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愛媛の景観(平成8年度)

(2)開拓第二世代の活躍

 ア ダイコンとササユリ

 **さん(東宇和郡野村町大野ヶ原 昭和24年生まれ 47歳)
 酪農家の多い大野ヶ原にあって**さんは、ダイコンと花卉の専業農家として、大野ヶ原の将来に大きな夢を描いている。

 (ア)大野ヶ原に残る

 「わたしは、北宇和郡三間町で生まれ、昭和35年(1960年)小学校5年の時に、父母に連れられて大野ヶ原に来た。すでに道もつき、電気もきていたが、道は石灰岩をたたき割って敷きつめただけで、下駄では歩けないような道だったのを覚えている。当時はまだ、勉強よりは家の手伝いの方が大事という空気が強く、よその畑と比べてどうもうちの畑が遅れていると思うと、学校を休んで家を手伝った。何日間も続けて休み、学校へ行く方が珍しいようなときもあった。畑ごしらえから始まり、とにかく何でもやった。
 わたしは長男だったので、昭和40年(1965年)中学校を卒業すると、そのままここに残った。同級生11人のうち残ったのはわたしだけで、あとは2人が進学し、残り8人は県外に就職した。当時の大野ヶ原は酪農もすでに始まっていたが、ほとんどの家は、ダイコン栽培が中心で、酪農の方は拡大中という感じだった。したがって、平地は主にダイコンを作り、牧草は傾斜地で栽培し鎌で刈っていた。やがて草刈り機が入り始めると、石灰岩の露出する傾斜地では作業に支障が出ることから、次第に平地に降りるようになり、ダイコン畑が牧草地に変わり始めたように思う。前後して牛の数も増えてきた。
 わたしのところでも、畑はほとんどがダイコンで、ほかに少しだけ自家用の野菜を作っていた。中学校を出たとき、わたしのところも乳牛を導入した。しかし、酪農専業でやっていくためには規模の拡大が不可欠なことや、わたしが酪農に向いていないということなどを考えて、父はやがてダイコン一本に絞った。」

 (イ)ダイコンを柱にして

 「わたしは、父が60歳になったのを機に、あとを弟にまかせて、昭和51年(1976年)独立した。当時はわたしも血気さかんだったので、『おまえの好きな通りにやってみよ。つまづいて痛い目に会ったら、わかるだろう。』くらいの考えが父にはあったのではないかと思う。
 ダイコンは連作障害が出やすいということで、それに替わるものとして、夏野菜や花木などをいろいろ試してみた。しかし、病気に対して抵抗性のある品種が出始めたことや、畑を休ませることで連作障害を緩和するような作型を確立することができたため、昭和50年代の後半ころには、ダイコンを中心にするのが一番有利であることがわかってきた。今は、ダイコンを3年作り、ほぼ同じ期間休ませるのが一番いいと考えている。品種改良が進み、連作をしてもある程度の品質のものはできるが、肌の照り具合や肉質など微妙な部分を考えると、どんなに連作しても3、4年ではないかと思う。
 ダイコン栽培がさかんだったころは、開拓農協が資材の調達からダイコンの販売までやっており、出荷先は、県内では新居浜からこちら、県外では高知がほとんどだった。畑から抜いたダイコンを道端に積み上げておくと、農協や青果業者のトラックが集荷してくれた。青果として処理できなかったものは、漬物用として松山などの加工業者に出した。わたしのところでも、昭和50年(1975年)ころまでは特定の市場を持たず、相場を追って方々の市場に出荷していたが、昭和53、4年ころからは松山一本に絞り込むようになった。このころになると、酪農がさかんになり、ダイコン専門は3戸くらいしか残っていなかったため、出荷は農協を経ず、自分たちでやるようになっていた。
 若いころは、作物は、全部自分が思い通りに作ったかのように考えていたが、最近になっていろいろなことが見えるようになり、自分がいかにごう慢であったかがわかってきた。農業は、あてがわれた自然の中で作物が育とうとするのを助けるということなのだが、そのころは、作物が何を本当に望んでいるのかということも考えず、まるで肥料をやった分だけダイコンが太るかのように考え失敗したこともあった。栽培マニュアルはあくまでも標準にすぎず、実際は経験やそこから導かれた勘に頼るところが大きいように思う。知識はスタートするための必要最小限のものではあるが、そこから先は自分の技術力の問題である。水をやるにしても、どの程度の水をやるかは、作物の状態、前後の気象条件等で一定ではなく、マニュアルどおりにいくものではない。知識があれば物ができる、と考えていたのは大きな錯覚(さっかく)だったことに、ようやく気がつき始めた。大切なのは経験だと思うようになった。」

