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臨海都市圏の生活文化(平成7年度)

(6)戦後のバス

 **さん(松山市和泉北 昭和6年生まれ 64歳)
 **さんは喜多郡内子町の出身で、壬生川(にゅうがわ)(現在の東予市)の農事試験場の学校を終えて、しばらく家にいたところ、伊予鉄の運転士をしていた近所の人に「バスの車掌でもしてみんか。」と言われて、昭和23年(1948年)に伊予鉄に入った。戦後間もないころの路線バスの様子から語ってもらった。

 ア 出発前の車掌の仕事

 当時のバスは、今とは全然違います。お客さんは、板でできた長いすみたいな座席に座っとりましたし、ガラスがあるのは前側のウィンドウだけで、あとの窓はほとんどベニヤ板を張っとりました。ガソリンも十分にありませんから、「木炭車」で、車体の後部に大きなガス発生炉を取り付けて、釜(かま)の中にたまったガスを清浄して燃料にしておりました。発生炉の釜には、炭が3俵くらい入るんですが、背の低い車掌じゃったら、上から入れるのに難儀するくらい、大きかったですよ。
 運転士が来たら、「さあ、できましたから、行ってください。」と言うてすぐ出発できるように、車掌は早めに行って、ガス発生炉に炭を入れて木炭をおこし、ガスを発生させてエンジンをかけ、前を拭(ふ)いたりちゃんと用意をして、待機しておりました。
 なんぼ急いでも、エンジンがかかるまでに30分はかかります。エンジンの始動は、クランクハンドルを前から突っ込んで、手動で「セル」を回してかけよったんですが、冬は、エンジンもミッションもオイルが粘っとるんでね、なかなかセルが回らんのです。それで、エンジンの下に七輪置いて、温(ぬく)めたりしよりましたが、それは弱りました。

 イ 車掌をしながら免許取得をめざす

 わたしらが乗り始めたころは、事務所で「この運転士と組め。」言われたら、3年くらいはずーっと同じ組で乗務するんで、その人がいろいろ指導してくれました。昔の運転士は、客でもおらなんだら、「お前、ちぃとやってみるか。」言うて、車掌に運転やらしてくれよりました。最初は見よう見まねで、「クラッチが悪いぞ。」じゃの言うて仕込んでくれよりましたから、運転の仕方はだんだん身に付いてきました。
 あのころは、運転免許を取る機会が年に数回しかなかったんで、「早う免状取ったほうがええ。」言うて、一生懸命でした。会社に内緒で、仲間4、5人が、朝の3時半ころに起きて木炭を起こしては、実際にバスを動かして練習をやったもんです。今の市駅前に車(バス)を並べて置いてあったころで、市駅から、県庁も国鉄(現在のJR松山駅)も見えるようなのっぺらですからね。人通りもないし、おまわりさんもおらんので、夜中に街をグルッと走っては練習しよりました。
 当時の学科試験は5科目あって、今みたいな○×式じゃなくて、「無謀運転とは何か。」「クラッチとは、何するもんか。」「エンジンがかからんのは、どこが悪い。」といった具合に全部記述式でしたから、なかなか受からん(合格しない)で、3回、5回という人が多かったんです。
 それが、わたしも運がよかって、たまたま1年ちょっとで1回で通りまして、あと半年くらい車掌をしてから、運転士になりました。

 ウ 運転士生活のスタート

 「タクシーの運転士がおらんから、内子へ行ってみんか。」ということで、1年ほどタクシーに行った後、昭和26年(1951年)に大洲営業所が新設になったのを機に、バスの運転手になりました。それからずーっと、昭和49年(1974年)に監督になるまで、ハンドルを握り続けました。実際にバスに乗務してみると、「やっぱり大きいなあ、大変じゃなあ。」と思いましたね。
 昔は、運転席の前にエンジンルームのある「ボンネット型」でしたが、昭和28年ころから徐々に、エンジンが床下に置かれて運転席が前端にある「アンダー型」が入ってきました。
 ボンネットの運転席は前輪の後ろ側で車幅のやや中央よりにあるのに対して、アンダーのほうは、前輪の前側で、しかも車幅の右側(センターライン側)にずれとるでしょう。ですから、視界も違いますし、感覚が全然違うんで、ボンネットじゃったら道の真ん中を走るんじゃけれども、アンダーじゃったらいつの間にか左へ左へとずーっと寄っていって、いかんのです。それで、車も大きいし重たいしで、車体の左側を当てるし、車輪は落とすし、この切り替えの際には、とにかく難儀しました。

