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臨海都市圏の生活文化(平成7年度)

(1)「儀助煮」の旅路

 小魚や小エビを利用した珍味は、もともと福岡県の宮野儀助(みやのぎすけ)が考案した製法によってできたものである。ゆでて干した小ダイや小エビなどを甘辛(あまから)く煮て、とうがらし粉・青のり・けしの実などをかけ、炉(ろ)の中であぶり乾かしたもので、考案者の名前をとって「儀助煮(ぎすけに)」という名称でよばれた。現在、この「儀助煮」という名称は登録商標であるため、その後作られた同類の製品には、「二名煮(ふたなに)」「五色煮(ごしきに)」「小浜煮(こはまに)」などの名が付けられている。
 これから、「儀助煮」として世に出された珍味が旅してきた道のりをたどっていくわけであるが、まずは、珍味が置かれている現在の状況から探ってみることにしたい。

 ア 珍味の現状と展望

 **さん(伊予郡松前町西高柳 昭和28年生まれ 42歳)

 (ア)今、珍味は?

 商品としての珍味がおかれている現状について、現在、珍味製造業に携わっている**さんに話をうかがった。
 「ぜいたくなことに、今の子供たちは、魚に頭や目玉が付いていたら、よう食べない。つまり、食生活の欧米化が進んで『畜肉乳製品(ちくにくにゅうせいひん)』が好まれ、『魚離(さかなばな)れ』という状況があります。だから、スーパーやコンビニ(コンビニエンス・ストア)に行けば、必ずサラミソーセージはある。干し肉はある。チーズ鱈(たら)はあります。限られたスペースでこういう商品が増えてくると、それと裏表の関係ではじかれていく商品がでます。それが、われわれの珍味なんです。こういう現象は、特にコンビニでよく分かります。コンビニに並べられている商品は、そこを利用する客層の最大公約数的な選択で選ばれた商品なんです。そこには、イカ系統・カワハギ系統・天ぷら(イカの天ぷら)系統・チーズ商品・畜肉商品の五種類が主流となっています。じゃあ、われわれの小魚珍味はどうなったかというと、売場のスペースからはじかれてしまって置かれていないんです。それは、先に話したような、若年層(じゃくねんそう)の『魚離れ』が原因です。
 スーパーやコンビニの商品は『POS(ポス)(*6)』で管理されていますから、その売れ具合は、毎日でも、週間でも、また当月でもすぐ集計されてその様子が分かるわけです。売れ具合の悪い商品のグループの中に入れば、すぐに店で扱われなくなります(*7)。逆に、その売れ筋に乗っかれば、これは大きいですよ。たとえば、一つの系列の店が5,000店あるとします。その1店で100gの袋詰め商品が1日に10袋売れたとすると、1店で1kgの売上げ。これが5,000店あるわけですから、毎日5tの売り上げになるわけです。
 瀬戸内で長らく培(つちか)ってきた技術を活用して、煮干しとは違うもっと食べやすいスナック菓子感覚のもので、しかもそれが体の栄養の補給になるというのならば、売れるのじゃないか、ということで『骨せんべい』タイプの商品ができて、現在消費者に受けているのです。『骨せんべい』タイプの商品原料は、100%ASEAN(アセアン)諸国(*8)からの輸入です。」

 (イ)「人手(ひとで)産業」の宿命

 珍味の産業としての特徴について、**さんの話を続ける。
 「われわれが作る珍味のようなものには、一定の水準の品質を保ち、量的にもばらつきなく提供できるかどうかという課題を、絶えず背負わされるわけなんです。天産資源を扱っているから、完全なオートメーション化・無人化はできない。それは、天産資源のばらつきがあるからなんです。サイズの大小や鮮度の善しあしなど、一つ一つが違うのです。そのため、焼加減一つ、乾燥の加減一つに従業員の判断や判定能力がかかわってくるのです。例えば、アイスクリームを作るように、素材をまったく違った形の製品にするのであれば、機械設備でできる。けれども珍味は、天然素材にその形を保ったまま付加価値を付ける業種なんです。言うならば、『設備産業』ではなく『人手産業』なんです。だから、大手が参入できない。」

