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臨海都市圏の生活文化(平成7年度)

(1)ハイカラさんは今治から

 ア 海運の芽生えと今治の進取性

 **さん(今治市東門町5丁目 昭和7年生まれ 63歳)
 高縄半島の先端に位置する今治地方は、我が国における海上輸送の重要ルートである瀬戸内海に面していることと、多くの内海離島を有しているなどの地理的条件や、中世から近世にかけて村上水軍が広く島しょ部を支配していたという歴史的条件もあって、早くから海運への取り組みが進んでいた。こうした諸条件に恵まれて、江戸時代には今治を基点として帆船によるかなり本格的な海上輸送が行われていた。
 幕末から明治初期にかけては、一般に近距離は手漕(こ)ぎ、遠距離は帆走を主として航行し、急用の場合のみ両方を併用する押切(おしきり)船が使われた。遠距離航行に押切船を使うことは、目的地に早く到着できる利点の代わりに、多数の漕ぎ手を必要とし、経費が高くなるという欠点を持っていた。これをあえて企業的に行ったのが飯忠太郎(晩年には忠七)であった。
 飯忠太郎のひ孫さんに、曾祖父の活躍を語ってもらう。
 「曾祖父は、天保12年(1841年)に今治藩の御用商人紺屋に生まれ、明治維新後、今治の将来は回漕業(海運業)なしには考えられないと考えて、その道に飛び込み、明治4年(1871年)押切船と呼んでいた早船1隻を15円で購入し、『金吉丸』と名付け、舟子(ふなこ)(ふなかた)4人を雇って営業を始めたそうです。初航海は木綿50反20貫と客2、3人を乗せ、大阪には3日半かかって着いたとか。」今治海運協会発行の『飯忠七の功績(⑮)』に、「彼は今治地方における唯一の家内工業的生産品だった木綿布の販路を大阪方面にひらいたことが、地方産業の発展を促し、地方経済の新興に貢献したことは申すまでもない。また、移入貨物にしても、呉服類を始め、ランプ、マッチ等、当時としては文化の先端を行くもので何れも翁の手によって紹介されたものであった。」と記している。「また曾祖父は、明治5、6年(1872、73年)になって汽船という強敵が現われると、今治に汽船をぜひ入港させて町の繁栄を図ろうとしました。そのため曾祖父は、毎日のように海岸にたたずみ、汽船が今治沖を通過すると見ると、伝馬船を漕ぎだして昼は旗を、夜は提灯(ちょうちん)を振って停船を求めたそうです。また、ある時は汽船船主を訪ね、今治寄港を懇願したそうですが、しかし、その実現は容易でなかったようです。そのため曾祖父は、意を決して伝馬船を漕ぎ出し、冒険にも航行中の汽船の進路に突入して、伝馬船を木端微(こっぱみ)じんにするか、停船するかの捨て身の戦法に出たそうです。当時町の人たちは、この曾祖父の姿を見て『忠七はおかしくなった。気の毒なことだ。』とうわさしていたそうです。しかし、この曾祖父の行動で、汽船側もその熱意を感じたのか、住友汽船『白水丸』の今治寄港になったのです。」
 「港を開いたことによって、京阪神を中心に中央文化や欧米文化が、今治に音を立てていち早く入ってきました。日本で初めてのものに、月賦販売が桜井地方に、四国で初めてのものに税関のある貿易港、キリスト教会、ロータリークラブ、ガス会社などができたのも、今治地方人の進取性の現われではないでしょうか。これらは海の思想、海の文化がもたらしたものと思います。」

 イ 月賦販売発祥の地(桜井)

