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愛媛の景観(平成8年度)

(2)仰ぎ見る山②

 イ 山を下りた人々-季節宿黒川の移り変わり-

 **さん(周桑郡小松町妙口 大正4年生まれ 81歳)
 小松町石鎚地区(旧石鎚村)の黒川は、石鎚登山道に沿った集落で、かつてはお山市の期間中に季節宿(民宿)を開いてにぎわい、わずか10日の間に1年間の経費を稼(かせ)いだといわれている。しかし、昭和30年代から40年代にかけて、人口が激しく流出し、現在は完全に地図上から姿を消してしまった。**さんもふるさとを離れた人の一人である。

 (ア)御神体の奉載

 「わたしは上黒川で生まれ、昭和25年(1950年)までそこでくらした。それから、石貝(いしがい)に下り、昭和48年(1973年)の12月、現在住んでいる石鎚団地に移った。
 黒川ではお山市前日の6月30日、氏子の青年団員が朝早く行場で水垢離をとり、白装束に身を固めて西条市の石鎚神社まで御神体をお迎えに行った。御神体は神輿(みこし)に載せて担いで帰り、夜は黒川の八妙神社にお泊りいただいた。石鎚山の御神体には、『仁』、『智』、『勇』の三体があるが、黒川がお迎えしたのは、青い幌をかぶせた神輿に載せられた『智(*17)』だったと記憶している。今宮と西之川でも、氏子の青年団の若者が御神体をお迎えに行き、夜はそれぞれの集落でお泊りをいただいた。
 翌7月1日は、朝早くたって成就まで御神体をお連れした。そこから先は、信者が運んだ。帰りも成就までお下がりしたのを、11日の朝お迎えに行き、石鎚神社までお運びした。石鎚神社までは、黒川から河口に下り、県道(大正14年〔1925年〕に開通)を歩き、黒瀬峠を越えて行った。帰りも同じ道を通った(*18)。黒川から片道だいたい4時間かかった。みんな若くて元気で勢いがあったが、神輿は重かったので、神様でも乗り移っていないとできないことだった。」
 石鎚神社から成就社までの神輿渡御(とぎょ)は、昭和43年(1968年)8月石鎚ロープウェーが開通するまでこの形で続けられたが、昭和44年からは今宮道、黒川道、ロープウェー道の3コースとなり、さらに、昭和46年からは、三体ともロープウェー道を利用することになった。今宮、黒川道が、ロープウェーの開通により利用者が激減し、同時に両集落の過疎化が著しく進行し、季節宿もわずかに今宮に残るのみとなったためである(③)。

 (イ)お山市のにぎわい

 「黒川には、6月30日の夜から、お山市のお客さんが泊まり始める。当時はすでに鉄道(大正12年〔1923年〕伊予西条・壬生川(にゅうがわ)間開通)もあったが、備後(びんご)や備中(びっちゅう)など中国方面からの参詣者は、氷見(西条市)の新兵衛港まで船で来る人が多かった。黒川を翌朝暗いうちに出発すると、山頂の頂上社にお詣りし、その日の夜の船で帰ることもできた。
 黒川には20ばかりの季節宿があった。わたしの家も、『西屋』という屋号で季節宿をしていた。講(*19)には常宿というものがあり、何百年来、泊まる宿は全部決まっており、毎年先達に率いられてやってきた。家の中に泊まれる人数は、だいたい60人くらいがいいところだったが、無理をすれば、100人くらいは泊まれた。しかし、それ以上になると、むしろやござを敷いて外で寝てもらわねばならず、それはもうたいへんなものだった。
 朝晩の食事は宿で出した。いわゆる一汁一菜(いちじゅういっさい)で、ごはんとみそ汁が主だった。朝は3時ころから立つ人もおり、ほとんどが暗いうちに出発した。だから、季節宿をやっている家では、ほとんどの者が夜は寝られず、お客が立ってから寝るような状態だった。
 お山市のときは、宿をしている家は家族総出だった。子ども時分には、お客の到着時間に合わせて、河口あたりまで屋号を書いた提灯(ちょうちん)をもって迎えに行ったりもした。また、お山市の間は、黒川でも2つ、3つ、店が出て、おみやげのニッケやダラスケ(ダラニスケ)をはじめ、シャクナゲ、掛軸、杓杖(しゃくじょう)などを売っていたので、よくお客に頼まれて、そんなものを買いに走ったりもした。このように忙しい時期であっても、昔から、生理の女性は、集落のはずれにあるヒマヤにこもり、家には立ち寄らないという風習があった(*20)。お山に来る人はみんな身を清めて来るのだから、生理の女性は不浄で畏(おそ)れおおいということだったのだろう。」