 (ウ)ササユリにかける夢

 「ダイコンや野菜は、ほとんどが、9月、10月のわずか2か月間に出荷が集中し、それ以外はほとんど収入がない。しかも、天候や市場の変動によって、生産量や価格が不安定で、それだけに頼ることは大きなリスクを背負うことになる。また、平成4年ころからは、東北や北海道産のダイコンが出回り始め、いずれ本格的にそれと競合するようになるだろうという状況がはっきりしてきた。こうしたことから、農業が可能な4月中旬から10月下旬までの約半年間を有効に活用するための新しい農業経営を考える必要が出てきた。
 同じころ、経済連でも、夏野菜だけでは不安定だから、夏野菜プラス大野ヶ原に自生するユリ(ヒメユリ、ササユリ)を商品として開発していこうということになった。平成4年、150m²ほどのハウスが完成し、経済連の技術センターでバイオ増殖させたヒメユリやササユリの球根を植えた。同時に、ササユリは花が咲くまでに4、5年かかることから、その間をつなぐために大野ヶ原にふさわしい花の品種の試験栽培を始めた。平成6年には、県の補助を受け、雪に強いといわれるさまざまなタイプのハウス19棟(合計面積25a)を造り、様々な種類の花を試験栽培した結果、ここに適する品種、適さない品種をほぼ把握することができた。現時点では、オリエンタルユリとデルヒニウムを栽培の中心に置き(写真1-1-18参照)、将来はササユリやヒメユリを目玉商品にしたいと考えている。
 大野ヶ原は寒冷地であるので、ハウスが利用できるのは、4月から10月いっぱいがいいところである。暖房を使えば利用期間は長くなるが、それでやっと下の方の露地栽培に近づくだけのことなら、経費をかけて下と競争したところでたいした意味もない。大野ヶ原の冷涼な気候を活かして、夏の暑い時に下で作りにくいものをここで作るということを基本に、ハウスは雨や風対策だと割り切った方がいいのではないかと思う。
 現在、ハウスの中心になっているデルヒニウムは、冷涼な気候を好み、5月下旬ころから出荷が始まる。早生から晩生系まであり、しかも各株ごとに開花時期にかなりばらつきがあるので、管理の仕方によっては11月中旬までかなり長期間にわたって断続的に出荷することができる。ただ、この間コンスタントに出荷できるというわけではなく、また、相場の関係もあるので、デルヒニウム以外のものをとり混ぜる必要がある。
 オリエンタルユリは、自然状態では7月中旬から下旬にかけて開花するが、冷蔵庫などで抑制すれば、8月から10月まで収穫が望める。このようにオリエンタルユリは、ある程度収穫が計算できるというメリットがあるので、将来は、これをベースにして、デルヒニウムなどを加えていくことになるのではないかと考えている。
 ヒメユリとササユリは、去年(平成7年)あたりからやっと花が咲き始めた。去年は微々たるものだったが、今年は両方合わせて1,000本前後出荷でき、ある程度の評価を得ることができた。上手に作りさえすれば、採算ベースに乗せられるのではないかという手ごたえを感じている。ヒメユリは、オリエンタルユリの一歩先、7月上旬から中旬にかけて、また、ササユリは6月の中旬から下旬にかけて収穫できるので、うまく組み合わせると、6月の中旬からずっとユリの出荷を続けることができる計算になる。
 ヒメユリは、花が可憐で人気がある。暑さにも強く、適応範囲もある程度広い。ただ、病気に弱く、また、すでに東北の方で大々的に栽培されているので、それほど新鮮味や魅力はない。
 ササユリも人気がある。いいものであれば、いくらでも値を付けるという話も聞いており、上手に作れば間違いなく売れる。そのうえ、開花までに時間がかかりすぎるということと、適応範囲がせまく栽培がむずかしいということから、もし営利栽培に成功したとしたら、日本で最初だろうとも言われている。うまくいかず、これまで何回もあきらめかけたが、チャレンジするだけの魅力は十分にあると思う。
 ササユリのむずかしさは、まず、病気に弱いことである。露地だと、少し雨が続くと、葉枯れ病などの病気になる。また、ハウスでは、温度が上がるため花色(淡いピンク色)が出にくいという欠点がある。深い森の中などでは、ほとんど白に近いようなピンク色だが、ハウスの中では同じような色でも、輝き具合などが微妙に違い、全体の印象として白けた感じになってしまう。そして、このわずかな色の違いが単価に大きく響いてしまうし、もっと言えば、どうせやるのなら、最高品を作りたいという気持ちがある。増やすことと花を咲かせることは、ほぼ自信が持て始めたので、あとは、いかに自然の中で咲く色合い、あざやかさに近づけるか、そのあたりが今後の最大の課題と考えている。
 今は、農業者でも週休2日制にしなくてはならないと言われているが、夏場の農繁期には、寝る時間以外はほとんど仕事という日々が続く。毎朝5時には起き、朝食後、ハウスの換気と水やりをする。これが終わると、すぐにダイコンの収穫である。ダイコンは、6月の中旬から植え始め、以後、出荷時期を考えながら(収穫までに、寒い時期は約70日、暑い時期は55曰くらいかかる。)、最終的には8月の上旬まで作業を続ける。一方、収穫のほうは、8月のお盆明けから10月の中旬ころまで続く。夕方までダイコンを収穫し、午後7時ころから、片道2時間の道を松山の市場までダイコンを運ぶ。向こうで荷を下ろして家に帰ると、12時を過ぎている。朝から夜中まで仕事に追われていると、せめて、月に2日くらいでも休みがとれるようにしたいものだと思う。」