 (ア)全国から集まった月賦販売業者

 今治港から海岸沿いに東に8km、桜井という小さな町(現在今治市桜井)がある。穏やかな瀬戸内に面した静かな町で、空気はきれいし、のんびりと落ち着いた町のたたずまいである。この町の海岸に面して綱敷(つなしき)天満宮という神社がある。遠く千余年も昔の延喜元年(901年)の正月、菅原道真が九州大宰府に流される途中ものすごい荒天に遭遇し、難破寸前の船が桜井海岸、志々満ヶ原(ししまがはら)(現在は志島ヶ原)に漂着して助かった。このとき上陸した道真に、付き人たちが、敷物がわりに帆綱を地面に渦巻き状に敷きつめて休ませたということから、綱敷天満宮と呼ばれるようになった。この綱敷天満宮の境内には、桜井史跡保存会が建立した「月賦販売発祥記念の碑」が建っている。この碑は、昭和38年(1963年)「菅公1000年祭」を記念して建てられたものである(写真1-2-11参照)。
 昭和52年(1977年)9月20日に、この桜井の綱敷天満宮に全国から200余人の人々が集まって全国月賦百貨店組合連合会創立20周年式典が開催された。それは、この桜井の町が我が国における月賦販売業発祥の地だからである。では、いったいどうして、この小さな町桜井が月賦販売業発祥の地なのだろうか。それはこの日の会長の式辞の中に次のように述べられている。「日本独自の形態を持って発達した我が国月賦販売の濫觴(らんしょう)は、遠く1800年代の文化・文政のころ、ここ愛媛の『伊予の椀(わん)船』が端を発したことはすでに明らかにされており、さらに全国1,000になんなんとする月賦販売業者のほとんど全部が、その昔、この桜井の河口を根拠地として、瀬戸内海から外洋へ縦横に小舟を操り、全国に雄飛して月賦商法を生んだ先覚先輩、父祖の偉業を受け継いだ愛媛県人によって占められていることに徴しても、月賦発祥のこの地を郷土とする全国の業者があい集ってこの大会を開く意義の重要さ、業界全体の喜びが胸に迫るのでございます。(⑯)」この簡単な紹介の中で、驚くべき歴史的事実が語られている。
 すなわち、月賦販売業が
   ① 日本独自の形態として発展した商形態であり、その源は遠く文化・文政という江戸時代にまで遡(さかのぼ)ること。
   ② その発祥の地は伊予の桜井であり、「椀船」という特殊な行商としてはじまったこと。
   ③ 全国に散らばる1,000に近い月賦販売業者のほとんどがこの桜井に縁故のある人々であること。
などである。ではなぜ、この限られた地域から、このように多くの商人が生まれ、しかもそれが月賦販売業という特定の形態をとるようになったのであろうか。その理由として、『クレジット商法に生きる(⑯)』は、「村上水軍以来、伝統的に海上交通に習熟していて、海路舟を操って他国へ行くことに慣れていたこと。倭寇にみられるように、遠距離を往復して交易を行う勇敢、大胆な気風があったこと。土地がやせていて産物が豊かでなかったため、商業に活路を求めざるを得なかったこと。」などをあげているが、果たしてこれだけだろうか。この地域の置かれた社会的、政治的な条件についてもさらに掘り下げてみたい。

