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臨海都市圏の生活文化(平成7年度)

(3)タオル日本一を支えて

 ア 紋紙の民営化とプリントの創始

 **さん(今治市南大門町 大正6年生まれ 78歳)
 今治地区のタオルは、伝統的なジャカードタオル(紋織タオル)の産地として大きく発展してきた。特に戦後、タオルのファッション化が進展したため、意匠(いしょう)、紋紙専業者が各所にでき、あわせてデザイン作成も行われるようになった。意匠、紋紙業は、ジャカード機には欠かせない仕事である。紋紙(写真2-1-9参照)は、意匠紙の着色部分をみて、意匠紙の横1罫(けい)分を1枚の紋紙に穴をあけていく。この機械が紋紙穿孔機(もんがみせんこうき)である。この紋紙をバスタオルの場合800枚ぐらい綴り合わせて、バスタオル全体の模様を織り出すのである。
 四国タオル工業組合の資料によると平成6年の紋匠(もんしょう)デザインは30企業、従業員241人、生産額19億円である。

 (ア)紋紙民営化の苦心

 **さんは、今治に隣接する玉川町竜岡(りゅうおか)に生まれ、愛媛県立工業講習所に学んだ。卒業後再度改組された染織試験場に入り、そこで前出の菅原先生にジャカードを学んだ。「その当時(大正末から昭和10年代の半ば近くまで)、紋紙の製作は、染織試験場で行われていました。そのころ、輸出が多く、紋紙が間に合わない状態になり、菅原場長に話して、紋紙作りの商売を始めたのが昭和14年(1939年)9月でした。最初は、機械4台、5人で始めました。その当時は紋紙の編機械もなく、手で編んでいました。紋織は東南アジアへの輸出がほとんどでした。」

   a バンコク行きを目指して九死に一生を得る

 「その当時、『梅に鴬(うぐいす)』の柄のタオルがバンコクに何十万ダースと出た。今治のタオル屋さんがどんなにしても間に合わないぐらい出た。それが、昭和16年(1941年)になると東南アジアの輸出がばたっと止まり、仕事も同時になくなった。
 工場と言っても、しもたや(町の中の普通の民家)を借りての操業でした。そこで機械も4台置いたまま、従業員も辞めさせて、この際『梅に鴬』の柄のタオルがなぜ東南アジアだけに出て行くのか確かめにタイのバンコクへ渡ろうと親せきの人に相談した。すると、御用船(軍の徴用船)のまかない部を紹介され、昭和16年(1941年)11月10日宇品港(広島市)を出港しましたが、南シナ海で魚雷をくらって7時間も8時間も漂流して、やっと海南(はいなん)島へ拾い上げられた。帰りも船便でまた宇品港に帰ることができた。」

   b 手塩にかけた紋紙機の供出

 「それから佐世保の海軍工廠(こうしょう)に就職した。『あの機械や、在庫の10万枚も20万枚もの紋紙をどうするのか、家主が家を返してくれと言うがどうするのか。』という母親の手紙で、休暇を取って今治に帰り、機械をきれいに解体し、ネジ1本にもエブ(荷札)を付けていつでも組み立てられるようにして、竜岡まで馬車で運んだ。わたしの家の前の農協に、村の人が大勢集まって手伝ってくれたが、鉄だということがわかると、『**さん、農協の前に積んどる鍬(くわ)やなべは村の人が全部供出したんじや。この機械は何とかならんか。』と言われた。そこでしかたなく『機械3台分供出します。』と言った。」と話される。戦時下の厳しさが伝わってくる(写真2-1-10参照)。

 (イ)戦後の再開

 「昭和23年(1948年)に紋紙の製作を再開する。終戦当時で、いとこやはとこ(またいとこ)が徴用や兵隊から帰ってくる。伯父が呉の海軍工廠(しょう)から帰ってくる。また、一方では子供も失業して皆帰ってくる。それらをみな寄せ集めて、技術を指導した。1台の機械で練習させて、『意匠図というのはこういうものだ。』とか、まあ、熟練するのには、3年かかりますね。わたし1人でほかのものは素人ですから大変で、毎晩、毎晩1人でやっていた。その時分がつらかった。」と述懐されている。「そのころ楠橋紋織の社長さんに、『GHQ(*25)で民間貿易の許可が出たので、見本に戦前に輸出していたものの設計をおこしてくれないか。』といわれ、戦前のタオルをもとに設計を意匠紙におこしてわたしが作った。」
 昭和20年代の始め、輸出に活路を見い出そうとする業者が、輸出協同組合を結成して共同作業所を建設し、そこで紋紙づくりが行われたが、産地全体の紋紙づくりの体制は十分に整っていなかった。以後タオルケットの伸長とも結びつき、従業員の独立開業が多く見られる。紋工所も分業体制がすすむ。