 イ 雄大な自然の中で

 **さん(東宇和郡野村町大野ヶ原 昭和31年生まれ 40歳)
 大野ヶ原でペンションなどを経営する**さんも、大野ヶ原の将来に、大きな夢を抱く一人である。

 (ア)大野ヶ原に帰る

 「わたしは大野ヶ原で生まれ、ここで育った。学生時代はここを離れていたが、卒業と同時に大野ヶ原に帰り、以来、ペンションや喫茶店、土産物店などをやっている。わたし自身、都会があまり好きでないので、卒業後もよそでくらそうという考えはほとんどなかった。今考えると、小さいころからここで一生を過ごすような気がしていたように思う。何かはわからないが、何かが体の中にあったのではないだろうか。
 わたしが物心がついたころは、すでに大野ヶ原には電気も水道もあったが、まだまだ苦しい家が多く、トラックの荷台で泣きながら去っていった友達もいた。同級生は4人で、そのうちの一人は、今こちらで酪農をしている。中学校3年の時にふもとの惣川(そうがわ)中学校に統合されたため、惣川で寮生活に入った。当時は惣川中学校は1学年2学級くらいの大きな学校だったので、いきなりそういう大きな学校に入ってけっこう大変だったが、いい経験になった。
 子供のときは、家の手伝いをよくした。昔はわたしのところも酪農をやっており、しかも父が開拓農協の組合長をやっていたので、母一人ではたいへんだというので、牛の世話をしたり、ダイコンの取り入れをしたりした。ほとんどの友達が、放課後は手伝いをしていたように思う。
 大野ヶ原の自然の中で遊んだ思い出も多い。今は、基盤整備などが進み、形が変わってしまったが、昔は自然がいっぱいで、そこの池(小松池)でも、トンボを取ったり、ドジョウをすくったり、ゲンゴロウをつかまえたりした。授業も、『今日は外で。』などと言っては、あちこちへ連れていってもらった。自然が教室であり、先生であり、とにかく、野山を駆けずり回っていた。
 今のペンションは、もう30年以上も前に母が始めた民宿(簡易宿泊所)が原点である。お客さんはリュックをかついだ登山者が多かった。中にひんぱんにやって来る大学生がいて、『大学の兄ちゃん』などと言って、甘えて遊んでもらいうれしかったのを覚えている。」

