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臨海都市圏の生活文化(平成7年度)

(2)島々への玄関口

 ア 離島航路の概況

 (ア)芸予(げいよ)の海

 瀬戸内海の中央部に位置する島々は芸予諸島と呼ばれ、広島、愛媛の両県にまたがる。愛媛県に属する島々はすべて越智郡に属し、地域的には越智諸島と上島(かみしま)諸島に分けられる。このうち越智諸島は、県内最大の大三島はじめ、大島・伯方島・岡村島などから成り、大三島町・上浦(かみうら)町・伯方町・宮窪町・吉海町・関前村の5町1村がある。これに対し上島諸島は、弓削町・岩城(いわき)村・生名(いきな)村・魚島(うおしま)村の1町3村から成る。
 芸予の島々は、約100万年前に北東から南西方向に軸をもつ断層や土地の隆起、沈降運動によって形成された。隆起部分が島となり、沈降部分が「灘」となって交互に配列している。島と島とを結び、さらに「灘」へ通じる水道を「瀬戸」と呼んでいる。
 「瀬戸」は潮流も速く、来島海峡では、春秋の大潮時には流速10ノット(時速18km)以上になる。気候は典型的な瀬戸内海気候であり、大三島で年平均気温15.1℃、年平均降水量1,163.6mmである。また、瀬戸内海は、四方を陸地で囲まれているため、「瀬戸の夕凪(ゆうなぎ)」として知られる海陸風が発生する。さらに、季節によって濃霧が発生しやすい特性をもっている。瀬戸の潮流の速さと、海底の岩礁(がんしょう)、濃霧の発生は船舶にとって交通の難所となり、船の遭難多発海域である。

 (イ)離島航路

 明治の後期に始まった今治-尾道間の離島航路は、越智郡の島しょ部の人々にとって生活の足として長く親しまれてきた。中でも因島(いんのしま)汽船株式会社と愛媛汽船株式会社は、個人経営の渡海船とともに「縁の下の力持ち」の役目を果たしてきたといえる。
 因島汽船は昭和7年(1932年)、広島県因島市に本社を置き、土生(はぶ)(因島市)-今治間、尾道-今治間の2航路を開いていたが、尾道線は昭和49年(1974年)に廃航、土生線も昭和58年(1983年)因島大橋の開通に伴って航路を縮小し、昭和62年には芸予観光フェリー株式会社へ引き継がれた。愛媛汽船は、昭和24年(1949年)に設立され、今治-尾道間の航路を前身の愛媛汽船組合から引き継いだのを皮切りに今治-三原間、木浦(きのうら)(伯方町)-尾道間などの航路も取得し、1日1往復のダイヤで運航していた。
 今治-尾道間をフェリー化したのは、昭和43年(1968年)7月からで、その後昭和62年(1987年)に経営から撤退し、業務は芸予観光フェリーに引き継がれた。
 終戦(昭和20年〔1945年〕)の直前に戦時統制により設立された瀬戸内海汽船は、今治-尾道間で活躍したが、カーフェリー時代を迎える直前の昭和39年(1964年)に離島航路から撤退した。今治と大島の下田水(しただみ)を結ぶ航路は、協和汽船株式会社が昭和37年にフェリー化。当初は2隻で1日10往復をこなしていたが、現在では、3隻が1日39往復というピストン運航を行っている。
 定期航路以外では渡海船と海上タクシーがある。明治以前に始まったとされる渡海船は、離島の人々にとって欠かせない生活物資や日用品を運んでくれる「便利屋さん」であり、同時に旅客船であった。この渡海船の最盛期は昭和30年代で、その後は離島フェリーに押されて次第に廃航が相次ぎ、現在では8航路、9隻が残るばかりである。
 海上タクシーは、今治で残業や宴会のために最終フェリー(午後10時)に乗れなかった島の人たちの大切な足となっている。また、冠婚葬祭の団体さんによるチャーター便や観光船の役目も果たしている。
 平成10年(1998年)には来島大橋と多々羅大橋が完成し、今治-尾道が一本の道でつながる。そのとき、今治港は、汽船会社は、渡海船は、そしてそれらにかかわる人々はどのような変遷をたどるのだろうか。芸予を結ぶ海上航路に多大の影響を与えることになるが、しかし、今治-尾道ルート(西瀬戸自動車道)の完成は、本州・四国間の交通輸送の円滑化と、島々の生活利便の向上と発展に大きな効果が期待できる。

