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臨海都市圏の生活文化(平成7年度)

(3)島を去る日

 **さん(今治市中寺 昭和12年生まれ 58歳)

 ア 廃校の引き金、17号台風

 「わたしが四阪島に赴任したのは、昭和50年(1975年)だった。
 すでに生徒数はかなり減少していたが、わたしが赴任した年も、最後の年(昭和51年)にも、会社に、学校を廃校にするとか、島民を全部新居浜の方へ引っ越しさせるという案があったかどうかは定かではない。少なくとも、わたしたちにはそういう声は聞こえていなかったし、保護者からもそういった声を聞いたことはなかった。
 廃校の直接の引き金になったのは、51年9月の17号台風による集中豪雨だったと思う。このときの雨で、島では何十か所も崖(がけ)崩れが起こり、道路はもちろんのこと、水道設備や住宅に、島始まって以来と言われるような損害が出た。そして、その復旧の過程で島を撤退するという話が急速に具体化してきたように記憶している。」
 この年9月8日ころから連日降り続いた豪雨による島の被害状況については、次のような記録がある(㉓)。
 「9月11日、各所土砂崩れ発生。午後6時40分頃、山崩れにより美(み)の端(はな)49号(住宅)が倒壊し、さらに下部の1号社宅も半壊した。直ちに警備、第9分団を非常呼集し救護に当たるとともに、危険区域の避難誘導を実施。各所土砂崩れで、道路寸断される。
 9月12日、8時45分、第2配備発令。避難者に炊出し実施。続々土砂崩れ、手の打ちようなし。危険個所は早目に避難させ、警備、分団は危険個所を巡回する。昼ごろ、学校下の山が土砂崩れ、美の上6号倒壊。
 9月13日、危険区域立入禁止の表示。炊出し終了。夜、復旧対策を協議。」
 **さんによる補足。
 「51年に台風で大きな被害が出て、それで島を引き揚げることになった。完全に壊れた住宅というのは少なかったが、会社の専門家が山に入って調査をした結果、山に亀裂がかなり入り、いずれは山が崩れる可能性も出てくるということがわかり、それでは今のうちに、ということで思い切った処置を取ることになった。」

 イ 最後の卒業生

 **さんは、四阪島小学校最後の卒業生の担任であった。
 「四阪島に赴任して、5年生を受持ち、翌年は持ち上がりで6年生の担任をした。すでにそのころは、1学年1クラスの時代で、6年生は一番少なく18名でスタートし、そのうちの12名が最後の卒業式を迎えた。
 わたしは、学校では体育の係だったが、先輩の先生が低学年からしっかり指導してくださっていたので、子供の数は少なかったが、ずいぶん活躍してくれた。たとえば、大島区(吉海(よしうみ)町と宮窪町)の陸上競技大会やマラソン大会では、総合優勝とか、ほとんどの種目で1位をとるなど、好成績をあげてくれた。私立の時代からスポーツに力を入れていたと聞いていたが、その伝統が代々引き継がれてきていたことを、島に赴任して強く感じた。
 子供たちは、体力作りのため、年中、早朝自主トレをしていた。1年生から6年生まで自由参加だったが、高学年は全員が、低学年も8割くらいの子供が参加していた。陸上競技やマラソンで非常にいい成績を上げられたのは、そのおかげだったと思う。リレーのバトンタッチの方法なども、教員が細かい指導をしなくても、上級生から下級生へきちんと伝えられていた。修学旅行で夜遅く帰った翌朝も、休まずに続けていた。今考えてみると、ただ走るばかりでそれほどおもしろくもないことを、よく続けていたなと感心する。
 修学旅行は、国鉄(現JR)を利用して、多度津経由で高知に行った。少人数だったので、途中はマイクロバスやタクシーを利用したところもあった。また、四阪島には川がないので、年に一度は新居浜や今治に行き、川で水遊びをした。わたしの時には思い切って、5、6年生合同で温泉郡川内町の海上(かいしょう)へ行った。新居浜から少ないバス便を乗り継いで行かなければならなかったが、子供たちには好評で、あとで家族ともう一度行ったという子供もいた。子供たちにとっては、島の外に出ることは非常な楽しみで、特に友達といっしょに行くことをとても喜んでいた。」

