データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

臨海都市圏の生活文化(平成7年度)

(3)自動車の運転士になりたくて

 **さん(宇和島市丸穂町 大正7年生まれ 77歳)
 **さんが子供のころは車が非常に少なかったが、小学校を終わるころから自動車の運転士にあこがれていたと言う。そんな少年が、夢をかなえるために宇和島に出てきたいきさつから、聞かせてもらった。

 ア 高知県から自転車こいで宇和島へ

 宇和島市は西南四国の中核都市で、宿毛(すくも)市(高知県)よりももう一つ上という感じだったので、昭和10年(1935年)18歳のときに、高知県幡多(はた)郡三原村から自転車で宇和島まで出てきました。そして、運転免許を取るために、宇和島市本町の山下タクシーに入社し、助手となったんです。タクシーは宇和島市全体でも16、7台くらいで、昼間はお客さんが少なく、夕方からは、築地や北陽(ほくよ)(今の御幸町)にあった花柳界に向かうお金持の人を多く運んでおりました。
 助手になって3か月が過ぎたころ、鮎返滝(あゆがえりのたき)(宇和島市から広見町に向かう途中の、須賀川沿いの難所)で、山下タクシーの車が75間(けん)(約135m)下の谷に落ちまして、お客さんと運転士が死に助手だけが助かるという事故を目の当たりにしたんです。当時の道はすごく悪く、狭くて舗装もしていない状態でしたので、「自動車にあこがれて入社したものの、うかうかしよったら命がなくなるな。」という感じを持ったことを覚えております。
 そのころの乗用車は、スペアシートを取り付けた6人乗りの大型で、左ハンドルの外車ばかりでした。運転士は運転に専念し、助手が客扱いを行います。助手席で運転士の操作を見よう見まねで覚え、1年後くらいから車庫の入れ出しをやらしてもらうんです。年に数回しかない運転免許の試験を2年足らずで合格し、みんなびっくりしておりました。
 この免許ではお客様を乗せて運ぶことはできませんし、自動車を運転できる人の数が不足しておりましたので、「就業免許」(現在の二種免許に相当)が取れるまではトラックなどに乗ったりしてすごし、やっと就業免許試験の合格通知が届いた直後にこの制度は廃止になったんです。そして、昭和14年(1939年)5月に今の宇和島自動車に入社しました。

 イ 木炭車に改造したバスを松山から回送

 バスと言っても、アメリカでは乗用車として使っている「フォード」や「シボレー」がほとんどでした。日本へ持ってきてシャーシー(車体を支える台の部分)を延ばし、大きなボデーを乗せて、「コマーシャル」という10、11人乗りのバスに改造したのもありましたねえ。一番大きいんでも16人乗りくらいですが、それに3倍近い乗客を乗せて走るんです。
 そんな無理をしてますから、ボデーはまあまあしっかりしているんですが、しょっちゅう故障するんです。シャフトがよく折れるんで、御荘(みしょう)(南宇和郡)のほうへ行くにも、予備のシャフトやいろいろな部品を積んでおりました。途中で故障したら、お客さんを乗せたまま、下へもぐり込んで、自分で修理をしたもんです。
 昭和13年(1938年)ころから燃料も次第に乏しくなってきておりましたので、バスも、ガソリン車にガス発生炉(木炭からガスを発生させる装置)を取り付けて、木炭車に改造することになったんです。宇和島ではまだ改造することができなかったので、松山で改造し、宇和島へ運ぶために受け取りに行きました。簡単な説明を聞いただけで、夕方、松山の工場を出発しました。戻り始めてすぐ、松前(まさき)町(伊予郡)まで来たところで、もう走らないんですよ。
 エンジンがすぐ焼けて電装品が加熱され、コンデンサーがいかれて、点火プラグの火花が出ない状態でした。エンジンそのものはガソリン車のままで、木炭のガスで走らせようとするわけですから、なかなか調子よくは走りません。夜中の2時ごろ、やっと法華津(ほけつ)峠(東宇和郡宇和町から北宇和郡吉田町に向かう途中にある峠)の上までたどり着きました。
 1度エンジンを止めると、また最初から木炭ガスを発生させなければなりません。下り坂を利用してガスを発生させるのが効果的だったものですから、そこで車を止めて、法花津(ほけつ)湾(吉田町)の漁火(いさりび)を見ながら夜を明かしました。