 イ 島々とのつながり

 (ア)伯方島と今治築城

 伯方島は瀬戸内海のほぼ中央、芸予諸島の中心にあり、越智郡島しょ部の文化・交通などの中心地である。周囲は32.5km、東西7km、南北5km。岬が八方に突出し、木浦(きのうら)、有津(あろうず)、熊口(くまご)、叶浦(かのうら)などの良港を作っている。また、北部の遠浅の湾は埋められて広大な塩田(現在は、クルマエビの養殖池などに利用されている。)となった。
 伯方島は、江戸時代を通じて今治藩に属し、5か村に分かれていた。明治22年(1889年)の町村制施行で、北浦(きたうら)、伊方(いかた)、叶浦の3村が合併して西伯方村に、木浦、有津の両村が合併して東伯方村となった。昭和15年(1940年)に東伯方村は、町制を施行して伯方町となり、同30年に西伯方村と合併して今日に至っている。
 江戸時代から北浦の男性は石工(いしく)(石を刻んで細工する職人)か浜子(はまこ)(塩浜で労働する人)になっていたが、中でも石工の割合が非常に高く、島外への出稼ぎは石山稼業がほとんどであったとか。この北浦の石山稼業について、『愛媛県史地誌Ⅱ(中予)(⑬)』には次のように述べられている。
 「北浦の石山稼業は、慶長年間(1596~1615年)に始まった藤堂高虎による今治築城にまでさかのぼるとされている。今治築城の際、城普請(ふしん)の心得のある大工や石工が多数集められた。北浦村の人々は水軍時代の経験を生かして、小船を駆使して築石を運んだり、石積みを行ったが、これらのことに、大変熟練しており築城に大いに貢献した。当時石の仕事が上手な人は、普通の労賃の3倍もらえたそうで、急にお金持ちになった人が増えたという。石材も切り出してこれを小船に乗せて運んだと伝えられている。この結果、北浦村の石工は有名となり、北浦のカチ(カチの語源は定かではないが、石工のうち一人前に仕事ができるようになった者をカチという。)とか北浦の石船とか言われるようになったという。」

 (イ)米穀商を営んで

 **さん(今治市中日吉町 大正3年生まれ 81歳)
 戦前・戦中・戦後と港の近くの中浜町で、米穀商を営み(現在は中日吉町に移転)、主に大三島、伯方島、大島の渡海船に、米・麦の主食を販売していた**さんにその移り変わりを語ってもらう。
 「結婚した当時(昭和10年〔1935年〕)升でお米を量るのが大変でした。最初は上から押さえつけて量るものですから、一斗のお米でも実際は一斗以上になっているとよくしかられたものです。上手に量れるようになるのに苦労しました。
 手漕ぎの時代は、潮に乗ってくるので朝早い時もありましたが、機械船になってからは大体9時には来ていました。渡海船は、島の人々から依頼された品物や乗客を乗せて午前6、7時ごろ島を出る。港に着くと船長さんは、船が出港する(午後1時ころ)までの4、5時間の間に、お得意先を回って今日の売り物(果物・豆・そばなど)を店に並べたり、依頼された買い物(米・野菜・肉・醤油・酒など)や病院の薬取りなどあらゆる用事をやっていました。ですから島の人たちにはその便利さが好評でしたが、その渡海船もフェリー化のため衰えてきました。
 当時米・麦は、港まで大八車で運んでいました。荷物の多いときは、仲仕さんに頼んで港まで持っていってもらっていました。
 終戦後は、時代とともに生活もぜいたくになって、米中心になり麦を食べなくなってきました。そのためわたしの家は、麦中心の商いをやっていたので大変苦労しました。たまたま米の権利を家ごと売る店があったので、それを買ってまた米の販売を始めたのです。
 米の販売が統制されていた時代(厳しかったのは昭和18年から25、6年ごろまで)は、販売地域が決められていて、わたしの家は島の人たちに米を売ることは禁止されていました。島から買いに来られても内緒にしか売れません。1度見つかってしかられました。」

