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臨海都市圏の生活文化(平成7年度)

(1)新居浜港と港務局

 **さん(新居浜市一宮町 昭和4年生まれ 66歳)

 ア 新居浜港の生い立ち

 新居浜港が活気を呈し始めるのは、元禄15年(1702年)別子銅山からの道が開かれ、新居浜が銅山関係の諸物資の中継地になってからである(*5)。
 明治13年(1880年)御代島(みよしま)の南側に波止場を築造して貨客取扱所を設け、銅のほか、一般貨客の業務が開始され、さらに、同16年(1883年)惣開(そうびらき)に洋式の新居浜製錬所が新設(*6)されると、海面を埋め立てて諸施設が拡充され、新居浜港の重要性が一段と増した。
 大正から昭和の初期になると、別子銅山を主体とする諸事業(化学・機械)の拡大に伴って、入港船舶はさらに増加し、港内が込み合ってきたので、昭和5年(1930年)住友金属鉱山が一大築港計画を立て、防波堤の整備や港のしゅんせつ埋立てを行い、昭和13年(1938年)に一応の竣工(しゅんこう)をみた。昭和17年(1942年)工場の拡張発展に伴い、第二次築港計画が立てられ、港の修築に着手したが、戦争のため、工事は中止のやむなきに至った。
 戦災を免れた新居浜は、戦後いち早く立ち直り、港勢も戦前の活況に復した。昭和23年(1948年)1月、開港場に指定されたのを皮切りに、昭和26年(1951年)9月には港湾法に基づく重要港湾に、同年11月には出入国管理令に基づく出入港に、また、同28年(1953年)8月には検疫港に指定され、さらに、同年12月1日には港湾法に基づく港務局が設立され、私港的性格から脱皮した近代港湾としての体制を整えた(④)。

 イ わが国唯一の港務局管理港湾、新居浜港

 現在、港湾法によって指定された港湾は、全国で1,102港を数えるが、港務局が管理する港湾は、新居浜港のみである。そこで、全国的にも珍しい港務局制度について、新居浜港務局勤務の経験が長い**さんに話をうかがった。

 (ア)港湾法と港務局

 「港務局の概念は、昭和25年(1950年)制定の港湾法の中で初めて示されたものである。この法は、連合国軍総指令部(GHQ)が、わが国の港湾の非軍事化と民主化を意図して、アメリカ合衆国におけるポート・オーソリティ(*7)方式を導入しようとしたものとされている。港務局は、このポート・オーソリティに該当するもので、今でいえば、第3セクターによる港湾管理に近いものと考えられる。港湾法は6章63条に及ぶが、その中で港務局に関する部分が1章29条を占めており、港務局が港湾管理者本来の姿だとの認識とともに、港湾法の中心となっていることがわかる。港務局は、機構が簡単であること、政治的に中立の立場を保持しうること、企業的な業務運営をなしうることなどの特性があり、新居浜のほか、小倉(こくら)港(昭和29年)と洞海(どうかい)港(*8)(昭和30年)につくられた。
 港湾法によると、港務局は営利を目的とする団体でなく(港湾法第5条)、業務を行う経費は、原則として港湾から上がる収益でまかなわなくてはならない(第29条)ことになっている。また、大きな事業を行うときには、債券を発行できるようになっている(第30条)が、新居浜港の場合は、設立母体である新居浜市が起債をして、それを港務局に転貸するという形でやっている。このことについては、自治省も理解しているはずだが、わたしが在任中も、国の担当者が交代するたびに呼び出されて説明を求められた。港務局が新居浜一港だけになってしまった最大の理由は、やはり経費調達の困難さであると思う。」
 わが国の港務局制度と欧米のポート・オーソリティの間には、歴史的・民族的・自然的諸条件で大きな差があり、結局、その理念や方式はわが国の土壌に根づかなかった(⑥)。

 (イ)港務局の運営

 「港務局の運営は、委員会によって行われる。委員は、市議会の同意を得て市長が任命するもので、市2名(助役・市議会代表者)、学識経験者1名(県西条地方局)、旧港湾管理者2名(住友金属鉱山)、荷主代表2名(住友化学・住友共同電力)の7名である。
 新居浜港の場合は、重要港湾としては全国的にも珍しいが、入港料を徴収していない。したがって、港務局の収入は、港銭、けい船料、貨物通過料、港湾施設の使用料(*9)などが中心で、ほかに海底を走るパイプなどについても占用料をとっている(⑦)。わたしの時に一度値上げをした。反対もあったが、昔のままではどうにもならないので、だれかが悪者にならないといけないということで腹を決めた。フェリーが就航するようになって、年間の収入はかなり増加したと聞くが、人件費もたくさんいるし、運営は大変だと思う。」