 (ウ)プリントタオルの開発

 タオルのプリント加工業(タオルに図柄をプリントする。)は、戦後、それも30年代に入ってから始まった比較的歴史の浅い部門である。
 **さんは、顔料のヘリザリンカラーとの苦闘を1年ほど続けたのち、やっと満足のゆくプリントタオル(*26)の完成をみたのが、昭和31年(1956年)のことである。柔軟加工によりプリントタオルを柔らかくするなど、創意工夫による改良の結果、プリントタオルは次第に市場の人気を得るようになった。折しも高度成長と戦後世代の成長やタオルケットの伸長などともあいまって、従来の紋織にない華麗さが受け、大きく成長し、昭和30年代半ばからプリント業者が次々登場する。また、手捺染(てなせん)から機械捺染へと発展し、昭和43年(1968年)には自動スクリーン捺染機(スクリーン・ワクが定位置で上下運動をし、プリントされるタオルが次々移動する。)が登場し、多くの企業で機械化が進められ、増加する需要に対応してきた。
 四国タオル工業組合の資料によると、平成6年の捺染企業数は100、従業員1,617人、生産加工額は107億円である。

 (エ)プリントタオル創始のころの苦心

 **さんが、プリントタオルのヒントを得たのは、おぼろ染めの染料を大阪の道修(どしょう)町薬品問屋に仕入れに行った時、たまたまその店で社長の奥さんが趣味でつくったきれいに染め抜いた綿布のテーブルセンターを見たのがきっかけだった。「社長に聞くと、『最近ドイツで発明されたヘリザリンと言うプラスチックの粉末状のものに糊を混ぜて50℃の熱を加えると、石けんで洗っても落ちない。』とのことで、『タオルにはどうも。』と社長さんに言われたが、缶に入れてもらって帰った。わたしにひらめいたのは、『塗ってアイロンで押さえたらできる。何も化学知らんでも、機械屋でもできる。』と言うことだった。
 プリントを始めたころは、楠橋さんに見本に2等品でもよいからタオルを出してくれませんかと頼んだら、楠橋さんは、『これが完成した場合、浮気されませんぞ。』と釘をさされたが、タオルは、丸一年出してくれた。傷物になったり、どしたりして、ようようできた。しかし、どこも問屋さんが、タオルはジャカードと思っているから恐ろしがって買ってくれない。内野商店が引き取って百貨店に出してくれたが、1か月すると蛍光灯で色がさめる。そこで色落ちせんように堅牢(けんろう)度試験(*27)してまた出す。こんどは買って帰った人が固いと言って返品になる。丸1年間は全部返品になった。楠橋さんは、タオルを出してくれていたが、『1年間どうしょかいな、自殺しょうか。』と思ったこともありました。」の言葉に、**さんの1年間の苦闘のほどがうかがえる。「紋紙の方の取引き先がプリントをやってくれと言ったが、楠橋さんとの約束があるので時期を待ってもらった。3年ぐらいは秘密が保てたが、4年ぐらいすると染料の業者にドイツのヘリザリンカラーだということがわかって、わたし方の職人も独立して、開業者も多くなり、非常に人気が出た。
 昭和30年ころは、紋紙の機械8台、従業員はデザイナーを入れて30名だったが、プリントを始めると80名になり、昭和37年(1962年)に株式会社にした。羽藤紋工所から四国工芸に改めた。設計、紋紙という作業をするのは四国でもわたしとこ1軒しかない。陶芸も、絵も芸術だ。紋紙作るのも芸術じゃないかと誇りを持って四国工芸とつけた。」

 (オ)染料捺染(*28)への挑戦

 「プリントも最初はバスタオル専門にやっていたが、タオルケットにも進出するようになった。タオルケットも最初のうちは顔料染料(*29)を使っていたが、ちょっと肌ざわりが悪いので、反応性染料にも色気が出て、それを使いだした。蒸し上げて反応させて友禅と同じでいけるんではないかと考えた。
 染料捺染を使っている最中にさらし場に乾燥を頼んでいたのだが、さらし粉などの扱いでさらし場で色がとんでしまったことがたびたびであった。化学知らん人間だけに苦労した。また、乾燥させるのに直下型で鉄板に熱を当てて、その熱で上につるしたタオルを乾かすという非常に簡単な方法でやっている人が多かったので、火事といったらプリント屋だといわれるくらい火災が多かった。その後、捺染タオル乾燥機が開発され火災もなくなった。」と語る。
 プリントタオル草創(そうそう)のころを回想され、「しかし、ここまで売れるし、生産する機械が発達するとは思わなっかた。夢のようです。」と話される。
 現在は、息子さんに社長職を譲り、会社も東予市に、最新のプリント工場を建設するとともに、中国にもグループで進出している。