 (ウ)旧石鎚村の集団移住

 「昭和48年(1973年)から50年にかけて、旧石鎚村からの集団移住により小松町北川に石鎚団地ができ、現在(平成8年)までに36戸が移ってきている。
 昭和30年(1955年)に小松町、石鎚村、石根(いわね)村が合併し、現在の小松町ができた。以来、石鎚地区では、『石鎚農林業振興会』を作り、『山を愛し、山に生きるため』の努力を続けてきた。わたしも町会議員として、山を守るため、できるだけの努力をしてきた。リンゴの栽培を試みたり、高知県へお茶栽培の研究に行ったり、和歌山県へ梅の研究に行ったりした。また、栗や養蚕などを取り入れたりもした。しかし、どれも決定打にはならず、過疎化をくい止めることができなかった。特に高校への進学率が上がるにつれて、下宿代や教育費がかさみ、現金収入が必要となり、山の生活を維持できず、町に出る者が増えた(図表1-1-9参照、写真1-1-5参照)。若者が残るだけの魅力ある職業がなかったのも、人口の流出に拍車をかけた。
 このような状況の中で、集落崩壊が目前に迫った昭和45年(1970年)から3か年の歳月をかけて、10数回にわたり、自力更生、へき地開発、過疎対策のための地区住民による真剣な協議が行われた。その結果、昭和47年(1972年)5月6日、石鎚地区集落再編成協議会の総会において、ほぼ次のような決議がなされた。

 ・石鎚地区は、観光地としては適するが、住居地としては不適との結論に達した。
 ・したがって、先祖伝来の山林、農耕地等は、夏山冬里方式により、季節造林、通勤耕作により、へき地住民としての宿命を
 悟り、天与の使命に答えるべく努力する。
 ・時代に順応して子孫繁栄と福祉を守るため、第二の石鎚地区を小松町北川に建設することにし、その目的達成のため、町を
 通じて県や国に働きかける。

 わたしは、集団移住はみんなの総意で行われたと思っているが、結局のところ、みんなに山を出ようと決断させたものが何だったのかは、今もわからない。町へ出るのに何時間もかかり、朝早く山を出て、夜遅くなってやっと山へ帰るような状態のときでも、だれも山を出ようなどとは言わなかった。それだけに、先祖代々守ってきた山や土地を離れるということは、みんなにとってたいへんな決断だったと思う。人それぞれに、理由があったのだろうと思うが、何とか辛抱をして山にがんばっていたら、花も咲き、実もなるという見通しがあったら、決して出なかっただろう。その見通しが得られなかった以上、やむを得なかったのではないかと思う。しかし、わたし自身は、集団移住の推進者として、ずっと責任の重さを感じ続けてきた。山を離れたことがよかったかどうか、それは歴史の審判にまかせなければならないと、わたしは思っている。」

 ウ 山里の灯を守り続けて

 **さん(周桑郡小松町石鎚中村 大正14年生まれ 71歳)
 旧石鎚村(以下本項では石鎚と記し、石鎚山はお山と記す。)から人口が激しく流出する中で、**さんは、母親の**さん、妻の**さんとともに今もふるさとにとどまり、毎日お山を仰ぎ見ながら、山里の灯を守り続けてきた。