 (ウ)住友私港と港務局

 新居浜港(本港、写真2-2-2参照)は、住友系企業の専用ふ頭を中心に形成されたこともあり、私港的な性格が強く、港務局設立の過程でも、港の公共性について、多くの議論が交わされている。
 新居浜港務局の設立を審議する昭和28年(1953年)5月14日の新居浜市議会で、当時の白石捷一(しょういち〕市長(在職・昭和26年4月~30年4月)は、提案理由を概略次のように説明している(⑧)。
 「新居浜港の歴史を考えます時、これだけの大築港を修築完備してこられました住友金属鉱山会社の努力と腐心も少なからざるものがあったと存ずる次第でございます。
 しかしながら、公共団体の管理に移すことによりまして、港に公共性を持たせ、国庫並びに県の補助を得まして、年次計画に基き、一層の整備を図りますと共に、一方利用者の利便を増大する為に管理運営いたしますことは、市の発展の為にも誠に意義あることであり、最も必要なことがらと考えまして、本省及び県の意向も十分斟酌(しんしゃく)しながら、関係当事者の会社と折衝(せっしょう)を重ねて参ったものでございます。最近に到りまして、港務局設置と云う線で意見の一致をみました。尚、港務局の発足に当りましては、市と会社と両者とも公共性のある管理形体にすると云うことを原則に双方進んで参ったものであります。」
 さらに、質問に答える形で、「公共性を持たすと云う方法には、例えば、県管理にするとか、市の管理にするとか、県市の共同管理にするとか、或は、こうした港務局にするとか、色々な方法があるのでございますが、現在までの管理者である住友金属鉱山会社として是非とも港務局案でゆきたいと云う要請をしてきているのであります。尚、新居浜市といたしましては、この港全体が我々の港でありまして、これが立派になることは、全市の発展に帰するのであります。なんとかこの港全体をよくするだけの方法として、この際は、どうしても公共性を持ち出して国、県の強力なる援助を仰いで、一日も早く整備充実をしたいと云うのが、考えの中心で、今回の案を提案したのであります。」と述べて、港の公共性と新居浜市の発展を、最優先したことを強調している。
 また、港務局の設立に尽力した河野為二建設部付参事は、公共性の問題にふれて、「岸壁は鉱山が私費を投じて造った岸壁でございまして、私達が今、管理の対象にしているのは、その前の公有水面と云うことでございます。岸壁自体につきましては、個人の所有と云う形になっておりますので、多少の制約を受けるかもしれません。」と、答えている。
 この答弁申の「多少の制約」については、『新居浜港務局定款(⑦)』第9条に「港湾区域内で港務局の指定する工場、事業場専用護岸壁の前面20メートルの水域は夫々(それぞれ)工場事業場の長の申請により水面占用権を認める。」という形で具体化された。
 この点に関する**さんの回想。
 「このことについては、私港だったものを公共帰属化したことの結果であり、所有者から申請があれば認めざるを得ないのだが、運輸省からは、『これは、どういうことか。公共化しておりながら、なぜそんな定款があるのか。』という問い合わせがしばしばあった。港務局というのは全国にただ一つしかないということで、運輸省の方でも興味をもっていろいろと研究し、これはおかしいということで聞いてきたのだろう。水面については、だれでも自由に使えるというのが原則であるので、専用護岸壁の前面20mまでの水域を占用するという点は、いきさつを知らない人にとっては、やはり理解しがたかったのかもしれない。」