 エ 担当制

 昔は、「担当制」いうて、「このバスは、○○○運転士が担当」というふうに、1台1台に乗務員(運転士)が割り当てられており、その者が責任を持って手入れをしておりました。今はとても考えられませんが、最初のうちは、運転士が休みの日にはその車も休みよりました。
 新車が入ると、だいたいベテランの運転士からいい車をあてがわれて、あとの運転士は、順々にお下がりを引き継いでいくんです。「今度は、お前も新車をもらえるぞ。」「(新車の)台数が少ないけん、わしらまで来んぞよ。」「○○○さんが乗っとった車は、きれいで整備もええけん、使いやすいぞ。」というようなことを話しては、仲間うちで楽しんでおりました。
 きちょうめんな運転士は、運転もていねいじゃが、車の調子がちょっと気になるとすぐ整備へ持っていって、「ここの調子が悪いけん、直してくれ。」言うて、まめに手入れしてましたからねえ。車庫にもんて(戻って)からの掃除でも、汗流しながら下を雑巾(ぞうきん)がけしたり、ボデーからエンジンから、洗(あろ)たら乗用車並みに拭いたりで、2時間くらいはかかりよりました。運転士は皆、「自分の車」という気持ちで愛着を持っとったですねえ。
 運転士と車掌の組合せは、昭和30年(1955年)ころは1、2か月ごとに変わりよりました。自分らが車掌のときには、「あの運転士はうまいのう。車(を)止めてもショックはないし、離合してもスムースに行くねゃ。ほじゃから、お前はあれに乗っとったけん、上手なんじゃが。」とか、「お前、あの運転士はええのう。うちのは固いけんいかんぞ。」というようなことをお互いに話しておりましたが、今度は逆に、やりやすい車掌とやりにくい車掌というのを感じるようになりましたね。出発前に早く来て、窓を拭いたり床(とこ)の掃除をしたり、気持ちよくやってくれる車掌は、10人中6人くらいしかおらなんだですねえ。ええかげんな車掌と組むと、「ああ、こんなか。こんなじゃったらやらんけん、わしが早よ行って、やらないかん。」と思いながらも、師弟関係というのか、自分らがそうしてもろたように、逆に「仕込んじゃらんといかんなあ。」と、感じよりました。車掌はやがては運転士になるというのが、当時は当たり前でしたから。

 オ バスのワンマン化

 昭和45年(1970年)から、路線バスが順次ワンマン化されるようになりました。事前の研修は、ワンマン用のバスに運転士を30人ほど乗して、交代で運転しもって、案内テープのスイッチを入れたり、運賃表が動くの確かめたり、ドアの開閉操作をしたり、いろいろ指導がありました。
 今は方向幕も運賃表示機も確実になってますけど、最初のころは完全なものじゃなかったんで、やっぱり操作が困りました。手持ちの運賃表をいちいち見たり、釣り銭が出ないときにはかばんから出したりしたこともあります。ドアも、乗るほうと降りるほうの2か所になりましたから、気を付けんと、お客さんを挟んだりすることがよくありましたね。それまでは、お客さんの関係は車掌がみなしてくれよりましたから、とまどいは大きかったですよ。「どんなにしたら、よい、やれるかのう。」言うて、みんな難儀しよりましたけんねえ。
 最初はお客さんも慣れてないから、ついな(同じ)ことぎり何回も、走行中でも聞かれるでしよ。「お年寄りなんかには、ていねいに言わんといかん。」と思うし、「お客さんに顔を向けたまま運転するのは不安だ。」という気もありますから、「止まった後に、言うてくださいや。」と言えばええんですが、お客さんにはなかなか言いぬくいんでね。ほじゃから、走りもって、前向いたまま話をするんですが、「この運転士、くそ横着なのう。」という感じを持たれたんじゃなかろかと思て、やっぱり気になりよりました。
 1か月ちょっとしたら、もう慣れてきますからね。短い路線じゃったら、バス停も、運賃なんかでも、ほとんど自分で把握しとりましょ。ほじゃから、楽になりましたけどねえ。慣れたら、逆に、つまらん車掌と組んで気遣うよりは、気楽な面もあってよかったです。

 カ 観光バス

 昭和40年代には観光バスの需要も増えてきたんで、新しく「貸切」の運転士を25人くらいで編成したんですが、その中の一人に入りました。
 行き先の町の名前、旅館、観光地を覚えることが大変で、出発前(ぜん)に地図を広げて皆で研究して、行ったことのある先輩にも指導を受けよりました。「西国三十三か所参り」に初めて行ったときは、苦労しました。前に古い運転士について2回くらいは見習いで乗っとったんですが、一人で行ったら道に迷いましてね。目的地と反対方向に走って、そのときには冷や汗が出よりました。お客さんは知らん顔しとりますけんねえ、そんな時には、もう燃料屋へ飛び込んで燃料入れもって、添乗員に「よい、これ道が間違(まちご)うとるぞ。お前、こっち向いて走らないかんのに。」じゃの言うて、こっそり正しい向きに帰りよりましたがね。
 名古屋は、観光地の駐車場も道路も広いんで、観光バスにとって走りやすかったですが、京都の清水寺(きよみずでら)や高松の栗林(りつりん)公園は、難儀しよりました。逆に、道後温泉や松山城で県外のドライバーに聞くと、「愛媛の道は、一番わかりぬくい。」と言よりましたね。子規堂(松山市末広町)なんかは、踏切があって入り口が狭いので、大型なんかは難儀するんです。石手寺もわりと混雑するんです。観光地に隣接して大きな駐車場があると助かりますが、道路を歩いて横断せないかんような場所は、お客さんもウロウロするし、こちらも気を遣いますから、ようないですね。
 路線バスと違って、何日も連続して慣れない道を長時間走り続けていくんですが、からだは大丈夫じゃったですね。そのかわり、観光地へ着いてお客さんが降りとる間は、バスの中で寝たりして休養をとるわけです。全国各地をあちこち行っとるんじゃけれども、観光地はいつも入り口まででしよ。ほじゃから、会社を退職後に遊びに行っても、「ここ、入ったことないぞ。」ということが多かったですね。