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臨海都市圏の生活文化(平成7年度)

(1)あこがれの蒸気機関士に

 **さん(宇和島市新田町 昭和2年生まれ 68歳)
 小学校3年生のとき(昭和11年〔1936年〕)に父親が亡くなってから、**さんは「母一人じゃけん、国鉄に入らないけん。」と思っていたという。そして、小学校を卒業するときに先生からは広島の逓信(ていしん)講習所を受けるように勧められたが、『昭和鉄道講義録』を勉強して国鉄を受けた。あこがれの蒸気機関士への道をふりかえって、**さんに語ってもらった。

 ア 広島の鉄道教習所で迎えた終戦

 学科試験は合格したんですが、小柄だったせいか体格検査でけられて半年間待たされ、10月になって宇和島機関区の構内士として採用されました。
 半年ほど機関車磨きをしてから、機関助士の資格を取るため広島の鉄道教習所へ入ることになり、昭和18年(1943年)6月1日、高浜港(松山市)から吉浦(広島県呉市)に渡り、本州の汽車に初めて乗りましたが、機関車の大きかったことと駅に入ってきたときのスピードが早いのにびっくりして、「四国は井戸の中のかわずやなあ。」と感じました。
 軍隊と同じような厳しい訓練を3か月受けたところで、「戦時中であるから、輸送力増強のため、四国から来た者(もん)(31名)は、山陽本線の各機関区に配属となる。」と言い渡され、小郡(おごおり)機関区(山口県)で機関助士になったんです。本州を走る機関車は大型で、石炭をくべるスコップも両手で持つような「大(おお)スコ」でした。
 機関士に昇格する講習を受けるために、昭和20年(1945年)の6月から再び広島の鉄道教習所へ入っているときに、原爆投下の日(8月6日)を迎えました。教習所の生徒は市の中心部から5kmほど離れていたため難を逃れましたが、それでも、教室のガラスが爆風で全部割れるほどの大きな衝撃を感じました。終戦の日(8月15日)を過ぎた8月27日に卒業して小郡機関区に戻ったんですが、ぼつぼつ戦地から機関士が引き揚げてきたので、山陽線では機関士が余剰となったため、やっと四国に戻ることになったわけです。
 四国に5か所あった機関区も、どこも戦地帰りの機関士がいっぱいおり、なかなか新規の採用ができなかったんですが、四国では初めて、昭和22年(1947年)3月に宇和島で3人ほど採用があり、それまでの機関士見習からやっと機関士になることができました。

【終戦間際の予讃本線全通】
 戦争が激しさを増す中、輸送力増強を目指していた鉄道省(国鉄の前身)は、予讃線の未開通区間(八幡浜~卯之町(うのまち)〔東宇和郡宇和町〕)の早期開通のため、伊予鉄道高浜線の複線区間を一部単線に切り替えてレールを供出させ、昭和20年(1945年)6月20日に全通にこぎつけたが、ほどなく終戦を迎えることになった。