 (ア)山の畑の一年

   a 焼畑の村

 「石鎚は畑ばかりの村で、藩政時代以降、主食用としてはアワやヒエ、トウモロコシなどが、また、換金用としては茶、コウゾ、ミツマタなどが、主に焼畑で栽培されてきた。
 わたしたちの若いころは、まだ、かなり大がかりに焼畑が行われていた。焼畑の火入れは、春は5月中ごろ、秋は8月の終わりごろに行われ、そのあとに、ソバやトウモロコシ、アワ、ヒエなどが植えられた。ソバは収穫が早いし、大がかりな仕事ができたので、焼畑には適していた。3年くらいたつと、作物のできが悪くなるので、ミツマタを植えた。ミツマタは3年ごとに収穫できるので、2回くらい収穫し、そのあとは放置しておくか、杉を植えるかした。杉を植えたあとも、5、6年の間は杉が小さいので、ミツマタがとれた。放置された焼畑は、10年か15年たつと雑木林になり、再び焼畑として利用できた。
 焼畑の最盛期には、標高800mくらい(**さんの家は、だいたい600m)まで、焼畑として利用し、生活の糧(かて)を得ていた。中村地区には、個人の所有地と集落の共有地があった(*21)。10町(1町は1ha)以上ある共有地は、いつでも火が入れられるように全部雑木林のままで放置されており、土地が足りない家は、労働力さえあれば、いつでも共有地をただで借りて焼畑にすることができた。つまり、家族が多く、たくさんの食糧を必要とする家は、それだけ働き手も多いので、自分の土地が広くなくても、共有地を利用して生活できるようになっていた。逆に、家族の少ない家は、共有地までは手が出せないが、食糧もそれほど多くいらないので、自分の土地だけで十分やっていけたわけで、自然の摂理(せつり)を実にうまく利用した土地利用がなされていた。昔の人は賢かったと思う。
 石鎚では、昭和30年代の中ごろまで焼畑が続けられてきた。恒久的な財産となる植林事業と、日常生活に必要な焼畑をうまく組み合わせることによって、ここのくらしが維持されていたわけで、その組み合わせが崩れたとき、この地域の生活体系も崩れたのではないかと思う。焼畑が消滅したのは、直接的には、人口が流出し焼畑を続けることができなくなったためであるが、その裏には、山の労働力を平野が吸収し始めたという事情がある。町に出れば就職口があり生活ができるようになったため、条件の悪いところで作物を作る馬力と忍耐が人間の側になくなり、伝統的な農作業がすたれてきたのではないだろうか。」

   b 山の畑を耕す

 「今、わたしのところでは、1反(0.1ha)の畑と1町2反ほどの桑畑があり、小麦を中心にエンドウやソラマメ、バレイショ、それに夏作のトウモロコシやサツマイモ、サトイモなどを作っている。アワやヒエは栽培に手間がかかるので、今は作っていない。
 冬は、雪に降りこめられてほとんど冬ごもり状態で、農作業はできない。この時期は、熊で言えば冬眠期、人間の場合は安息の時期で、ほんとうに落ち着いて休むことができ、忙しいときには出てこないような知恵が出てくる。1年の段取り、腹づもりをするには最適で、ここでしっかりと1年の知恵をしぼっておかないといけない。
 薪や木炭を作るのも、主に冬の農作業のないときである。木炭は、昔はよく売れたので、貴重な現金収入源としてたくさん作っていたが、今は、自分のところで使うだけのものを小さな窯(かま)で焼いている。今は、何でも自分のところで使う分だけしか作らない。
 2月の末から3月になり雪が融けると、バレイショを植えたり、桑に肥料をやったり、麦の世話をし始める。4月になると、野菜やトウモロコシなどを植え付けるが、その時期は、昔から『モモの花が咲かんと、芽が出ない。』と言われており、4月10日前後である。5月は、除草や施肥(せひ)など畑の手入れで明け暮れる。肥料は今は化学肥料を使っている。6月になると麦刈りをし、すぐそのあとにサツマイモを植える。刈った麦は、このあたりは湿気深いので、梅雨が終わるまで屋根のあるところに干している。
 畑仕事とは別に、5月の中旬から養蚕が始まる。また、7月の下旬ころからは、お茶作りが始まる。
 8月に入ると、天候さえよければトウモロコシがとれ始める。収穫したトウモロコシは、家で食べたり親類などに配り、残りは乾燥させて保存する。昔は乾燥させたトウモロコシを臼(うす)でひいて、粗(あら)い粒状にしてごはんに混ぜたり、完全に粉にして団子にしたりして食べていたが、今はほとんどがにわとりの飼料になっている。
 9月ころになると、昔はソバを植えていた。家で打ったそばは混ぜものをしないので、太くて短く、売っているような細い上品なものではないが、素朴な味と香りがあって本当にうまい。だから、今も植えたいが、家から遠く離れた畑はイノシシに荒らされてしまうので、今は作っていない。この辺りには、イノシシ、タヌキ、ハクビシン、サルなど野生の動物がたくさんいる。去年(平成7年)あたりはさかんにやってきて、ひどい目に畑を荒らされた。山が雑木林であれば、動物たちもそこで生きられるのだが、人間がそこに杉を植えてかれらの生きていく道を断ってしまったのだから、いくら畑を荒らされてもこらえない(我慢しない)といけないと遠慮していたが、さすがにたまらなくなってイノシシを2、3頭捕まえた。それからは畑も荒らされなくなり、今はちょっと安気にしている(写真1-1-6参照)。
 10月になると、サツマイモ以外はすべて取り入れる。残ったサツマイモも11月の上旬には収穫し、そのあとに小麦をまく。昔はたくさん作っていたが、今は種子をとるくらいしか作らない。これで農作業はほぼ終わり、まもなく、冬が足早に山をかけ下りてくる。」