 (ウ)珍味のこれから

 さらに、珍味の将来について**さんにうかがった。
 「松前の珍味は、家内工業(かないこうぎょう)的に伝統工芸の技術を持った加工屋さんが、自分の屋号(やごう)(商家(しょうか)などの家の称号)で自分の独自の製造方法で作り続けておる、というものじゃないんです。たまたま、この中予のこの松前町で起こるような原因があったから、集まってやっているんだけれども、加工手段として、その会社が独自に持っている技術で世に問う、というような形での製造・販売の展開を今までしてきていなかった。製品を流通に乗せるだけで、問屋業者や小売業者の名前で販売を展開していった、というふうな企業の業態がほとんどなんです。だから、販路は拡大しても、『松前の珍味』という名称は全国には知られていない。『かんづめ行商屋』さん(一斗缶に珍味を入れて行商していたので、こう呼ばれた)に任せて、行商屋さんの『顔』で売ってもらっていた。あるいは問屋さん・小売屋さんの名前で売られていた。つまり、作り手と売り手が別々で現在まできているのですね。だから、少しは作り手からも全国に向けて発信しようじゃないかと考えているんです。」
 以上の話の中に出てきた「かんづめ行商屋」という語句は、「松前の『珍味』」を考えるうえでたいへん重要なキーワードとなるのであるが、それについてはもう少しあとでふれることとし、次には、松前町内における珍味作りの始まりと、その販路の特徴を明らかにすることとしたい。

 イ 松前の「珍味」-その誕生から全国規模の販路確保まで-

 **さん(伊予郡松前町北黒田 大正12年生まれ 72歳)
 **さん(伊予郡松前町東古泉 大正13年生まれ 71歳)

 (ア)珍味作りの始まり

 まず、松前町での珍味作りの始まりから戦時中までのあらましを、長く珍味作りに携わってきた**さんにうかがった。
 「松前の珍味の始まりは、明治の中ごろと聞いとるがな。浜で獲れる小魚を、酸化防止とか保存するために、味付けをし乾燥させて、それを砥部焼(とべやき)を運んでおった『からつ船(*9)』みたいな船で広島へ送っていた。どうもそれが最初らしい。その後、福岡県の宮野儀助さんが『儀助煮』を作り、この松前で『儀助煮』が作られだしたのは明治の末だったと聞いとるな。そのころは、はやもう中国とか朝鮮とか台湾とか、海外のほうへも出しよったわいね。行商で現地へ行っている人に荷物を送っていた。戦前からずっと送りよったですよ。軍隊に納めるのも一緒にしてな。一種の保存食やな。」
 それでは、もう少し具体的に、松前町のどのあたりで珍味作りが誕生したのかを、先ほどの**さんと同じく、松前町の珍味作りに詳しい**さんに語ってもらった。**さんは、「ア 珍味の現状と展望」で話をうかがった**さんの父親である。
 「この松前では松本さんという人が『儀助煮』を作っておった。10人かそこらの家内工業でした。その人と、新立(しんだて)(松前町の西部海岸沿いの1地区)の阿部さん。それからわたしの叔父宮内馬吉の3人がやりよった。戦時中は3人ともやめて、これで『儀助煮』の先発業者は、一応やめたんですよ。
 戦後復活させたのが、昭和の24年(1949年)ぐらいかなあ、松本さんの親せきの人がまず起こしました。わたしのところは、わたしの父親は宮内馬吉の弟なんですが、それで仕事を見て覚えておったから始めた。新立の阿部さんも復活してはいたのですが、間もなく廃業してしまいました。阿部さんの息子さんが三津へ渡って、今現在は、『二名煮』いうて、これも『儀助煮』の名称を変えたものだけど、それ一本で戦後からずうっとやっている。いいものを作り土産物(みやげもの)として継続してやっています。」
 このように誕生した「松前の『珍味』」も、その歩みは決して平たんなものではなかった。松前の珍味製造業者はいかにして、その販路を開拓していったのであろうか。次にそのことについて探ってみた。