 (イ)椀船行商のおこり

 **さん(越智郡大西町新町 明治44年生まれ 84歳)
 桜井の椀船行商について詳しい**さんに語ってもらう。
 「桜井の経済を江戸時代後期から支えてきた最も重要な産業は、家内漆器製造工業と漆器行商つまり椀船です。
 椀船とは、伊予の桜井に発祥した漆器行商のことで、その名称は、帆船交通時代数名ないし数十名の売り子を連れ、帆船に漆器を積み込み、四国の沿岸はもとより、中国、九州地方に出かけ、港に船を入れ、船を根城に漆器行商を行ったことに由来しています。
 江戸時代の明和2年(1765年)国分(こくぶ)村、古国分(ふるこくぶ)村は今治領に、桜井、長沢(ながさわ)、孫兵衛作(まごべえさく)、旦(だん)、登畑(のぼりばた)、宮ヶ崎(みやがさき)の6か村は天領となりました。天領になると、桜井に笠岡代官所(当時四国の郡代は倉敷に置かれ、代官所は笠岡にあった。)の陣屋が置かれ、この地方の中心となり、天領の年貢米は浜桜井旭町の御用倉に収納されることになりました。そしてこの年貢米の大方は天領の別子銅山へ運ばれ、一部は大阪へも送られていました。
 桜井のすばしこい人たちは、代官所の許可を受けて回船業を始めました。大阪へ米を運んだ回船業者は、大阪商人と関係を持つようになりました。当時紀州藩は、紀州黒江漆器の販売に力を入れ、全国各地から大阪に集まる回船業者に黒江漆器の商いを勧めたのです。この漆器は、使い良く、丈夫で、その上に安いので、伊予の国でも恐らく喜んでもらえますよと勧められ、それで帰り船に黒江漆器を積んで帰ったのです。
 当時仕入れて帰った漆器は、高級物ではなく、一般家庭用の簡単な重箱及び燭台(しょくだい)(持ち運びのできる装飾的なろうそく立て)でしたが、これらが大変好評で、重箱は祭礼などの行事に弁当入れとして、燭台は寺関係、仏教信者に喜ばれてよく売れました。
 これに味をしめた回船業者は、大阪からの帰りは紀州黒江に回って漆器を仕入れて帰り、これを桜井商人が、今治城下町はじめ近郷近在の村々を天びん棒で担って行商し利益を上げたのです。なかなかよく売れるものだから、これはよそへ持っていっても売れるのではないかと考えて、多量に仕入れて中国地方の沿岸に出かけ、港へ船を着けて売り歩くとよく売れる、九州へ行ってもよく売れる。これはよいと言うことで、回船業者たちは、漆器行商の親方となり、帆船に漆器を積んで船行商を始めたのです。
 中国、九州の沿岸地方の港町に出かけ、船を根城に漆器を売り歩く。夜は船に帰り、夜が明けたら漆器を天びん棒に担いで再び売り歩いた。当時漆器を買うような人は、村でも庄屋とか、組頭とかで、そういう家を訪問して売り歩いていた。それらの家に行くと『この品物は紀州大納言領の塗り物でございます。どうぞ見て下さい。』と言って、商品を見せ検討を願うと、相手も丁重に扱い販売は容易に進んだようです。だれかがもうけたと言えば、負けてはいけないと彼らは力を入れそれぞれが頑張りました。これが世に言う椀船の始まりです。
 九州も西海岸まで進出した椀船は、帰りに『唐津(からつ)』(陶磁器)を買い込んで帰り、それを地元はもとより、上方(かみがた)に運び利益を上げ、往復で利潤を獲得したのです。こうして漆器行商船椀船は、桜井を中心に次第に数を増し発展していきました。
 しかし、すべてが順調に行ったのではなく、失敗した人も多いのです。船が沈没したり、家屋敷を売ってしまったり、仕入れに行って亡くなった人もいます。たまたまわたしが教育委員会の仕事をしていたとき、黒江(和歌山県海南市)に行きました。その時、桜井の人たちの墓地に案内してもらったのですが、その墓地にはしきびの花が立てられていて、わたしは感心しました。他県の人に対して、このような気持ちがあったからこそ黒江の漆器が盛んになったのだと思いました。何をやっても人間性が大切ですね。また、わたしは教師の時代に生徒たちによく、『桜井の先祖は進取の気性に富んでおった。君たちもこの気持ちを忘れてはいけない。漆器は残念ながら衰えてきたが、君たちは新しい産業に取り組まなければならない。』また、『大体桜井というところは、奈良・平安から伊予の国の中心で、国府や国分寺があったのが桜井だから、君たちは誇りを持ってやらなければならない。』と話していたものです。」

