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臨海都市圏の生活文化(平成7年度)

(2)無煙化で、蒸気機関士はまぼろしに

 **さん(宇和島市神田川原 昭和14年生まれ 56歳)
 蒸気機関車からディーゼル機関車へ、国鉄からJRへという時代の流れにもまれてきた**さんに、国鉄に入った動機から語ってもらった。

 ア 改札係にあこがれて

 子供のときから、切符を切る駅の改札係にあこがれていました。昭和33年(1958年)の高校卒業のときに、松山まで試験を受けに行き、面接で「国鉄総裁はだれか。」と聞かれ、十河総裁の名前を知っていて答えられたことを覚えています。合格通知は届いたんですがしばらく採用の連絡がなく、8月になって突然、松山機関区に呼び出されたんです。
 最初は臨時雇いの「庫内手(こうないしゅ)」で、機関車磨きをしたり、ブレーキ用の砂を補給するために20kgくらいの砂袋を担いで機関車に登ったりしていました。手をよく洗っても、毛穴に黒い汚れが残ってしまうんで、市内電車に乗って街へ行くときに吊(つ)り革を握るのが恥ずかしかったのを、よう覚えとります。機関区は上下関係のはっきりした職場で、機関車を磨く場合でも、運転室などの楽な部分から、ボイラーの上、缶(かま)の中や車体の下回りまで、階級によって担当箇所が決まっていました。

 イ 「400ぱい投炭」の特訓

 昭和36年(1961年)に、善通寺(香川県)の教習所で3か月間、機関助士になるための研修を受けました。初めて「D51」が高知に入ったころで、四国の蒸気機関車は「8620」と「C58」が主流でした。
 ボイラーマンの国家試験に通らないかんので、毎日毎日、日に3回の「400ぱい投炭」の特訓がありました。400ぱい投炭というのは、「ワンスコ」(ワンは1kgに由来)と呼ばれるスコップを右手で持ち、1ぱい当たりおよそ1kgの石炭を、直径30cmくらいの穴(焚き口)から機関車のボイラーに見立てた1畳ほどの広さの木製の枡(ます)(ボイラーの火床(かしょう))の中へ投げ込む練習です。投げ込む位置が1番から50番まで決められていて、火床の表面積が最大になるように、平らに満遍なくくべるんです。それを覚えとらんとね、火床がでこぼこになって、効率よく燃焼させることができんわけよ。50番までを4回どおり繰り返すと(200ぱい)、手前は20cmくらいから奥のほうは5cmくらいの厚さで、石炭がボイラー全体にゆるやかに傾斜して広がっとるはずなんじゃけど、狭い焚き口から投げ込むんですから、なかなかねらいどおりにはいかんのです。教官がさし(定規)で測って、でこぼこじゃったら減点されて、80点以上でないと不合格です。これは、えらかったねえ(1日に投げ込む石炭の量は、1kgx400ぱい×3回=1.2t、ということになる。)。

 ウ 左右で異なる腕の太さ

 松山と西条の機関区を経て、昭和40年(1965年)10月に宇和島機関区に戻ることになりました。地元に帰れるのはうれしかったけど、前から「1,000分の33」勾配をひかえる線区じゃということは聞いとったし、宇和島への行き帰りには運転台の近くから線路の状態を見ながら「どうも、きつそうななあ。」という感じを持っとったので、不安でしたね。新しい機関区へ移ると、線路を全然知らんから、最初の1週間くらいは「見習乗務」で、その間に、蒸気を上げる所、惰行に移る所、カーブなどの線路の状態を覚えないかんわけよ。上りと下りでは全く違うし、予土線のほうには半径160~180mくらいの小さなカーブが多いんで、覚えにくかったねえ。
 勾配のきつい「山線」での仕事は、ある意味では想像したよりも楽でした。たとえば、宇和島から八幡浜まで(34.8km)の乗務の場合、たしかに上り坂は集中的に仕事をするけど、あとは火種を絶やさんように火床を整えて、松山機関区の乗務員に引き継ぐだけですからね。松山~西条(80.1km)や、西条~多度津(香川県)(81.6km)では、距離は2倍以上あるし、急勾配はないけど平たん線を高速で飛ばしますから平均的に石炭をくべ続けんといけんでしょ。向こうでは1乗務区間に1tちょっとの石炭を焚くんで、けっこうきつかったですよ。
 機関助士をやめてスコップを握らんなってからかなりになるけど、左右の腕の筋肉の太さは今でもだいぶ違いますよ。焚き口から缶(かま)の中に向いて、吸いこまれそうになるくらいゴーッと風があるんで、気を抜くと、ようスコップを取られそうになるんです。だから、手のひらの握る部分には大きな豆ができとったねえ。
 その当時は、予土線も通学客のほかに通勤客も大勢おって、客車4両つないで走るのが当たり前で、後ろに補機(補助機関車)が付きよった。今は、3両でもあまり乗りません。そう言えば、学生が中へ詰めてくれんし、ホームにおってなかなか乗らんので、助士が「早(は)よ乗らんか。」言うて怒りに行っては、発車しよったです。

 エ 無煙化で、ディーゼル機関車の機関士に

 国鉄に入った当時は「蒸気機関車、華やかなりしころ」で、「早よ、『機関士』の腕章をしてみたいな。」と思いよったし、まさか将来なくなるとは思ってなかったねえ。ところが、「そろそろ機関士になれるかな。」というころになって、戦後に外地から引き揚げて機関助士をしてきた先輩を優先して機関士に登用する「老年機関助士対策」が始まり、しばらくの間、若い者は機関士への昇進試験を受けらしてもらえなんだんですよ。「6年くらいしたら、受けられる。」ということで待っとるうちに、昭和41年(1966年)には松山にも「DE10(とお)」というディーゼル機関車が入ったり、だんだん無煙化が進んで、蒸気機関車の機関士への道は閉ざされてしまったんです。
 昭和45年、ちょうど四国の無煙化が完了した年、ディーゼルの機関士になるために、高松の鉄道学園で半年間の研修を受けました。機関車2種類(「DE10」、「DF50(ごおまる)」)と気動車(DC)の構造を全部覚えるのが、なかなかたいへんやったね。
 研修後、機関士として乗務するようになるのと同時に、助士が同乗する「二人乗務制」が廃止されて「一人乗務制」に変わったんです。機関士になったばかりでしたから、「ドッドッドッドッ」と不気味にうなる大きな「DF50」にたった一人で乗務して、夜中の貨物列車を引いて走るのは、よいよ気持ち悪うてねえ。「エンジンは、止まらせんやろか。機械の故障は起きやへんろか。」という不安でいっぱいでしたよ。
 『機関士』の腕章をして蒸気機関車を動かすことは、ついにかないませんでしたが、冬の「みかん列車」など、どの列車も思い出満載で、記憶の中を走り続けています。