3:竹・木などの骨組みに網を張った小型の抄網。水中の魚を抄い上げるのに使う。たもとも言う。
*4:株組織で3組19株(旧株が前組6株と後組5株、新株が間・木谷組8株)となっており、旧株の前組と後組は鴻の谷漁
  場と大谷漁場を1日交替で使った。
*5:炭化カルシウムCaC₂の俗称。これに水を加えてアセチレン(気体)を造り、灯火用、溶接用などに利用された。CaC₂
  (カーバイド)+2H₂O→C₂H₂(アセチレン)+Ca(OH)₂
*6:明治33年(1900年)に北部砲台は完成した。他の砲台や付属施設など、すべての完了までには長期を要した。また、当
  時は人夫の賃金が27銭、石垣の石1個が3銭であった。軍の機密として上原裕策工兵中佐(後の上原元帥)は、土木屋の
  姿で人夫を指揮したと記されている。
*7:大正11年閣議決定、同13年大蔵省へ移譲、同15年爆破(**さん談)。

写真1-2-11 たきよせ漁で生計が立った小島

写真1-2-11 たきよせ漁で生計が立った小島

山腹斜面にはミカン園、菜園が広がり、遊歩道を歩くと、砲台の島の印象が強い。平成8年10月撮影

写真1-2-15 ツバキ並木の遊歩道

写真1-2-15 ツバキ並木の遊歩道

1.4m幅の道は舗装され、下草が刈り取られて、道の両側にツバキが続く。平成8年8月撮影

写真1-2-17 司令塔跡

写真1-2-17 司令塔跡

表示板が北の方位。石段を上がり切った場所に、北を示す方位板がはめ込まれている。平成8年8月撮影

写真1-2-18 小島観光案内

写真1-2-18 小島観光案内

平成8年8月撮影