 イ 「1,000分の33」は全国有数の急勾配

 当時の宇和島機関区が担当したのは、予讃本線の宇和島~八幡浜の区間と、宇和島線(現在の予土線の一部)全線の宇和島~吉野生(よしのぶ)(北宇和郡松野町)の区間で、全国的に見ても有数の「1,000分の33」(33‰(バーミル))という急勾配(こうばい)を抱える線区です。「1,000m進む間に33m登る。」という意味で傾斜の程度を表わすのですが、蒸気機関車にとっては相当の難所です。
 これほどの上り坂になると、機関士もしんどいんですが、蒸気の圧力を高く維持しなければなりませんから、機関助士は休む間もなく石炭をくべ続けて、必死なんです。自分たちも助士を経験して機関士になっていますから、その辺の苦労もよくわかっとりました。
 C58という機関車は、平たん線では馬力いっぱい走ったんですが、上りの勾配になるとよう空転をやるんです。空転を防ぐには、動輪の下に砂をまいて摩擦力を高める方法とか、蒸気の量を調整する加減弁を絞る方法とかがあります。しかし、砂をまくためには蒸気を使ってエアーコンプレッサーを動かしますし、加減弁を絞ると蒸気も水も使い過ぎることになるんで、どうしても機関助士が嫌がります。「助士がせっかく上げてくれた蒸気だから。」と思うと、気兼ねしてなかなか使いにくいんですよ。ですから、宇和島の機関士は、蒸気も水も使い過ぎんように加減弁を満開にしたままで、空転を起こさんような技術を身に付けとりました。
 準急が宇和島まで来るようになったころは、準急の運転は松山機関区の受け持ちでした。向こうの線区は比較的直線が続くので、平たん線をスピード上げて走ったり、高速で駅に入ってきてブレーキを使(つこ)うたりするのは上手でしたが、「山線」には不慣れでしたから、八幡浜を過ぎて、カーブと上り坂が連続する双岩(ふたいわ)(八幡浜市若山)の山で、皆、よう止まりよったです。一度止まると簡単には動かんのです。カーブだと平たん地でも空転しやすいんで、直線の所までずうっと下がってから、引き出し(停止した状態から動かし始めること)をやり直しよりました。
 吉田から宇和島に向かう途中の知永(ちなが)峠も1,000分の33です。冬なんかは、下宇和から下ってきとるから、シリンダーが冷えとるでしょう。熱い蒸気がシリンダーの中で冷やされて水滴になると、パチパチ言い始めて、ひどい場合にはシリンダーが破裂して飛んでしまう「ウォーターハンマー現象」を起こすんです。そのうえ、吉田では4両の客車いっぱいに学生が乗ってきて重くなりますから、空転も心配です。それで、停車時間には、ときどきふかしてちょっと蒸気を入れては、ウォーターハンマーを起こさんようにシリンダーを温めよりました。
 保線の人に聞くと、知永峠にある半径200mのカーブになったトンネルの中に、ほんのちょっとではあるが「1,000分の35」があるんじゃそうです。皆が決まって同じ所で空転をするから、そこだけレールもちびるし、トンネルの中なんでポタポタ水滴も落ちてきますから、よけいに空転しやすいという難所です。わたしもそこで空転やって、引き出して「ポッ、ポッ、ポッ」いうて走り出したと思ったら、後ろ向いて下がりよってびっくりしたことがありました。

【奇跡の列車事故】
 予土線の松丸(北宇和郡松野町)の下り込みで、大水のときやったですが、カーブを曲がると人がおったけん非常ブレーキを使(つこ)たですけど、ポーンと跳ねてなあ。18貫(約67.5kg)くらいあるような大きな人でしたが、その時の乗務員が助士も車掌も皆こんまい(小柄な)んで、はるか下のほうに止まっとる汽車まで、必死で担いで行きました。耳のところへこがいな大きな穴がざっくり開いとったがな。大雨の降ったときに担ぐんですけんな、そりゃあ、とてもじゃなかったわい。列車で松丸の駅まで運んだ後、駅長が、戸板ですぐ病院に連れて行ったら、息がもんた(戻った)んです。松丸に住んどったいとこに聞くと、その人は耳が聞こえなんだんですと。それが、「事故に遭うてから、耳が聞こえるようになった。」と言うて、わしの所へお礼に来たんでたまげました。

 ウ 進む無煙化

 昭和35年(1960年)2月に宇和島線にレールバス(軽量気動車)が投入されたのを皮切りに、同年12月には予讃本線の松山以西(松山~宇和島)がDC化(客車列車の気動車化)が始まり、翌36年4月には松山以東(高松~松山)でDC化とあわせて、高松~宇和島間を4時間57分で結ぶ気動車急行が走り始めるなど、徐々に蒸気機関車の活躍の場がなくなってきました。四国の無煙化は、千葉に次いで全国で2番目で、昭和45年(1970年)3月に完了(牟岐(むぎ)線が最後)しています。これは、愛媛県出身の国鉄総裁である十河(そごう)さん(十河信二、1884~1981年)のお陰だと思います。
 蒸気機関車に乗務した後はねえ、鼻の中からすすがいっぱい出てきます。蒸気と煤(ばい)煙とでワーッと熱い所で、「油まみれ、汗まみれ、蒸気まみれ、煤(すす)まみれ」ですからねえ。とくに、トンネルはたいへんでした。現在の特急だと時速80kmで走り抜ける法華津(ほけつ)峠も、蒸気機関車だと時速18~20kmでしか登れませんから、5分くらいはトンネルの中です。空転でもしたら、20分くらい中におったこともあります。鉄道病院で、ホルマリン漬けの機関士の肺を見たことがありますが、煤煙を吸っとるからまっ黒でした。
 蒸気機関車の検査係や指導係を経た後で、無煙化に伴い、わたしも善通寺(香川県)の教習所で気動車への転換教育を受けて、しばらくの間は気動車にも乗務しました。確かに運転は楽になったし、「これで、長生きできるぞ。」という気持ちもありましたが、長い間蒸気機関車に親しんできた者にとっては、第一に感じるのはやはり「寂しさ」でした。
 その後、国鉄は分割民営化の道をたどりますが、「無煙化」のころからすでに、「国鉄は蒸気とともに去ってしもたなあ。」と、わたしは感じとりました。