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臨海都市圏の生活文化(平成7年度)

(2)懐かしい仁堀連絡船

 ア 港町堀江は

 **さん(松山市堀江町 昭和3年生まれ 67歳)
 港町堀江について、父親からの口伝を中心に、その今昔を**さんに語ってもらう。
 「昔の堀江は港町として栄えていた。堀江港は自然の良港として発達し、江戸時代には米の積み出し港で米倉もあり、松山の北の玄関口として重要な役割を果たしていたこととか、我々の先人が、江戸時代の終わりに、沖に一文字の防波堤を、堀江だけの力で、堀江のために作ってくれたことなどよく父から聞かされた。また、父は、この先人が残してくれた財産を守らなければならないと思っていたが、残念なことに一漁村に寂(さび)れてしまったと嘆いていました。この寂れてきた理由として父は、堀江港には船手奉行がおったが、藩主が久松さんになると船手奉行をおかなくなり、堀江港はただ単なる補助港のようになって、人は三津、堀江は物というようになってしまったことと、もう一つ大きな理由は、堀江には遅くまで鉄道とか陸の交通機関がなかったことだと話していました。」

 (ア)県下第一号のバス走る

 「国鉄開通前は、堀江-松山間を乗り合い馬車が運賃8銭で走っていたが、この馬車に対して、堀江の権現町の石丸繹(おさむ)さんという方が、東京から中古の乗り合いバスを買ってきて、県下で初めて堀江-松山間を走らせた。しばらくの間、馬車とバスの競争が続きましたが、当時のバスの車は、空気タイヤでなくて堅いタイヤでガタガタするということで、人気なく数年で姿を消しました。」このことについて、『我が町のシンボル調査報告書(⑫)』に、次のように記されている。「愛媛県下におけるバスの第1号は、明治44年(1911年)1月12日に堀江-山越間を走った。このバスを走らせたのは、温泉郡堀江村大字権現(現松山市権現町)の素封家(そほうか)石丸繹さんである。石丸さんは個人で明治43年2月東京白金三光町の羽賀五郎さんから中古車1台を買い入れ、12人乗りであったが、後に10人乗りを1台増やした。運転手は、車ごと東京から石塚さん、国宗さんという方がやってきた。タイヤは前輪が空気入りで、後輪はゴムの塊だけのものであった。車が故障するとその都度東京から修理士を呼んだので大変な出費であった。コースは元の郵便局(堀江で唯一の3階建の家屋)のところに車庫があってここを起点として、終点は山越の松屋旅館で、1日6往復で運賃は9銭であった。最初は物珍しさから人気があったようだが、故障も多く、いろいろな経費がかさみ経営困難となり数年で姿を消すに至った。
 石丸さんは事業家で九州に鉱山を持っていた。その名残りが鑛山橋(かなやまばし)として、今も福角町に残っている。このほかにも自宅前に水力発電所を作って、製材所を経営したり、水力発電により蓄電池を作って付近の農家に電灯をつけてその恩恵に浴せしめた。」

 (イ)鉄道開発計画について

 「明治14、15年(1881、82年)ころだと聞いておりますが、祖父が元気なころに、松山-今治間に高速鉄道を作って、なんとか陸路の交通を活発にしようということで、もくろんでいろいろやったのですが、その当時国は、国鉄(現JR)がこの沿岸を松山、宇和島まで走らせる計画をしており、祖父のもくろみを許可すると国鉄の計画に邪魔になるのでということで認可にならなかった。そのため計画は頓座(とんざ)したのですが、国鉄ができたのは昭和2年(1927年)ですから、明治、大正と約50年間陸路に交通機関がない。馬車とバスが走っていましたが、鉄道の輸送力とは格段の差があります。
 一方三津の方は、明治21年(1888年)ころから伊予鉄道が開通していて、そのため三津とは大きな差がついてしまった。昔栄えた堀江も、残念ですが一漁村に様変わりしたわけです。堀江には、船を降りても鉄道はない。国鉄ができるまでは、馬車とバスで松山へ行っていましたが、堀江の人たちはほとんど歩いていたと聞いています。昭和2年に国鉄ができて、人の流れというものは国鉄に依存して、その恩恵は大きかったと思いますが、それでも本数は少なく不便だったようです。
 父は、国鉄が迂回(うかい)路線を取ったんだったら、なぜ早く堀江から松山に直線の私鉄ができなかったかと、残念がっていました。」