 イ 産地を支える研究者魂

 **さん(今治市松本町 大正14年生まれ 70歳)
 愛媛県立工業講習所は、大正10年(1921年)、県下染織工業の助長育成を目的とした技術者養成と、業界の指導に必要な試験研究を行うことを目的として蒼社川(そうじゃがわ)のほとり今治市蔵敷榎(くらしきえのき)町に創立された。昭和10年(1935年)4月松山工業学校染織科の新設に伴い講習所は廃止され、愛媛県染織試験場に改組された。昭和43年(1968年)頓田川(とんだがわ)のほとりにある東村南(ひがしむらみなみ)の現在地に移転し、平成元年愛媛県繊維産業試験場と改称され現在に至っている。当産地のタオル製品の高級化(ジャカードタオル)、技術者養成、新製品用途の開発などは、県立工業講習所(県染織試験場、現県繊維産業試験場)の活動に負うところが大きい。
 特に前出の第4代場長となった菅原利鑅(写真2-1-12参照)の献身的研究、指導による功績は顕著なものがある。また人材育成の面では、工業講習所の193名(2年修了)、染織試験所の伝習生37名(1年修了)の卒業生の活躍も大きい。
 **さんは、昭和16年(1941年)に染織試験場の伝習生(1か年修了)となり菅原先生の薫陶(くんとう)を受けた。伝習生を修了してからも、試験場に入ることを勧められて入所したが、昭和19年(1944年)に応召入隊。復員後、昭和21年9月に試験場へ復帰した。当時試験場は、意匠科、染色科、機織科、総務課の4つがあり、機織科が一番人数が多かった。昭和37年(1962年)に課制となり、この年に機織課の課長となり機織全般の責任を持つようになる。

 (ア)タオル専用の自動織機、革新織機の開発に成功

 染織試験場は、遠州(えんしゅう)織機株式会社(愛知県)と共同研究を進め、昭和32年(1957年)わが国初のタオル専用の自動織機(製織中によこ糸がなくなった時に、織機を止めないでよこ糸を自動的に補給する織機)の開発に成功した。この自動織機は、昭和33年(1958年)大阪で開催された見本市にも出品された。**さんは、「当時普通織機で、5、6分したらよこ糸を換えていた。非常に労働力を使う仕事で、持ち台数を増やせなかった。自動化と省力化への必要性を背景に昭和29年自動織機の開発に着手した。
 綿布織機の二大メーカーに豊田織機と遠州織機があった。遠州織機の杼(ひ)の中のよこ糸を巻いた管だけ替える(管替式(くたがえしき))方が豊田織機の杼(ひ)ごと替える(杼替式(ひがえしき))より、よこ糸補給が多くできるのではないかと考え、この構想をもって遠州織機に話した。当時(昭和30年代初頭)は、タオルは全国の織機台数も限られており、相手にされないのが常識であったが、社長さんに話したら了解してくれた。とにかく、地元で1台作ってみんと遠州織機にも頼めんだろうということで矢原織機さんに協力を頼んで完成にこぎつけた。
 また、昭和44年(1969年)1月には、タオル用革新織機(杼(ひ)を使用しない無杼(むひ)織機〔シャットルレス織機〕)の改造に成功した。革新織機が初めて当産地の工場に設置されたのは、昭和49年(1974年)のことであった。この革新織機も、大阪で国際見本市が開催された時、見本市に出席して、やがてタオルも革新織機になるのではないかと思ったわけで、革新織機は生産過剰になるとの意見があったが、改造にふみきった。当時綿布の革新織機を作っていた津田駒製作所(つだこませいさくしょ)に綿布用の革新織機を提供してもらい、1、2年経て国庫補助ももらった。矢原織機さんにも革新織機の時代になるんだと話して協力を得た。試験場で、作ってもらった部品をつけてテストする。それには矢原さんのような人に部品も作ってもらい、次々改良しながら完成した。矢原さんも一時は、今治で作っている革新織機の半分ぐらいは作っていた。試験場でやってもらったのがきっかけになったのではないかと思います。」と話される。
 織機の普及状況は図表2-1-13のとおりである。