 (ウ)島の人たちとの交流の思い出

 **さん(今治市鯉池町 昭和5年生まれ 65歳)
 昭和23年(1948年)から吉忠回漕店に勤務し、島方を担当していた**さんに、島の人たちとの交流について語ってもらう。
 「わたしが吉忠に入社した当時は、島方から来たお客さんが港町、本町、常盤町、下(しも)の町などで購入したものや、購入を頼まれた船長さんや、島方の人が直接商店に電話して注文した品物などを、業者が港まで運んで来て送り状があるものないもの一緒にして、船にどんどん積み込んでいました。当時の商品は日用品中心で、ありとあらゆるもので大変複雑で、だれの品物かも分別できない状態でした。これでは船長さんも大変ですし、回漕店の収入にもならないので、積み込む時間帯になると、わたしは、桟橋に出て業者より荷物を受け取り、送り状を作るようになりました。料金は着払いが多く、島方の回漕店が配達して料金を受け取ります。回漕店は手数料を取って船会社に送る。わたしの所は船会社より積み込み料をいただきます。船会社は、反対に島方より今治着払いの品物もありますので、実際は相殺(そうさい)してその差額分のみ送金するようになっています。
 わたしは毎日積み込む時間になると、桟橋に出て送り状を作っていましたので、船の人とはもちろんのこと島の人たちとも顔見知りが多くなりまして、皆さんからいろんな電話があるようになりました。病人が何時発の船に乗ってそちらに行くから、車を準備しておってくれとか、子供が何時の船で今治へ行ったから、学校の寮を教えてやってくれとか、それはいろいろありました。また、お客さんからはお土産をよくいただきました。終戦時には、食料不足の時代だったものでしたから、ふかした芋とか、釣った魚を持ってきて会社のみんなで食べなさいと、本当に島の人たちには大事にしてもらいました。」
 「トーカイさん」の名で親しまれていた渡海船について、**さんは「渡海船は、島の人々にとっては生活の足でして、日用品を運んでくれる海の宅配便です。しかし、その渡海船も、全盛期には47隻もいましたが、今ではフェリー化が進み、荷物の運搬もトラックに替わりまして、現在も活躍しているのは9隻のみになり寂しくなりました。」と語る。

 (エ)回漕店からお土産店へ

 **さん(今治市常盤町 大正12年生まれ 72歳)
 昭和46年(1971年)3月にお土産店に変わるまで、父の代から回漕業を営んでいた、**さんに当時の思い出を語ってもらう。
 「中国と今治との間の島しょ部を経由して行く呉・広島、竹原、三原、尾道の4航路を1日15往復やっていました。島の航路は生活ルートですから、帆走手漕ぎ時代からあり、昔は今と違って島の人たちは、島内には物が十分になかったので、物資を求めて今治か尾道に行くしかなく、渡海船を中心に結構繁盛していた。
 当時は船も小さかったので、海の時化や潮待ち、風待ちで欠航も多かった。そうすると旅館経営者から問い合わせがよくありました。また、その後、焼玉式の動力船となっても最終便が午後6時と早く(現在は午後10時)、そのため旅館も盛況だったようです。当時の船長さんは、よく潮、風の動きを知って上手にやっていました。
 戦前は個人経営が多く、それぞれの航路を持って運航していましたが、戦時中油が統制になって、一つのグループを作れということで、瀬戸内海汽船・愛媛汽船・因島汽船等のグループができていった。
 島の生活航路ですのでお客は、島の人たちが中心でしたが、ただ、大三島航路ですと大山祇神社を参拝して国宝館を見学するという観光的な要素もありました。メインは島しょ部を経由して尾道への東回り、西回りの航路で活況を呈していました。
 戦後は戦災のために大きく変わりました。焼け残った事務所を利用して、航路によって二つの組合(愛媛回漕組合・今治合同回漕組合)が作られました。わたしは復員して今治合同回漕組合の方で仕事をしていましたが解散になりました。そこでわたしの所では、因島汽船専属で形態を変えて、営業所として仕事をするようになりました。しかし、その後フェリー化が進み、今までとは変わって荷物の取扱いも減ってきたので、営業面も芳しくなくなってきました。そのため合理化するということで、船の方をフェリー化し、客荷物の取扱いもフェリーサービス部として、わたしも役員になり、お土産店をやるまで営業していました。」