 (イ)販路確保の努力

 **さんの話が続く。
 「わたしのところが、この松前で珍味を生産して、地元の業者や行商人との取り引きで完売状態だったのが、昭和の33年(1958年)ぐらいまでかなあ。全盛期は昭和の30年(1955年)やったけど、それがだんだん売れなくなって、『もう廃業・転業しようかあ。』と言よったんよ。戦後復活して4、5年間売れたら、消費者に飽(あ)きがきたんよ。販売業者の人も、「自分たちがそんなに苦労して珍味を売らんでも、他にもっと売れる商品がある。」と。するめの加工商品を名古屋や大阪の業者が作ると、それが飛ぶように売れておりましたわい。商品を売ってくれておった松前の『つきだし行商人』(『かんづめ行商屋』のこと)もするめへ移行してしもて、松前の商品を扱わんようになって、売れなくなってしもた。それなら自分で売るしかないということで、『松前ぎり(だけ)におるから、県内ぎり、四国ぎりになる。ちいと(少し)は外へ出て動いてみい。』と先代が言いだしてね。まず、人口密度の高い大阪に行けということで、昭和の32年(1957年)ぐらいやったかな。忘れもせんけど、夏の暑い盛り、お盆があけた17日、西も東も知らん大阪へ出ていったわけです。
 わたしが無知だったんですけれど、販売ルートちゅうものをよう見いださなんだ。それで、苦労しました。先代からは、一斗缶(いっとかん)(1斗=10升、約18ℓ)を2缶合わせたものを50個、つまり一斗缶100本よね。当時の金額で5万円ぐらいかな。それを売ってこいと渡されておったんよね。大阪の天保山(てんぽうざん)、今の弁天埠頭(べんてんふとう)に着いて、荷は関西汽船の運送屋に預けて、自分は安宿(やすやど)へ泊まって、そこから大阪の市内をジグザグに歩いていったんよね。無駄な所をずいぶん三日も四日も歩いたわけよ。珍味を買ってくれるお客さんのおらん所をね。その時分、松前に『岩本』さんというブリキ屋さんがあったんだけど、その人に頼んで、自分なりに考えた『(商品の)サンプル箱』を提げてね。もう、一日中歩いて、汗かいて、それでもぜんぜん売れない。
 大阪に着いて三日たったごろ、運送屋からは『荷物をいつになったら引き取るのぞ。』といわれた。運送屋にはせかされる、商品は売れんとなると、心身ともに疲れてしもてね。それで、五日目ぐらいに、大阪の中央市場の手前の九条(くじょう)商店街の雑貨屋さん、名前は忘れてしもうたが、そこへ入ってみると、珍味を店頭に置いておるんですよね。『ああ、ここでちいと安く売ってもかまわん。商品を置いておるからここなら買ってくれる。』と思って、内心では喜んだんですよね。そしたら、『単品では、どんどんは、もう売れる時期は過ぎました。2、3年前はどんどん売れたんですよ。今はもうほとんど出ません。』とそこの店主に言われました。こちらの苦しい事情を説明すると、店主は、「あんた、大阪初めてで、地理に不案内で苦労しとるのは当然だけど、あなたの商品を必要とする業者、その業者を見つけんことには商品はさばけんぞな。その業者がどこにおるか分からんのでしょう。それを知るためには、商工会議所へ行けば一番早く発見できる。』と教えてもらいました。
 翌朝、夜が明けるのを待ちかねて、尋ね尋ねて、地下鉄に乗って、難波(なんば)に着いて、午前8時30分ぐらいに商工会議所に着いたかな。『そんなに苦労したんですか。うちへ来れば、すぐ教えてあげたのに。』と、いとも簡単に販売先が分かったんですよ。
 珍味は単品ではもう弱いということでしたが、これを『混ぜ菓子業者』が、『あられ』や『おかき』とミックスしたものがだいぶん売れてましたわ。そういう『あられ業界』に気が付かなかった。どうしても単品を売ろう売ろうとしているから、発見が遅れたわけです。商工会議所の事務長さんに教えてもろて、大阪の西成区(にしなりく)の大きなあられ屋さんが分かったんよ。当時、5、60人の従業員がおってね、大手やったんよ。先代からは、100目(「目」は「匁(もんめ)」のこと。一匁は約3.75g)75銭で売れよと言われておった。どうしても売れなかったら65銭でもいいと。それで、『75銭を70銭にしたら全部買ってやる』とそのあられ屋さんが言ってくれた。もう、欲も得もないんよね。もう、くたびれてしもて、『ありがとうございました。』言うて、全部売ってしもた。それでもう、飛んで帰ったんよね。
 そこにまだわたしの落ち度があったんよな。『お前、のう、70銭で売って戻るのはかまわん。でもどうして、あとの在庫の商品も売って戻らなんだんぞ。せっかく売り手も見つかり、販売ルートも分かったんだったら、なんで大阪のその業界を回らなんだんぞ。その業界は、大阪には1軒や2軒じゃないんじゃけん。』と、先代に怒られた。疲れて戻って、怒られて、なんと引き合わんのうと思ったけれど、おやじの言うことは道理だ、と思い直して、三日ほど休んでまた大阪へ出ていきました。大阪で10軒ほどお得意先を確保してもんて(戻って)ね。それから地域を広げて京阪神地区一帯。それがすんだら『今度は東京へ出よ。』言うてね。先代に鍛えられました。それで大阪から東京へ直行したらね、『途中があろが。』ちゅうんよね(と言うんです)。『名古屋があろが。』と言うことなんです。『お前は、言われたとおりに動くことしかできんのか。』とまた先代に怒られた。そんなことがあって、今日になっとるんですよ。」

