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臨海都市圏の生活文化(平成7年度)

(2)御代島がつながった

 **さん(新居浜市河内町 昭和3年生まれ 67歳)

 ア 海に伸びる新居浜平野

 新居浜平野の海岸線に、東から黒島、久貢(くぐ)山、垣生(はぶ)山、御代島という四つの小さな山が点在している。久貢山と黒島は元禄時代(1688~1703年)に始まった多喜浜塩田の開発によって、また、御代島は昭和期の工場用地造成のための埋立てで、島が陸地とつながり、いわゆる陸繋島(りくけいとう)となったものである(図表2-2-4参照)(⑨)。
 以下は、新居浜で生まれ育ち、新居浜の発展を見つめてきた**さんの、主として昭和10年代の新居浜の話である。

 (ア)御代島が島だったころ

 「わたしが子供のころは、御代島はまだ陸地とはつながっておらず(潮が引くと砂州(さす)が現れて陸地とつながった。)、中学生のころは、よくボートに乗って島を一回りしていた。大江浜(今の大江橋の辺り)に貸しボート屋さんがあり、友人4、5人でボートを借りて沖に出て、御代島をぐるっと回って来ると、だいたい1時間で、ちょうどいいコースだった。日曜日ごとに、『海に行かんか。』と誘い合って、ボート遊びを楽しんだ。
 そのころは、今の磯浦町辺り(現在の住友共同電力がある辺り)も、きれいな松林がずーっと続き、磯浦海水浴場として親しまれていた。昔は、山根や端出場(はでば)の社宅からたくさんの人が別子鉄道で海水浴に来ていた。夏は、臨時駅もできていた。そこが開発されてからは、みんな垣生や沢津などに行くようになった。」

 (イ)低湿地の埋立て

 「わたしが小学生のころ(昭和11年〔1936年〕9月)、今の西中学校の西側に別子鉄道(新居浜港線)の線路ができた。それまでの鉄道は、星越(ほしごえ)の選鉱場(写真2-2-6参照)から山を越えて惣開に出て、そこから四阪島の製錬所へ銅精鉱を出していたが、各工場に向かう鉄道や道路が複雑に交差して危険な状態になったので、新たに星越から喜七郎新田(きひちろうしんでん)まで、鉄道を敷くことになったものである。当時、一帯は水はけの悪い低湿地で、一毛田や沼地、アシ原などだった。淵も三つばかりあって、水が湧(わ)いたりしていた。そうしたところに鉄道の線路が敷設され、それを堤防にして広い沼地を埋め立ててできたのが、今の前田社宅の一帯である(写真2-2-7参照)。
 埋立てには、尾鉱(びこう)という、鉱石を選別したあとの低品位の鉱石(*12)が利用された。ドロドロの尾鉱を、大きなパイプで流し込んで埋めていき、それが固まると、その上へ山の石を敷いた。尾鉱を流したところは、表面は固くなっても、少し踏むとやおく(柔らかく)なってきて、足がぼこぼこ入るようになる。それがおもしろくて、埋立て地によく遊びに行った。現場には山の石を運ぶトロッコがたくさん置いてあったので、それに乗ってよく遊びもした。怒られては逃げて帰り、怒られては逃げて帰りしながら、よく遊んだものだ。
 今でも工事現場などで尾鉱が出てきているのを見ると、なつかしい気がする。」

 イ 金子村のくらし

 「わたしは、昔の金子村で生まれ、そこで育った。昭和12年(1937年)11月、新居浜町、金子村、高津(たかつ)村の3町村が合併し、新居浜市が誕生したが、当時は、新居浜町が浜辺の町であるのに対して、金子村は農村地帯という感じだった。
 子供のころは、この辺り(東川の河口に近い現在の江口町、北新町、前田町付近。以下同じ。)では、ほとんどの人が土地を持って農業をしながら、住友に勤めに行っていた。わたしの親父(おやじ)もそうだったし、親父の兄弟もみんなそうだった。ほとんどの家が住友関係で、子供たちは、『お父さんどこ行きよる。』と聞かれると、『よころ(溶鉱炉がなまったもの)へ行っとる。』と答えていた。
 親父は農家の次男坊で、本家から土地を3反(約0.3ha)ほど分けてもらい、農業をしながら住友に勤めるという、今でいう兼業農家の走りのようなものだった。親父はいつも、朝は出勤前から夜は帰宅後も遅くまで、縄をなったり、俵を編んだり、こもを編んだり、草履(ぞうり)を作ったりしていた。昔は、自分で使うものはだいたい自分で作っていたので、わたしら子供もいっしょによく作った。『親父もおふくろも、よう働いていたなあ。』という気持ちを今でも強く持っている。
 今は農機具が発達し、たいていのことを機械がやってくれるが、昔は全部人力だから、田んぼを作るにしてもたいへんだった。この辺りは河口に近く、すねくらいまで入るような低湿地が多かったが、昔の人はよくやっていたと感心する。稲を刈り取ったあと、田打ち鍬(ぐわ)という長い柄のついた鍬で稲株をおがして(起こして)、半年間腐らせ、翌年また、稲を作った。今はこんなことはとてもできないと思う。このような状態だから、子供たちも学校から帰ると、牛を使ったり、肥え桶(おけ)をかついだり、いつも手伝いをしていた。
 そういう純農村地帯が埋め立てられて、工場や社宅ができていくのを見ていると、この辺りも変わったなあと思う。考えてみると、新居浜というところは住友の発展と足並みをそろえて発展してきた町で、極端に言えば、わたしらの若いころは、町が毎日のように変わっていた時代ではないかと思う。昔の言葉で、『住友さんの城下町』などという言葉があるが、わたし自身、住友に対しては『すごい会社だ。』という感じをもっていた。今でもそれはつくづく感じている。」