   a 回漕店経営の思い出

 「昔は今のような海上保安部はなく、水上駐在所が取り締まりをしていました。昔は濃霧で視界300mになっても停船勧告するということはありません。また、レーダーもなかったのですが、出港するかどうかは船長の判断ひとつで決まっていました。船長の腕次第ということです。今考えたらそれだけ昔の船長はすぐれた技術を持っていたと思います。
 出港したら、現在どこに船がおるのやら。船舶電話はないでしょう。連絡したくてもする方法がなく、陸上では心配で気を遣ったものです。
 また、春先になると、濃霧がある限られた場所だけかかる場合があって、今治港の岸壁が濃霧ではっきり分からなくなったときなど、船は汽笛を鳴らしながら、桟橋ではカネを振ったり、カンカン(缶)をたたいて桟橋の位置を教えていました。これは戦後しばらく続いたと思います。
 時化で出港を見合わせているときなど、島の人たちから家に早く帰りたいので、よく船を出してくれと頼まれたものです。当時船長は、腕の見せどころやと言って無理して船を出していました。今だったら海上保安部にしかられてできませんが。」

   b お土産店の経営

 お土産店の経営に替わっても、回漕店をしていた関係で、島の人たちと顔なじみが多く、よく利用してくれるそうである。
 「店は観光客や島しょ部のお得意が多いのですが、架橋完成後、船が減便されたり、また、ここを通過しなくなるのではないかと商店街では心配しています。港今治をいつまでも続けたいものです。現在フェリー化が進み、マイカーが多い。そのため船が着いても、すぐ車に乗って素通りする観光客や団体客が増えてきました。また、島行きの最終便が遅くなりましたが、一般に商店街は閉店が早いという苦情もあります。」

 (オ)民間最初のフェリーを走らせて

 **さん(今治市常盤町 昭和5年生まれ 65歳)
 今治海運業の移り変わりについて、**さんに語ってもらう。
 「笹の井酒造・村上汽船部として、明治・大正ごろより今治から島回りで尾道までの旅客航路の運営に携わっていました。
 その後、第2次大戦中の燃料統制や戦後の再編成などで、笹の井酒造村上汽船部が中心となって設立したのが、今の愛媛汽船株式会社です。昭和31年(1956年)父は、まだ鋼船の少なかった内航海運の将来性に着目しまして、昭和海運株式会社を設立し、『第一福盛丸』(500トン)を建造しまして、貨物船の鋼船化を図ったのです。
 また、昭和34年には進展するモータリゼーションに目をつけまして、当時だれも考えなかった自動車航送をするため、西日本でのフェリーボートのパイオニアとして、父が今治-三原間に木造フェリー『いよ』と『あき』を就航させました。その第一便は昭和34年9月24日でした。これは民間経営のフェリーとしては日本で最初と言われています。
 このフェリーを始めるに当たって、今治を起点として本州の終点はどこにするのかについて、父は自ら現地の視察を繰り返し、国鉄呉線の分岐点でもある三原市が、将来交通の要衝になると判断しまして、三原と決定したのです。また、当時としては自動車航送の荷主の確実な見込みもないため、日本通運と提携しまして、一定量の需要を確保するために(通)のマークを付けて運航を始めました。その時今治財界では、その先行きを危ぶんで、父が道楽を始めたという声さえありました。
 当時は、今日のようなフェリー用岸壁はなく、潮の干満に合わせた専用の浮桟橋もないため、自動車の乗降は大変な作業でした。2本の歩み板を渡し、その上にバスやトラックを通すという方法で乗降を繰り返しました。1度にトラックなら6台を運び、2隻が1日3往復、所要時間は2時間50分、初年度の年間輸送台数は約8千台でした。この航路は、昭和43年(1968年)に瀬戸内海汽船と共同運航を開始しまして、このときより一般客も乗船してもらうようになりました。現在では1日18往復、所要時間1時間45分で、年間輸送台数は14万5千台をみるに至っております。
 平成10年(1998年)には今治-尾道ルート(西瀬戸自動車道)開通によって、この航路も必然的に再編成を迫られることになるでしょう。また、渡海船も今まで島の人々にとって便利な交通機関でもあり、瀬戸内海の大きな特色であったと思いますが、これも橋とともに何らかの変革が行われるでしょう。いずれにしても島の人たちとは橋を通じてますます交流が盛んになることは間違いありません。」