 ウ 島を去る日

 「最後の卒業式では、わたしも2年間の思いがごっちゃになり、とめどなく涙が流れ出て、今ふり返ってみると、見苦しい姿だったのではないかと思う。わたしだけでなく、卒業生も在校生(卒業生を送るとともに自分たちも学校を去っていく。)も、また、後ろにいる保護者や来賓の方々も、卒業生を送り出すという思いよりも、四阪島の学校がなくなることへの思いの方が強かったと思う。
 卒業式のあと、小中合同で廃校式を行った。昭和52年(1977年)3月25日のことだった。
 学校が廃校になるということがわかったあとは、寂しいという気持ちが、わたしたちだけでなく、むしろわたしたち以上に子供たちにはあったと思うが、それだけにまた、最後まできちっと頑張らなければという気持ちも強かったのではないかと思う。廃校の年だから十分勉強ができなかったとか、浮(うわ)ついていたという気配は全くなく、友達が次々と学校を去っていく中で本当によく頑張ってくれたと、子供たちに感謝している。
 特別な行事として、小学校単独で『お別れ運動会』を行った。2月のちょうど小雪まじりの非常に寒い日だったが、子供たちが企画して、小学校の狭い中庭で半日の運動会を楽しんだ。
 子供たちが島を離れる日は、ひとりひとり異なっていた。保護者の転勤の関係で、昭和51年の10月ころから、島を離れる子供たちが出始めた。多くの者は新居浜に移ったが、兵庫県の加古川(かこがわ)市や東京方面へ転校していった子供たちもいた。」
 一人一人、友達が島を去っていく日々、子供たちは、どのようにして毎日を過ごしたことだろうか。当時四阪島小学校2年生は、「しんちゃんのこと」と題して次のような作文を書いている(㉔)。
 「しんちゃんと、ぼくは、あまり遊ばなかった。しんちゃんは、はしるのが、とてもはやくて、やきゅうがうまかった。しんちゃんは、メッチンを、たくさん持っていた。けれども、少なくなっていた。しんちゃんがかわるまえには、男の子だけが、百円ずつだして、武田君は、しんちゃんのために、二百円も出してくれました。男の子だけで合わせたら、千二百円にもなりました。それから、生きょうに行って、ロボダチのなかまをかったり、さしやけしゴムやえんぴつをかったりしました。かいおえると、しんちゃんがとまっている家に行って、男の子で遊びました。はじめに遊んだのは、やきゅうで、五時がなりましたが、つづけて、五時十五分までやりました。帰っても、おとうさんにもおこられなかったし、おかあさんにもおこられませんでした。」
 **さんの話。
 「子供たちの転校書類は、教頭先生を中心に、事務職の人とあと何名かが手伝って作成した。
 子供たちが島を離れる日は、家族全員が島を離れる日なので、三交代制で勤務している人以外は島中の者が見送りをした。島を離れる人がいるときは、船は一度港内をぐるっと回って汽笛を鳴らすのが習慣になっていたが、それが連日続いたのを今でも忘れることができない。ふだんは、引っ越しの荷物は水船や客船で運ぶのだが、この時の引っ越しには別の船も使われた。
 教員は、子供たちを送り出したあとも学校のかたづけがあったので、3月末近くまで島にとどまっていた。学校が宮窪町立だったので、学校の備品などは宮窪小学校の先生方に島まで引き取りに来ていただいた。また、卒業者名簿やその他の重要な文書類は、宮窪町の教育委員会へ持参した。
 島にいたのは、わずか2年間だったが、そこで廃校という思いもかけない経験をさせてもらった。われわれは、たまたまそこに勤めていただけという、比較的クールな目で見ていたつもりだったが、いざ卒業式や廃校式となると、言葉では言い尽くせない、一言で言えば、『哀感』のようなものを胸のうちに強く感じ思わず涙がこぼれた。こうした悲喜こもごものいろいろなこともあって、いまだに、四阪の学校のことや島での2年間のこと、そして、その当時かかわった子供たちのことなどが、より強く思い出される。わたしにとって、島の2年間は、短かかったがいろいろな意味で感慨深いものがある。」