 (ウ)椀船業から製造・問屋業に

 **さん(今治市桜井 明治38年生まれ 90歳)
 **さん(今治市桜井 大正15年生まれ 69歳)
 **さん(今治市桜井 昭和7年生まれ 63歳)
 椀船行商の移り変わりについて、漆器商を営んでいる**さんに、お母さん、奥さんにも参加して語ってもらう。
 小谷屋松木漆器店では、大正12年(1923年)12月桜井まで鉄道が開通するまでは、椀船の基地桜井の河口港から、2隻の船を持って多数の売り子を雇い、中国、九州方面へ行商に行っていた。
 椀船は、内港(河口港では、干潮の時も船の荷役ができるように明治になって内港が建設され、その周辺に漆器の倉庫が立ち並んでいたとか。)で潮の満ちてくるのを待って、7合か8合満(みち)になった時、家族や漆器業者の人々の見送りを受けてにぎやかに出港していたという。国鉄(現JR)が開通してからは、漆器輸送も鉄道に替わっていったという。
 船を持つには多額の費用、すなわち船の建造費、修理費、船頭の手当などが必要なだけではなく、瀬戸内海とはいえ、嵐に遭い船を損なう場合もあるし、沈没の危険性もあって、明治後期には船持ち親方はほとんどなくなり、浜桜井の親方も明治中期ごろより漆器製造に力を入れ、かたわら紀州、輪島、その他の地方との商取引を継続して、漆器製造業、問屋に変わっていった。
 「この漆器を地元で製造すれば、地元の人に仕事を与えることになるし、遠く紀州などまで仕入れに行かなくてもよくなるのではないかと考え、黒江や輪島より漆工を招いて、漆器の製造業者に転換するとともに漆器問屋をはじめました。この桜井には、紀州をはじめ輪島、山中、会津出身の方がいまでも多いですよ。」
 また、「わたしの店は、他の店と異なって全国(紀州、輪島、山中、高岡、会津等)の物を取り扱っていました。それは祖父が椀船行商をしていた当時の売り子さんたちが、中国や九州など全国に永住されており、その方たちから注文をいただいておりますので、どうしても全国の物を仕入れておかなくてはなりませんでした。昔は、入子重(いりこじゅう)(箱などを大きなものから小さなものへと、順次重ねて組み入れた重箱)がよく売れていました。今は生活様式の変化によって大きく変わったですよ。家の倉庫には、全く売れない御膳などが何百も積んでありますよ。今は日用雑貨の中に漆が入ってきました。テーブルの上のインテリア的なものに変わってきましたよ。それに対応すべくこちらも変わっていかなければなりません。現在そういうものを手作りで生産しています。
 買物客は、松山、新居浜、川之江から来てくれます。年配者だけでなく若い人も結構多いですよ。若い人には、漆器の正しい扱い方を話しております。漆は、生きものだから水にも風にも通してやらなくてはいけないと。手で触ってやる方が良いのですよと、今一生懸命正しい扱い方を知ってもらうべく努力しております。また、時々外国の方も来られます。」

 (エ)月賦販売業のうらおもて

 **さん(今治市長沢 昭和19年生まれ 51歳)
 月賦販売のうらおもてについて、桜井漆器に詳しい**さんに語ってもらう。

   a 月賦販売の始まり

 「椀船行商をまねて始まったのが桜井漆器です。和歌山の黒江漆器を仕入れて九州・中国地方に売っていた。売る方法は、頼母子(たのもし)講方式(10人くらいが組で一定額を積み立て、抽選で当選者が順次品物を受け取っていく方式)とか、農作物の収穫時にいただくとか、いうような方法でお金をいただいていた。また、北九州の炭鉱地域に物を売りにいくと、炭鉱はサラリーマンですので、月々支払うということから月賦販売が始まったのだと思います。
 現金払いですと、なかなか売れないけれど、物を先に渡して、お金は収穫時とか給料日にもらうのですから、どちらかと言えばお客さんの方が得したという感じやないですか。このように月賦販売は自然発生的に生まれたものと思います。
 月賦で販売するという時代ですから、桜井の職人さんの給料も半年に1回盆暮れに支払っていた。日常は通帳を持っていて、それで酒屋さん、八百屋さんなどすべて買物ができますので、和歌山の職人さんが桜井に来ても、その日から生活ができる。わたしが『この方はうちの職人さんだから頼むよ。』と言っておけば、通帳で買物ができ、支払は半年先でいい。こういうことも手伝って桜井には、よそから職人さんがどんどん入ってきていました。
 また、当時は物が不足していた時代ですから、高く売れたと思います。高く売れたから手入れ方法など、何人もが並んで、から拭きしなくてはならないと説明して売ったのだと思います。実際は売る人が漆の性格を把握して売っておれば、もっと漆器が庶民に密着した器になったと思います。
 わたしが高校を卒業した当時(昭和36年〔1961年〕)は、月賦屋に結構就職していました。就職といっても試験があるわけではなく、縁故で親戚の叔父さんの所に行くとかいう感じで、行き先も、九州、京阪神、東京、北海道と多岐にわたっていました。わたしも卒業後3年間、北九州の月賦屋(丸正)に見習に行っていました。丸正さんは丹原出身の方で、もともと椀船をしておられたのですが、後に月賦屋を経営されていました。」