 (ウ)さらに、全国へ

 再び**さんの話を続ける。
 「昭和40年(1965年)ごろ、日本全体が景気のいい高度経済成長の時期に、人々の生活に余裕ができてくると、珍味がどんどん売れだして、非常にもうかった。それで、松前でもかなりの数に業者が増えた。しかし、珍味というのは生活の必需品というわけではないから、いくらでも無限に売れるというものでもない。各社とも売上げが低下して、あるいは倒産ということにもなる。値下げの過当競争になって、相手がつぶれるまで戦うという競争になってしまう心配がある。だから、新しい販路の開拓が必要になってくる。そこで今度は、今まであまり重視してなかった全国の物産業者・お土産業者に販路を拡大していった。例えば、別府の観光地に松前で作ったエビ製品とかカレイ製品とかを持って行ったら、別府の物産業者が、自分とこの庭先で作ったように包装を変えて、『別府の名産品ですよ。』と言う。北海道の札幌へ行っても、『札幌でできたものですよ。』言うて売られる。全国各地に松前の珍味が広がる。それで、松前でこんだけ業者が増えても、やっていけたんよ。」

 ウ 海を越える珍味

 **さん(伊予郡松前町筒井 大正2年生まれ 82歳)
 明治時代の末から昭和にかけて愛媛県内に限らず全国へ販路を拡げた珍味であったが、「松前の珍味」販売の大きな特徴は、問屋を経由した販路とともに、「つきだし行商人」や「かんづめ行商人」と呼ばれ、日本全国さらに戦前は中国大陸にまで広く活動していた、いわゆる「松前の行商人」たちに販売ルートを持っていたことである。
 それでは、この「松前の行商人」たちが展開した珍味販売の活動とは、いったいどのようなものであったのだろうか。約40年間、珍味の行商に携わった**さんに話をうかがった。
 「珍味の行商は、昭和12年(1937年)から始めて16年(1941年)に一度やめたんです。やめた言うても、もう物資がないなった(なくなった)からね。その時は中国東北地方(*10)(旧満州。図表1-3-6参照)へ行っていました。わたしらが行きだしたのはもう遅いほうです。わたしらより先に松前から行きよった人は、だいぶ(たくさん)おるんよ。わたしらがしまい(終わり)ぐらいじゃったけんね。だいたい落ち着くとこはチャンチュン(長春、旧新京)じゃったんです。チャンチュンとハルビン(哈爾浜)じゃね、だいたい。そこ中心にして商売に出よったからね。あのとき何人ぐらいおったんじゃろか。15人ぐらいおったなあ。港は、伊予市(当時は郡中港)からね、船に乗って。ほて(そして)門司(もじ)へ着いてね。門司からターリエン(大連)行きの船に乗って着くんですが。伊予市からは夕方船が出ていました。ターリエンまで二日ぐらいかかったんじゃなかろかね。
 春いたら(行ったら)節季(せっき)(年の暮れ。)に松前に帰りよったんじゃがね。春4月ごろに行くんよね。ほしたら(そうしたら)もう12月ごろに帰るんですが。その間は、むこ(向こう)で生活するんです。冬の寒さの厳しい時期は避けて商売するんじゃけど、それでも寒いよ。むこの寒さは、北海道の寒さとまた違うんよ。寒さが刺すように痛い。北海道の方は荷物背負って歩きよったら、汗が出るときもあるけどむこではそんなことはない。皮膚がちょっとでも出ておったら凍傷になっておおごとじゃった。ほじゃけん(だから)全部隠さないかんのよな。毛皮は高いからよう着ん。綿入れのはんてん着て、ほて上から毛糸のうわっぱりぐらい着よったんじゃなかろかね。もうあんまり覚えてないが。ただ、頭から三角の布をすっぽりかぶりよったんは覚えとるがな。
 中国東北地方のときはね。家を構えておるんじゃないんでね。まあ言うたら知人いうんかね。チャンチュンに八幡浜の人がおったんじゃね。『シバタ』さん言よったかな。ほて、先から行きよる人がじゅんじゅに(順番に)その人のところに、家が大きかったんで泊まりよったんじゃね。ハルビンには、松前の人がおったんよ。ハルビンでお餅とかいろんなものを商売しよったんよ。そのおじいさんとおばあさんが人がええんで、松前の人が来たら『うちへ来て泊まれ。うちへ来て泊まれ。』言うてな。店は、ハルビン会館いうところの前じゃったがね。裏に自宅があってね。その自宅いうんが、今で言うたら長屋じゃな。路地をずうっと入っていったら、広場があるんじゃ。その広場にずらぁっとこう家があるんよね。ほてそこに、中国人もおりゃ、ロシア人もおる、日本人もおるんでね。みんなが一つずつ部屋を借りとるんでね。そんなとこにおったんですが。よう(よく)、ロシアの漬物(つけもの)をもろたりして食べよったね。ロシア人の子供はかわいかったですよ。お人形さんみたいなんよね。それこそキューピーさんみたいなんよ。娘さんなんかはきれいなしな。