 エ 島の整理

 **さんは、最後まで島に残り、島の将来を見通して事後処理に当たった。
 「廃校の年には、その年の在校生全員に記念品として写真ブックを贈った。社員を一度に出せないので、何か月もかけて計画的に送り出すようにした。毎日毎日子供が減るのだから、学校の先生もつらかったと思う。最後は、1クラス、7、8名だったと思う。わたしは、一番最後昭和52年(1977年)の4月に島を出た。子供の転校手続きが終わるとすぐに新学期だったが、それは仕事柄仕方なかった。
 わたし自身この学校を卒業し、また、最後の年にはPTA会長をやっていたので、閉校式の時はつらかった。と同時に、何とかして学校の姿だけは残したいと思った。会社も、当初からの施設や設備は残すべきだという方針だったので、学校を残すことができた。島を出た人たちがたまに来ると、まず学校へ行き、『学校があった。』ということで、非常に喜んでもらっている。残してよかったと心から思っている。
 もう一つつらい仕事が社宅の処分だった。
 島を引き揚げたのちも、しばらくはだれでも自由に島に渡ることができたが、釣り人などの中に、社宅に入って火を使う者が出てきたりして、無住になった社宅の管理が頭の痛い問題となった。以前は、工場に警備本部があり、その下に消防隊が置かれていた。また、それとは別に宮窪町の消防分団に所属する消防隊がいて、ふだんは警備本部の専門の整備員と消防分団で対処し、それでもだめなときには工場の消防隊が出動していた。ところが、人がいなくなり、そういう体制が失われると、火災が起きても消火もできない。そういうことで、社宅を焼却(一部解体)し、跡地に木を植えることにした。子供時分から住みなじんだところだけに、それを燃やすのはつらい作業だった。
 焼却は昭和59年(1984年)から始められた(*25)。吉備峠(きびとうげ)と吉備浦の社宅(190戸)を一度に燃やしたときには、宮窪から消防団長以下、100人以上が視察に来た。新聞記者などもたくさん来た。社宅のあちこちから一度に火の手が上がり、社宅群が一気に炎に包まれる様は壮観で、つらい作業のはずなのに、そのときはただ圧倒されて目の前の光景に見とれていた。現在残っているのは、小中学校、保育園、中央クラブ、日暮(ひぐらし)邸、日暮別邸、……。残った社宅も草や木におおわれて、今はほとんどが近寄れなくなってしまっている。
 家族が引き揚げた昭和52年(1977年)以降も、単身赴任という形で島に残り、昭和62年(1987年)になってようやく、長い間なじんできた島を離れた。島を離れるときは、『後始末はすべて終わった。島の将来に対する方向づけもできたし、あとは託すから島を頼む。』という気持ちだった。
 現在の四阪島は、廃棄物から亜鉛を回収するようなことをやっている。日本は、今まで資源を浪費しすぎてきたが、これからはリサイクルによって資源を有効に活用する方向に向いていくべきではないかと思う。そういう状況を考えると、リサイクルのための技術や設備がしっかりしている四阪島は、これからも動き続けていくことと思う。四阪島からすべてが撤退して、無人島化するなどということは考えられない。
 島は、必ず、発展していきますよ。」


*25:昭和57年(1982年)に美の浦の2段目と3段目を解体したのが、社宅を処分した最初である。以後、61年までの間に
  1,000戸近い社宅が解体又は焼却された。