   b 月賦販売の衰退

 「わたしが集金に行って、『丸正ですが。丸正から集金に来たのですが。』と言えば、家の主人がすぐ出てきて『声を小さく、小さくして下さい。』とか、『丸正さんと言う名前を言わないようにして下さい。』というのです。経済が安定してくればくるほど、月賦屋の名前をこちらで言われたくない。それがカードのローンに変わっていった原因ではないでしょうか。カードは、今日はとか、丸正とかは言いませんからね。最初の1年も集金をしていましたが、その時は『丸正から集金に来たのですが。』と言っても何の抵抗もありませでした。そのごろは忙しいほどよく売れました。それが3年の間にお客さんの反応が変わってきました。3年勤めただけですけど、最後の1年は、『丸正さん、次からは丸正と言わないで下さい。近所に聞こえたら恥ずかしいですから。』とこういうことを言い始めました。これは世の中に中流意識が芽生えて、月賦屋が集金に来ることは恥ずかしいという意識に変わってきたからではないでしょうか。
 『○○ローン、○○ローン』と借りている時代ですから、借金することにはみんな抵抗はないのですが、『○○から集金に来ました。』と言われるのは嫌だから月賦屋が衰退したのだと思います。現在、わたしの所でも分割払いをオープンして7年になり、その説明もしているのですが、今まで分割払いで物を買った人はありません。現金カードで買ってから後日振込みで払っている方が多いようです。」

   c 桜井漆器の衰退について

 「桜井漆器の衰退はやはり交通機関の発達によるのじゃないかと思います。大正時代に国鉄が開通して、大体勝負がついたと思います。
 今までは、こちらの出身の椀船屋さんで、九州、中国に永住されている方たちが、盆や正月に帰って来られて注文してくれるお陰で、桜井の漆器も生計が成り立っていました。しかし、国鉄が便利になって、輪島をはじめ全国各地の有名な漆器産地が、営業攻勢をかけてくるようになってきました。椀船屋さんは、わざわざ出かけなくても自分のところへ売りに来てくれるので、便利な方で買ってしまう。桜井の方は、今まで待っていたら買いに来てくれたから、交通機関が便利になってもこちらから出ていって販売することをしなかった。このような営業姿勢が桜井漆器の衰退につながったのではないでしょうか。
 桜井漆器というのは、今では全国漆器紹介には名前がなくなりつつあります。生活様式が変わってきたとか、昔の人たちが漆器を高く売りつけたために、どんどん使うことを嫌ったのではないでしょうか。そして漆器を使うと手入れが大変だという印象を植えつけたのだと思います。ですからわたしは逆に漆器の手入れは簡単でいいですよと、実証するために喫茶店を開店して漆器を使っております。
 わたしは、漆の性格は、女性によく似ていると思います。なぜかと言えば、最初はかよわいですが、でも時間とともに強くなる。漆は、時間が立てば立つほど強くなる。こういうとお客さんは笑われますが、実際にその通りなんです。漆というのは、空気に触れてはじめて乾いてくるのです。しまっているから空気に触れない。だから弱いのを作ってしまうのです。生活様式が変わりましたが、まだPRの仕方一つで何とか食い込んでいけるのではないでしょうか。その望みを捨てたら終わりですから、その努力をしながら頑張っていきたいと思います。」

写真1-2-11 月賦販売発祥記念の碑

写真1-2-11 月賦販売発祥記念の碑

平成7年12月撮影