 (イ)蚕とお茶

   a 蚕を飼う
 
 「石鎚では養蚕は戦前から行われていたが、戦後の食糧難時代には、桑畑を作物畑に換えていったん休んでいた。しかし、ミツマタなどの換金作物がかんばしくなくなったため、昭和40年(1965年)ころから再開された。一時は、これで過疎化がくい止められるというような期待を抱いたときもあったが、養蚕農家の老齢化が進むにつれて、次第にやめる農家が増え始め、昭和55年(1980年)ころには下火になってしまった。
 わたしのところでも、最盛期には年に5回飼っていたことがある(春蚕(はるご)、夏蚕、初秋蚕(さん)、晩秋蚕、晩々秋蚕)。何とか過疎をくい止めなければ、という気持ちで辛抱をしていたが、人間の力には限度があって、今は3回がやっとである(春蚕、夏蚕、晩秋蚕)。
 春蚕は、5月中旬ころ大洲の飼育所から稚蚕(ちさん)(3齢になった蚕)が来る。それが6月上旬には繭(まゆ)になり、中旬には出荷できる。夏蚕は、7月上旬に蚕が来て、下旬には繭ができるので、8月に入るころには出荷できる。また、晩秋蚕は、9月の始めに来て、9月20日過ぎには繭になる。普通の作物では、植えて20日くらいで収穫できるものはないが、蚕はだいたい20日くらいで繭を作るので、その点、養蚕は勝負が早い。また、繭の出荷で仕事が一段落するので、農家としては魅力的な仕事だと思う。
 稚蚕は、1箱単位(卵で10g分、蚕で22,000匹分。このうち約9割が繭を作る。)で買い、最盛期には、1回に5、6箱の蚕を飼って、年に1,100kgの繭をとったこともあった。今は外国産の繭に対抗できる質の良い繭を作るように心がけているが、外国の安い繭にはどうしてもかなわない。価格も最盛期の半分以下で割にあわないが、一度休むと良質の繭を作る技能を失う恐れがあるので、毎年続けている。
 蚕は、世話をしたら、しただけのことがある。桑は1日に3回が標準だが、4回やれば、蚕が大きく育ち、それにあわせて大きな繭がとれる。この辺りは山間で日照時間が短いため葉がやや薄手で、平地に対抗しようとすると、なかなかたいへんである。しかし、平地に比べて気温が低いので、夏蚕や初秋蚕は、こちらの方が有利である。20日間だからと思い、一生懸命やっているが、平坦地と違い桑の運搬もしんどいし、蚕を飼っている時期は、一日中気が抜けずくたびれる。
 繭は、はじめは八幡浜市の酒六(さかろく)製糸に出していたが、その後、生産者に有利な野村町の組合製糸に出すようになり、さらに最後は大洲の愛媛蚕糸に出していた。それもなくなったため、一昨年からは高知県の方に出すようになった。」