 ウ 戦前の新居浜風景

 「わたしが子供のころは、娯楽などはほとんどなかったので、毎年11月3日に山根グランドで行われる、『親友会』という住友各社合同の職員家族の運動会はとても楽しみだった。この日はちょうど明治節(明治天皇の誕生日)なので、学校の式典が終わるのを待ちかねて、山根グランドまで約1里(約3.9km)の道を歩いていった。住友各社が参加して、ものすごいイベントだった。
 山根グランドの下は全部社宅で、街も新居浜よりは喜光地(きこうじ)の方がにぎやかだった。現在、JR新居浜駅が市の中心部からずいぶん離れている、という感じを受けるが、新居浜の街(現在の中心部)が発展するのは戦後のことで、戦前は、喜光地辺り(角野(すみの)方面)の方がはるかににぎやかだったことを考えると、納得できるのではないかと思う。わたしらは、買物や映画や遊びに行くというと、みんな喜光地へ行っていた。当時は、こちらの方(旧新居浜町や金子村)は、完全に漁村や農村という感じだった。
 買物には、住友が経営する調度(ちょうど)へもよく行った。調度は、今の新居浜大丸の前身にあたるもので、現在の惣開、別子鉄道の終点のところ(当時は揚地(あげち)とよばれていた。)にあった。今で言う生活協同組合みたいなもので、たいていのものがそろっていた。住友の従業員は、帳面を持っていけば、現金がなくても買物ができ、給料から天引きされるシステムになっていた。森永のキャラメルがほしくて、おふくろにくっついて行ってはよく買ってもらった。10個入りが5銭くらい、20個入りが10銭くらいだったように記憶している。
 新居浜の街もずいぶん変わった。昔は本町が一番にぎやかだったが、今は全くさびれてしまった。わたしらの子供のころというのは、今の昭和通りができてまもない時分で(昭和5年〔1930年〕新設)、『ずいぶん広い通りだ。』という印象が残っている。
 新居浜港には、関西汽船が定期的に入港していた。いまだに覚えているが、『こがね丸』などという客船が、1週間に2回くらい来ており、そのたびに『今日は、こがね丸が入っとるけん、見に行こう。』などと言って見に行った。2千トンくらいあったのか、今はそんなに思わないだろうが、当時は、ずいぶん大きいと思った。すごい豪華船だった。(*13)」


*12:別子銅山から運ばれてくる鉱石は、銅の含有率が1.1%程度の粗鉱であるので、これを浮遊選鉱法によって、銅精鉱(銅
  含有率21~22%)と硫化鉄精鉱と尾鉱に分け、銅精鉱は四阪島製錬所に運ばれた(③)。
*13:関西汽船は、昭和17年(1942年)の創業とともに、大阪と今治や別府を結ぶ航路に「こがね丸」、「に志き丸」など
  の豪華船を就航させており、これらの船が新居浜に寄港していた(⑪)。

図表2-2-4 臨海工業地帯の形成

図表2-2-4 臨海工業地帯の形成

新居浜市資料により作成。

写真2-2-6 星越選鉱場とかつての星越駅

写真2-2-6 星越選鉱場とかつての星越駅

平成7年7月撮影

写真2-2-7 現在の前田社宅

写真2-2-7 現在の前田社宅

社宅は空家が目立つようになり、社宅街の一角には近代的なシティーホテルが出現した。平成7年12月撮影