 ウ 整備が進む新居浜港

 かつては、大阪行きの定期船も住友金属鉱山の敷地内にある本港に着いており(写真2-2-3参照)、乗船客は、会社の入り口で守衛さんにあいさつをして通っていたという。昭和50年(1975年)、関西汽船が寄港をやめてからは、川之江と大阪の間に就航していたバンパックフェリーが、旅客だけという条件で同じように寄港するようになった。
 新居浜港におけるこうした公共施設の不足に対して、昭和39年(1964年)市が新産業都市の指定(*10)を受けたのを契機に整備計画が策定されて、多喜浜地区で新居浜東港の整備事業が進められた結果、昭和63年(1988年)東港にフェリー岸壁が完成し、以後、新居浜本港に定期船が着くことはなくなった。
 以下、東港の現状をまとめてみた(*11)。
 東港は、すでに、フェリー岸壁1バース(水深-7.5m)のほか、貨物岸壁1バース(水深-7.5m)、港湾貨物の取扱用岸壁3バース(水深-5.5m)、防波堤605mなどが完成し、港としての整備は、ほぼ一段落している。しかし、現在は内貿の域を越えていないものを(取扱貨物の目標値は、外貿290万t、内貿760万t)、外貿の域まで広げるのかどうか、というような課題もある。コスト競争に対処するためには、船舶の長大化、大型化が不可欠であるが、東港は最大が「ななはん(水深が-7.5mのこと)」であり、せいぜい1万トン程度の船しか入らないことから(本港は最大水深-14m)、公共用として使える大水深の港がほしい、という要望も出ており、現在、港務局内で新居浜港の将来像について模索中である。
 また、東港では、近年の社会の要請を考慮し、環境保全や海洋レジャーの必要性から、ここを海洋レジャーの核にする構想のもとマリーナ計画を策定し、海浜公園、マリーナ、人工海浜等が建設されており、背後地の緑地を除いて完成している(写真2-2-4参照)。
 新居浜市の発展は、港を抜きにしては考えられない。と同時に、新居浜港の発展は、工業都市新居浜の発展を抜きにしては考えられないのも事実であり、今後とも、市と港が足並みをそろえて発展していくことが望まれる。


*5:元禄4年(1691年)の別子銅山開坑後、しばらくは宇摩郡土居町天満へ出る道が利用されたが、新居浜への道が開かれ
  ると、新居浜に口屋(浜宿)が設けられ、出入りの船舶や諸物資の管理支配に当たるようになった。口屋は、明治元年
  (1868年)、住友分店と改称されたのち、同22年(1889年)、惣開に分店が移転したため、その歴史を閉じた。現在口
  屋跡は、県の史跡に指定されている(新居浜市西町)(②)。
*6:銅の製錬は、江戸期には大阪鰻谷の精銅所で行われていたが、明治9年(1876年)、新居浜市立川の渡瀬に精銅工場が
  移され、さらに、新居浜製錬所の操業が軌道に乗ると、立川の銅製錬は停止され、新居浜製錬所が製錬部門の中心となっ
  た(③)。
*7:port authority。「自治的港湾経営体」とでも訳すべきもので、アメリカ合衆国では、1921年に、ニューヨーク港を管
  理するものとして、ニューヨーク・ニュージャージー・ポート・オーソリティが成立した。また、イギリスでは、これより
  前の1909年に、ロンドン・ポート・オーソリティが誕生している(⑥)。
*8:両港は、若松、八幡、戸畑、小倉、門司市の合併によって北九州市が成立した翌年(昭和39年〔1964年〕)北九州管理
  組合の管理となり、さらに、昭和49年(1974年)以降、北九州港湾局の管理となった。
*9:たとえば、港銭は、旅客大人1人1回につき2円、けい船料は、桟橋等の場合、船舶1トンにつき24時間まで2円など
  となっている。
*10:昭和37年(1962年)に制定された新産業都市建設促進法に基づいて指定されたもので、巨大都市の過大化防止と地域
  的な所得格差の是正を目的としている。全国で15地区、愛媛県では、新居浜市を含む東予地区が指定された。
*11:本項では、**さんとともに、新居浜港務局建設課技幹新田一雄さんから、多くの資料や示唆をいただいた。

写真2-2-2 新居浜本港

写真2-2-2 新居浜本港

西原町から対岸の惣開町側(住友化学愛媛工場)を見る。船は、四阪航路の高速船(みのはな)。平成7年12月撮影

写真2-2-3 新居浜本港に残る船客待合所

写真2-2-3 新居浜本港に残る船客待合所

平成8年1月撮影

写真2-2-4 整備が進む新居浜東港(マリーナ付近)

写真2-2-4 整備が進む新居浜東港(マリーナ付近)

平成8年1月撮影