 ウ 昭和18年の大水害

 宇和島~宿毛(すくも)(高知県)の幹線は、1時間~1時間半に1本くらいの割で、バスが走っていました。満員の乗客のほかに、新聞や映画のフィルム、小荷物など、急ぎのものは何もかもバスに依存しておりました。
 昭和18年(1943年)7月23日、宇和島の和霊さま(和霊神社)のお祭りの日でした。朝は、普通どおり宿毛行きに乗務し、昼の折り返し便で宇和島に向けて出発したのですが、城辺(じょうへん)まで戻ると、雨がどんどん、もう流れるように降っておって、営業所の近くの僧都(そうず)川が氾濫(はんらん)して、道路を洗いよったんですが、どうにか城辺営業所までたどり着きました。
 「とにかく、状況が全くわからない。宇和島発の下りのバスも、岩松を過ぎて何台かはこちらに向かっているらしいが、まだ全然入ってきていないし、連絡もとれない。どうも、柏か須の川あたりに止まっとるらしい。」ということでした。
 和霊さまのお祭りに行くお客さんも乗っとるので、状況を説明して、「宇和島まで行けるかどうかわかりませんが、どうしますか。」と確認をしたら、「まあ、行ける所まで行きましょう。」ということでしたので、城辺営業所を出発し、途中の停留所でも同じように説明しながら、「それでかまんのなら、乗ってください。」と言うて、進んで行ったのです。菊川(御荘町)の停留所で、近所で製材業を営んでいたOさん夫婦が乗ってきました。柏へ着くまでにも何か所か崩壊箇所がありまして、助士と二人でゴトゴトと石をのけたり、危ない所を通ってやっと柏まで着きましたが、宇和島からの車はおりません。次の須の川へ向かったものの、大きな土砂崩れがあって先へ進めません。菊川のOさんは、このまま城辺まで戻るように言われたんですが、安全に引き返す自信もありませんでした。柏の停留所は当時旅館だったので、食事の提供と乗客の収容を依頼することにして、柏まで戻ったんです。
 柏に着くと、停留所の端の小さな川が氾濫して、旅館の下に水が流れ込んでおりました。旅館の人が、「ちょうどよかった。早よ、手伝うて、畳上げてくださいや。」と言うので、お客さんもみんなで、どうにか畳を上げてね。やっと落ち着いて御飯をもろて食べたのは、夜の11時ころでした。「バスは、一番高い所に置いとこう。」と思って、農協の前に止めてありました。すると今度は、夜中に農協の倉庫が火事だと言うのです。旅館から見ると、車のすぐ後ろが焼けよるように見えたんで、大急ぎで車のとこへ行って、エンジンをかけて移動させたんです。いつ車を動かさないかんかわからない状態でしたから、木炭車のガス発生炉のエアーバルブを少し開けて、空気が入るようにしておいたんです。火種を絶やしてなかったのでエンジンはすぐにかかり、難をのがれることができました。
 翌朝、「柏からの船便は、当分だめ。」という以外の状況は、電話が不通で全くわかりません。7、8人いた乗客のうち、菊川のOさん夫婦は「柏から菊川は近いから。」と言って、歩いて戻ることになり、残りの人たちは、「状況がわかる所まで、歩いて進もう。」ということで、わらじや草履をいっぱい買うて腰につら下げて、8時ころ、歩き始めました。1か月ほどして聞いたのですが、Oさん夫婦は、菊川の自宅近くの橋で足を踏み外して二人とも流され、御主人は下流で木の株につかまって助かったそうですが、奥さんはとうとう死んでしもたそうです。
 宇和島に向かって歩き始めたわたしたちは、須の川で何台かのバスが止まっているのを見つけましたが、皆すでに歩いて避難したのか、だれも残ってはいませんでした。須の川近くでは道路が70~80mくらいごっぽり海に落ちて、影も形もない状態でしたから、山のほうを回ったりで嵐(津島町)へ向かい、急ぐお客さんはそこから船に乗り継ぎました。
 道路の状況を把握する必要もあったので、その後も歩いたわたしたちは、岩松(津島町)にたどり着いたのが夜の8時ころでした。岩松でも大水が出て、車庫に入れとった車がごっそり水につかってしまい、燃料の木炭は、ごんごん流れてしまいました。
 こうして、宇和島に帰ったときには、和霊さんの祭がすんでしもとりました。
 城辺から宇和島までの間に40か所以上も崩壊しとりましたので、半年くらいは通れないだろうと思っとりましたが、戦時中でしたから、「勤労奉仕」で人を動員して、たしか3、4か月で復旧しました。

 エ 戦争中はバスも疎開

 終戦間際には、海岸線を走りよったら、敵機の「グラマン」や「オートシコルスキー」が飛びよるのが見えました。それでも、自分の真上を飛びよるのは、案外気が付かないんですよ。木炭車で速度が出ませんから坂道をごんごん上がったり、でこぼこ道をガタガタ走りよるわけですから、騒音が激しいので、飛行機の爆音が全然聞こえなかったんです。それでも、幸い、バスが機銃掃射でやられたことはありませんでした。
 昭和19年(1944年)の宇和島大空襲(7月29日)で、住まいは焼けてしまったんですが、そのときも、何台かのバスがやられた以外は、あんまり焼けなかったんです。というのは、乗務を終えて車庫に戻ったら、バスに自転車を積んで郊外の広いところへ疎開させるんですよ。そして自分は、自転車に乗って戻るんです。発生炉を付ける改造をしないまま休車にしていたバスは、岩松へ行くトンネルの入り口の所に並べて疎開させとりました。