 そこから今度は汽車に乗って、珍味売りに行くんですが。荷物を背負ってな、みんなが。珍味はカンカン(缶)に入っとったな。大きさは、今の石油缶を横に倒したぐらいの長さで、深さが半分ぐらい。これを何段も重ねて大風呂敷(おおぶろしき)で背負いよったな。この時はまだ秤(はかり)を持ってね。量り売りしよったんよ。このごろは、地元の松前町で作られた珍味が多かったわいな。『松本』いう人が、松前で珍味を作りよったんよ。今はないけど。イカとか『儀助煮』とかね。ほて、しまいには上(かみ)のもんを取って売ったけどな。『上のもん』いうたら、大阪に日本中の珍味がよる(集まる)ところがあるんよ。それをこうて(買って)売りよった。
 どこへ売りに行きよったかいうと、もう、国境へまで行きよったよ。ヘイホー(黒河(こっか))とかね、チチハル(斉斉哈爾)、マンチョウリー(満州里)、ソェイフェンホォ(綏芬河(すいふんが))、パイチォン(白城(はくじょう))(図表1-3-6参照)。そいうとこの料理屋とかね、旅館とか、むかし『カフェ』(特にわが国で、大正から昭和初期ごろ、主として洋酒類を供した飲食店)言よったとこにもな。そういう商売人のとこへ売りに行くんよ。日本人のとこへ売りに行くんです。個人の家じゃなしに(ではなくて)。ここでは、特に得意先いうのは決まってはなかったな。ここは、人の出入りが激しいんよ。ほいでも顔はよう覚えて買うてくれよったけどな。また、官舎(かんしゃ)みたいなところへもいたりね。珍味の荷は、わたしらが住んどるところにちゃんと着くように頼んどんよ(頼んでいる)。わたしらからの注文は、はがきで出すんよな。ほしたら荷が来よったんよ。ほしたらやっぱりな、日本から送ってくるんじゃけん、税関にひっかかることもありよったんよ。外国(日本)から荷が入って来るんじゃけん税金(関税)を払わないかんでしょう。いっぺん郵便局に呼ばれて行たこともあらいな。荷物は郵便で来よったんじゃね。
 収入は、4月から12月まで向こうにおって1,000円ももうけて帰りよったんじゃろか。そのごろの1,000円じゃけん、たいしたもんよね。わたしが子供を預けて行きよったんが、月に10円ぐらい払いよったけれな(からね)。うちの旦那(だんな)が会社に勤めて、月に30円ぐらいもらいよったんじゃろう。
 そんなに辛(つら)いことはなかったよ。まあ、若かったけんな。20代の半ばじゃけんね。ま、子供と別れる時が辛いわいね。子供を置いて行くんがね(行くのがね)。人に預けて行くんじゃけんね。乳のある(出る)人に。ほじゃけれ(だから)、わたし思いよった。自分はお金で人に子供を預けて行くのに、こんだけ辛いんじゃけれね。自分が育てれずに人に子供を離す人は、本当に辛かろうなと。わたしぎり(だけ)じゃない。この松前の人はみんな子供を預けて行くんじゃから。仕方ないと思わんといかんわいね。子供をおじいさんやおばあさんに、乳飲み子は乳のある人に預けてな。
 この松前の女性いうのは、『おたたさん(*11)』の時代から働き者で元気なんよ。男の人は商売にならんのよ。気が短いんかな。ちょっと売れなんだら、すぐやめて帰ってしまうんよ。今考えたら、よう行たもんじゃと思うね。けど、周りがみんな行きよるから、もう当たり前じゃと思うんよ。人が行くけれな。自分も行てもうけてこないかんと思うてな、行くんよ。『商売によう行かんのじゃったら、かい性がない。』と言よったぐらいじゃからね。
 昭和28年(1953年)ごろからまた始めましたかな。このときは北海道です。わたしがやめたのが昭和56年(1981年)でした。昭和50年(1975年)ぐらいにはいっても、十分商売はできよったんですよ。みんなそれぞれ行商をする区域があるんよ。わたしらは道東へ行きよった。根室(ねむろ)とか帯広(おびひろ)とかな。釧路(くしろ)。ほいて(そして)、野付崎(のつけさき)の標津(しべつ)。知床(しれとこ)半島の羅臼(らうす)(図表1-3-7参照)。
 北海道には、珍味を扱う問屋さんがないんよ。わたしらが行かなんだら、珍味というものがないんよ。タラとかイカを松前の珍味屋さんが北海道から仕入れて、珍味に加工して、逆に北海道に売るんよね。ほして、遅う(遅く)なってきたら、珍味がスーパーに出だしてね。それでもう商売にもならんし、年もとったしでやめたんよ。最後は、わたしとわたしの姉の二人だけになってしもたんじゃけんね。松前の行商人は、北海道の岩見沢(いわみざわ)に20人ぐらい、滝川(たきかわ)に3人と、深川(ふかがわ)いうとこに3人おっかな(図表1-3-7参照)。北海道では、めいめいが家借ったりアパート借ったりしてね。やっぱり4月に行ったら12月までは帰らんのよ。今度はもう、だいぶ、みな、お得意先がきまってね。中国東北地方とちごて(違って)ね。むこでは、貸し売りできんけんね。現金取り引きじゃったけど北海道の方は貸し売りでね。今月行ったら先月の代金をもらうというようにね。売りに行って、商品の手持ちがないものは注文取って商品を送って、ほて、集金しに行ってはその時に次の注文を取ってくる。北海道も、わたしらが行きだしたのは遅い方です。もうわたしらが中国東北地方へ行きよった時から、北海道へ行きよった人があったんじゃけん。北海道から樺太から。樺太で家持っとる人もおったんじゃけんな。松前の人は、台湾も行く。朝鮮半島へもいく。今でもまだおるよ。青森の方は。むこへ住み着いておるんよな。」