   b 石鎚黒茶

 「わたしのところで作る茶は、『石鎚の黒茶』(黒茶)とよばれている発酵(はっこう)茶である。
 黒茶は、大正の終わりころまではよく売れていたので、換金作物として大きな地位を占めていたようであるが、その後、緑茶がはやるようになると、それに押されて次第に作られなくなっていった。特に昭和初期の大恐慌の際に、現金収入を得るため、国や県の助成によって製茶工場ができて緑茶の生産に力が入れられたこともあり、以後、黒茶は自家用として細々と作られるだけになった。
 黒茶は、製造の途中に2回の発酵過程を経なければならないので、緑茶に用いるような柔らかい葉では、発酵途中で溶けてしまい役に立たない。そのため、茶摘みは、葉が完全に養分を蓄えて固くなる7月下旬の土用の入り後に行う。摘んだ葉は蒸して柔らかくし(蒸熱(じょうねつ ))、1週間ほど桶(おけ)に入れて放置しておく(堆積(たいせき))。すると、葉の表面に白いカビが付き、自然に発酵する(好気(こうき)的発酵)。そこで、これを取り出して、手もみ(揉捻(じゅうねん))をしたのち、再び桶に入れ、今度は漬物のように重しをかけて空気が入らないようにして、2週間くらい置いておく(漬込(つけこ)み)。すると、この間に前とは違った発酵(嫌気(けんき)的発酵)が進み、黒茶が熟成(じゅくせい)される。最後は、天日で乾燥させて出来上がりである。
 黒茶作りには1か月近くかかる。昔の人は気長かったからできたのだろうが、今の時代にはあわず、今日摘んだら今日のうちにできる緑茶に変わってしまった。これも時代の流れかもしれないが、黒茶には独特の味わい(*22)があり、慣れるとそれが何とも言えずよくなる。また、体調もよく、今まで大病をしたことがないのも、この茶のせいではないかと思う。珍しいお茶だから売ったらどうか、と勧めてくれる人も多いが、わたしも年が年だから、いまさらそんなことをすることもないと思い、自家用だけしか作っていない。茶畑も格別の世話はせず、摘んだあとはほおっておいて、翌年また摘むだけであるが、それでも毎年葉が一杯出て、わたしたちや町に出た子供たちが飲むのには十分なお茶ができる。」

 (ウ)守り続ける民俗

 「わたしのところでは、正月元旦の朝、暗いうちにたいまつを灯(とも)して近くの谷に行き、水を汲(く)み(『水迎え』)、その水で雑煮(ぞうに)を炊いて、1年が始まる。
 2日は『打ち初め』。これは、いわば、農作業始めで、恵方(えほう)(その年の歳徳神(としとくじん)のいる方角)の畑を何鍬(くわ)か耕して、しめ飾りを立て、そのとき使った鍬や鎌などの農具を座敷まで持って帰り、お雑煮、数の子、豆、お神酒を供えて祭るものである。11日は『帳(ちょう)祝い』。これは、大きなお鏡(餅)を短冊(たんざく)型に切って雑煮を炊き、大福帳やそろばんなど計算関係のものを座敷に集めて雑煮やお神酒をあげるもので、『打ち初め』、『帳祝い』ともに生活に密着した行事である。
 15日は小正月。
 このほか、旧暦の正月の初卯の日には『麦ほめ』をする。これは、コウゾのからを網目に編んで(縦に4本、横に5本)恵方の麦畑に立て、『うねに千石(せんごく)、谷に千石』といいながら、麦の豊作を祈るものである。
 2月の節分の日には、豆を煎(い)り、升(ます)に入れて、おエベス(えびす)さんと大黒さんに供える。そのとき、なぜかわからないが、昔からのしきたりで豆の上にかまどの消し炭を3個入れる。また、夕方には、家の入り口の両脇で豆とヒイラギの葉と女の人の髪の毛をいろりの燠(おき)で煙らし、鬼が来ないように『鬼ふすべ』をする。
 この日はまた、いろりの縁に月の数(普通は12だが、旧暦の閏(うるう)年は13)だけ豆を並べ、その焼け具合でその年の天候を占う。黒く焼けると雨が多く、白いと日照りだと言われている。昔はどの家も、これをもとに農作業の段取りを考えていた。テレビを見ていたら、東北地方では、豆ではなく、かまどの燠の消え具合で、『白く消えたら天気。黒くなったら雨。』などとやっていた。どこも似たようなことをするものだと思った。
 5月5日は端午(たんご)の節句で、シバもちを作る。山のササやサンキライ(サンキラ)、カシワ、トチの葉でもちをくるんでお供えをする。コイノボリは、4月25日から立て始め、5月5日まで、毎朝夕上げ下ろしをした。ちょうど山の緑が濃くなってきたときだから、コイが鮮やかに空を泳ぎ、にぎやかで地域の勢いが感じられたが、今はそんな景色も見られなくなった。
 秋祭り(諏訪(すわ)神社)は、昔は10月20日に行っていたが、みんなが山を出ていってからは、祭りに戻ってきやすいように、11月3日に行うようになった。ふるさとには、何かやはり忘れられないものがあるのだろうか、かなり遠くから戻って来る人もいる。
 12月の末に正月飾りを作り、餅をつくと、1年が終わる。」