 (イ)自然を生かして

 「大野ヶ原の冬は、1mくらい積雪があり、毎日ほとんど氷点下の世界である。3月には雪が消え、4月の中ごろには緑が出始め、5月の連休ころには一面緑のジュウタンになる。冬がきびしかっただけにあざやかな緑は、待ち遠しく、一段と美しく感じる。秋は、10月の中ごろから紅葉が始まり、12月には初雪を見る。紅葉も美しいが、全山落葉したあとのセピア調のモノトーンの世界も何ともいえないよさがある。雪が降れば降ったで、またいい。このように、大野ヶ原には四季それぞれの良さがある。
 観光客は夏休みと春の連休、秋の土日に集中する。香川県や高知県からも来るが、半分以上は県内客で、そのほとんどが松山からである。リピーター(何度も来る客)も多い。大野ヶ原のおすすめスポットとしては、源氏ヶ駄場やブナの原生林などがあるが、観光の目玉になるほどではない。遊ぶ施設もないので、結局、牧草地が広がり、そこでみんなが農作業をしているような牧歌的な風景を見ながら、ゆったりと過ごしてもらえばいいのではないかと思う。わたしとしては、大野ヶ原の風景の中にヨーロッパの田園のような風景を見ることができ、ここに来ると、別世界に来たような気持ちになれる、ということにでもなればすばらしいと思う(写真1-1-19参照)。酪農をやっている友達などとも相談をして、牧草地でトラクターに乗ったり、牛に触れたりする場を作ることができないかと考えている。ここは、工夫をすれば、絵になるような風景を作ることができるところだと思う。
 かつては、酪農と観光の間には、糞尿の問題など、いろいろな問題があったが、最近は、酪農家の方でも、観光の方をやるところがぼつぼつ出始め、仲間ができつつある。酪農がここの主産業だから、糞尿を畑にまくなとは言えないが、最近は、お客さんの多い時期は避けるようにするなど、考えてもらうことが多くなってきた。
 大野ヶ原は、一晩中眺めていてもあきないほど星がきれいである。少し高いところに上がると、自分よりも低いところに星が下りてきて、まるで宇宙遊泳をしているような感じになる。泊まり客が少ないころには、お客さんといっしょに星を見たりしていたこともあったが、今は忙しくなり、そんなこともできなくなった。夏休みなどはほとんど満員で、本当にしんどい。一時は、泊まりはやめようかと思ったこともあるが、『よかった。また、来る。』などと言って帰ってくれるお客がある以上は、泊まりを続けようと、今は考えている。あまりばたばたせず、余裕をもって仕事ができれば、理想的である。
 わたしも子供が一人いるが、大野ヶ原で子供を育てる(*37)ことについては、いろいろ考えるところがある。健康的には最高の環境だと思うが、人にもまれることがないだけに(現在、わたしの子供と同い年の子は一人もいない。)、いずれ苦労するかもしれないという一抹の不安がある。大きな学校は、大きな学校でそれなりに苦労はあろうが、いろいろな面で、選択の余地は残しておいてやりたいと思う。最近、子供の将来について、いろいろと考えるようになった。」


*37:現在、大野ヶ原小学校は、学級数3、児童数7。また、惣川中学校は、学級数2、生徒数12となっている(平成8年
  度)。

写真1-1-17 収穫されたダイコン

写真1-1-17 収穫されたダイコン

左の機械はダイコンの清浄機。平成8年11月撮影

写真1-1-18① **さんのハウス群

写真1-1-18① **さんのハウス群

一番左のハウスに残っているのは、収穫の終わったオリエンタルユリ。平成8年11月撮影

写真1-1-18② デルヒニウム

写真1-1-18② デルヒニウム

平成8年11月撮影

写真1-1-19 **さんが夢をかけるポニー牧場

写真1-1-19 **さんが夢をかけるポニー牧場

しゃれた建物が、ヨーロッパ風の牧歌的な風景を演出している。平成8年11月撮影