*6:「販売時点情報管理システム」のこと。小売店のレジにコンピュータを組み込んで、多くの場合商品に付けられたバー
  コードを読み取り、商品コードをコンピュータに記憶させるとともに、レジには、商品コード番号に見合った価格を指示す
  るシステム。どういう商品が、いつ、どのような人に売れたかが正確に把握される。
*7:「売れない商品は、早ければ2週間で姿を消す。その結果、コンビニの商品は1年で7割が入れ替わると言われる。
  (⑤)」
*8:東南アジア諸国連合のこと。1995年現在の加盟国は、インドネシア、マレーシア、フィリピン、シンガポール、タイ、
  ブルネイ、ベトナムの7か国。
*9:砥部焼などの陶磁器(とうじき)を積み、販路を遠隔地に求めて行商する帆船(はんせん)を松前地区では、「からつ船」、
  通称「五十集(いさば)」または「わいた船」といった(⑥)。
*10:聞き取りでは「満州」という呼び方がよく出てきたが、本書では今日の一般的な表記にしたがい「中国東北地方」とし
  た。他の中国の地名も同様に、今日の表記にしたがい、旧名称は( )書きにした。
*11:伊予郡松前町の女性行商人。のちには、松山近辺の女性行商人の一般的な呼称となった。ゴロビツと呼ぶハンボ(木製
  の桶)に魚を入れて、頭上に載せ、絣の着物に、手甲(手の甲をおおい保護するもの。)、脚絆(すねにまとい、ひもで結
  んで、動きやすくする布。)、前帯、前だれ、わらじ履きの特有の服装で、松山市など近郊の町や村に魚を売り歩いた。

図表1-3-6 昭和16年ころの東アジア

図表1-3-6 昭和16年ころの東アジア


図表1-3-7 北海道での行商先(**さんの場合)

図表1-3-7 北海道での行商先(**さんの場合)