 (イ)奥さんの一言をヒントに特許の申請

 「わたしはタオルを織っていた関係でタオルのパイルの長さは一定のものと考えていたが、昭和30年ころわたしの家内がふと『パイルを長くしたり短くしたりすることはできないですか。』と言ったのです。この一言を聞いて、わたしはほうと思った。水平思考、予想外の考え方、言い直したら素人の考え方というのが大事なのですね。そこで機械装置をどういうふうにしたらパイルを短くしたり長くしたりすることができるか考えた。日本では新しい考え方だったので、昭和36年と37年(1961年、62年)に特許を愛媛県の名前で2回取った。『これからは、素人的な考え方も尊重しなければならない。』と思った。それから、わたしの研究の取り組み方が変わった。専門家だけが考えるより素人的な考え方を用いた方が面白いんではないか。その方が飛躍した考え方ができる。それをやるのが専門家の仕事であって、できないことをできるようにするのが仕事だと考えるようになった。それまでは専門的にものを考えることしか考えなかった。とっぴもないことを言うてもらう。それによってヒントを得る訳で、タオルを知らん人にいいたいように言うてもろたらええ。と、今でもそう思っている。」

 (ウ)水平思考で多層ビーム開発

 **さんは、「昭和54年(1979年)、多層ビームというのを開発した。地の経糸とパイルになる経糸の2本使うのがタオル織りだった。現在でもそうだが、なにも2本でなくても、3本でも4本でもビームを同時に多く使って、変わったものができればいいではないか。多層ビームの考え方は、今までと全く違う考え方で一つの水平思考だと思っている。多層ビームを作ってみて、例えば、太い糸や細い糸を別々のビームに巻いて、ビームを同時に多く使って、それによって変わった織物を作ることに成功した。
 昭和55年4月から57年(1980年)3月退職するまで、試験場長となった。当時は業界の技術水準も低かったので試験場へも常に何人もの人が聞きに来たり、逆に講演に行ったりした。試験場には全国の情報が入ってきていた。試験場の果たす役割の大きい時代だった。」と当時を回想する。

 (エ)新しい時代にむけて

 染織試験場は平成元年に県繊維産業試験場と改称された(写真2-1-13参照)。平成3年度には4,000万円でコンピューターグラフィックスによるタオル製造システムが導入され、平成4年春から稼働を始め、第1号製品としてカレンダーを試作した。コンピューターグラフィックスでデザインした画像をフロッピーに人力、コンピュータを備えた織機がこれを読み取って織りあげた。赤、緑、青の3原色で1,677万色表示でき、微妙な色も完全に表現できる。「従来2か月以上かかっていた製品開発もこのシステムを使えば、どんなに複雑な図柄でも1週間以内でできる。」と、平成4年10月20日付の読売新聞で報じられている。
 同試験場では、「画像処理研究会での研究や、業者の依頼業務も増えている。コンピュータを利用することによって、織り上がりの完成まで予測でき、さらに織り上がったものが例えば実際に洗面所にかかったらどうだろうか、などをシュミレーションして提案力を高めていくこともできる。」と話している。


*25:連合軍総司令部(General Headquarters の略)。昭和20年(1945年)8月15日の日本降伏から、昭和27年(1952
  年)4月28日の講和条約発効まで日本の統治に当たった。
*26:捺染タオルは織成されたタオル地に顔料又は染料でプリントしたタオル。普通7色前後、10色以上の多色のものもあ
  る。
*27:タオルの品質の安定と向上をはかるための試験で、変退色の試験には、耐光、洗たく、汗、摩擦などに対する染色堅牢
  度試験がある。
*28:反応染料を使って糸や、タオルを染色するときと同じように捺染型を使って模様を染める方法。
*29:顔料(カラー)を固着剤(樹脂)でタオル表面に付着させ模様を出す方法。

写真2-1-9 紋紙

写真2-1-9 紋紙

平成7年9月撮影

写真2-1-10 紋紙穿孔機(もんがみせんこうき)

写真2-1-10 紋紙穿孔機(もんがみせんこうき)

戦前、紋紙を民営化したころのもの。平成7年10月撮影

写真2-1-12 菅原利鑅胸像

写真2-1-12 菅原利鑅胸像

今治城吹揚公園。平成7年9月撮影

図表2-1-13 タオル織機機種別台数構成比

図表2-1-13 タオル織機機種別台数構成比

『今治産地に未来はあるか(⑦)』より作成。

写真2-1-13 愛媛県維織産業試験場(前染織試験場)

写真2-1-13 愛媛県維織産業試験場(前染織試験場)

平成7年9月撮影