 (エ)お山さんに見守られて

 「江戸時代、中村には7戸の家があった。どの家にも屋号があり、わたしのところは、『大西』とよばれていた。昭和40年代になると、わたしのところ以外は全部、小松の方に下りてしまった(のちに入ってきた家があり、今は2戸が中村でくらしている。)。
 石鎚地区で人口が流出する大きな契機になったのは、昭和38年(1963年)の豪雪であるが、その後も、何かあるたびに人口が流出した。昭和52年(1977年)には、役場の支所と学校がなくなったが、特に学校の閉校は決定的で、子供のいる家は全部向こう(町)に引っ越した。閉校直前には生徒数も減り複式学級になっていたので、しかたないとも思うが、現在はもっと小さい学校でも残っていることを思うと残念である。あのころは、大きい学校で効率よく教育しようという時代だった。
 『なぜ、ここに残っているのか。』とよく聞かれるが、今の生活の魅力は、だれにも干渉されず、自分の思ったとおり生きていけることである。ここでは、自然にどっぷりつかって、季節の中に生きているわけで、自然が友達であり、慰めてくれるのもまた自然である。太陽や月の出は、家の中からでも全部見え、太陽の出る位置が日を追うごとに変わるのを目で追うこともできる。こんなことは、町の生活では無理だろう。まあ、自然と言うものは、いつも同じ姿を見せているようで、人を退屈させない。人工的なものは、最初はすごいと感じてもすぐに退屈してしまう。自然と人工の間にはそれだけの差がある。
 ここのくらしには、ほかでは得られない安らぎがある。それさえあれば、そこから先のことは何とかなるものだ。その安らぎを与えてくれているのが、お山さんである。昔は、霊峰としておごそかで近寄りがたい雰囲気がお山全体に漂っていたし、今でもやはり普通の山とは違う荘厳さがある。そのお山が見守ってくれているということは、わたしにとって最高の後ろ楯だと思う。町には、便利過ぎるゆえに、わたしとお山を隔てる何かがあるように思う。
 桑園と1反の畑があれば、わたしたち3人が食べるのにほとんど心配はいらない。お山さんに見守られて、ほかに何の心配もいらないのだから、ここを離れる理由は何もない。」


追記 **さんのところでは、平成8年10月6日、母**さんが永眠され、現在は奥さんと二人ぐらしである。
   また、石鎚黒茶については、その伝統を守りたいという人がいるので、講習会をしてほしいという要望が県の西条農業改
  良普及所からあり、平成9年に製茶の講義と実習を行うことになった。


*17:「仁」、「智」、「勇」の御神体は、それぞれ、赤、青、黄の幌をかぶせた神輿に載せられて運ばれる。
*18:県道が開通するまでは、河口からは加茂川の右岸を細野、千野々と歩き、千野々橋で加茂川を渡り、今度は左岸を大保
  木、黒瀬上ノ原と歩き、黒瀬峠をこえていたものと思われる。これは、後述する中国地方から氷見を経由する参詣者の登山
  コースでもあった(③)。
*19:「お山講」とよばれる石鎚山の信仰組織で、江戸時代初期に各地に成立したと考えられ、講を中心にして、先達に率い
   られた一般庶民の石鎚登拝がさかんになった(⑫)。
*20:黒川では、自宅のヒマヤだけでは万全を期しがたいということで、数キロ離れた有永のヒマヤまで退かせていたとも言
  われている(⑦)。
*21:石鎚地区でも、中村以外の集落では、共有地を早い時期に個人に分割していた。
*22:黒茶には、乳酸やコハク酸、酒石酸などの有機酸が多く含まれており、独特の味を生み出している(⑭)。

図表1-1-9 小松町の地区(旧村)別人口の移り変わり

図表1-1-9 小松町の地区(旧村)別人口の移り変わり

昭和30年(合併の年)を100とする。『小松町誌(⑩)』ほかにより作成。

写真1-1-5 黒川に残る廃家

写真1-1-5 黒川に残る廃家

平成8年9月撮影

写真1-1-6 **さんの畑

写真1-1-6 **さんの畑

収穫を前にしたサツモイモ畑には獣よけの綱がかけられている。平成8年9月撮影

写真1-1-8 中村地区に残る石鎚山の遥拝所

写真1-1-8 中村地区に残る石鎚山の遥拝所

地域の人々の石鎚山に対する深い心が伝わってくる。平成8年5月撮影