 (ウ)魚市場

 「一方では、漁港として、堀江の漁業の振興を図らなければならないということで、いろいろ努力されたようです。
 安政5年(1858年)堀江のお百姓さんの吉松さんと熊助さんが、必要なときに必要な魚が供給できるようにしたいということから、港の中にイケスを作らせてくれと庄屋さんを通じて奉行に申し出て、明治2年(1869年)ころ実現しました。しかし、魚市場は、三津浜の魚問屋の反対で実現できなかったというような話も聞いています。でも、明治33年(1900年)に、漁業法ができて漁業組合が設立され、山口県大島郡の出身の方で、三津から堀江に転居された魚問屋原義宗さんが、漁業組合との話合いで共同販売所をつくり、大正10年(1921年)原さんも組合の一員になってもらって、今のフェリー乗り場のところに魚市場が生まれたのです。堀江の港ではセリが行われ魚の供給ができるようになり一時大変栄えました。しかし、太平洋戦争で物価統制令により、勝手に売買はできないということで自然消滅し、魚市場も閉鎖状態になりました。
 終戦後農業が米作一本から果樹栽培に変わってきて、堀江も昭和30年(1955年)ころからミカン畑が増えてきました。山は順次耕やされ、山肌が表れてしまいました。そのためいままで藻が生えて小魚がよってきていたところも、海藻類の生態系が変化し、漁師の漁獲高に大きく影響するようになりました。また、船の出入りが多くなってきたため、海藻自身も生えなくなり、そのため漁師は、年々沖に出ないと漁ができなくなり、漁獲も減少し現在は専業漁家は13人に減ってしまいました。」

 (エ)いま堀江は

 「今は、国鉄連絡船がなくなり、堀江駅も無人化になりました。昔堀江駅には、サクラの木が5、60本、ホームの両側に植えてあり、わたしら中学校へ通学していた時代かなり大きくなっておりまして、サクラ並木を楽しませてくれました。それも戦時中にイモを植えるために伐採されました。また、海岸には立派な海水浴場や砂浜があり、そして100本ばかりの松並木があり、わたしの心の中には夢のような住みよい町でした。しかし、その松も昭和21年(1946年)の南海大地震による地盤沈下や松くい虫の被害で大部分枯れてしまい、わたしたちにとって悲しく寂しい限りです。
 しかし、県や市の方々の努力で、堀江港や和気港の浚渫(しゅんせつ)した砂を海岸の沖に入れていただき、立派な砂浜が復活されました。今後海上スポーツのメッカとしてみなさんが堀江を訪ねてくれることを願っています。昔の姿が一つ一つ消えていく寂しさの中にも、これはわたしたちにささやかな喜びを感じさせてくれています。
 わたしたちにとって堀江は、生まれ育ってきた町、育ててくれた町ですが、堀江には権現温泉があって、いで湯の里と言われる地です。夕方堀江海岸に沈んでいく太陽に、自然の美しさを感じとることができます。また、台風など被害の少ない地域ですし、物が豊かにできるし、人情味あふれる穏やかな方が多いですから、わたしはちゅうちょすることなく、わたしのふるさとは堀江ですと言い切れるだけのものがあります。その点では堀江の町に感謝しています。」

 イ 仁堀航路の開設と盛衰

 (ア)開設の経緯

 仁堀航路の開設のいきさつについて、前述の**さんに語ってもらう。
 「昭和2年(1927年)に国鉄が開通しても、四国と本州を結ぶ航路がぜひほしいということで、わたしの父も村会議員をしておった関係上運動に参画していたのですが、なかなかうまくいかなかったようでした。その時、たまたま昭和10年(1935年)に広島鉄道管理局が呉線を開通させ、その繁栄のために中・四国連絡をもくろんでいたようでした。それで菊間・北条・堀江はし烈な運動をしましたが、昭和16年(1941年)に国鉄は現地調査をした結果、堀江が適当であるということで呉と堀江を結ぶことを内定しました。しかし、太平洋戦争が起こったため、実施するまでには至らなかったのです。昭和19年になって、海軍は呉の工場が軍港に近いため分散したいが、中国の近辺には適地がない。それで堀江に工場を作って、連絡船をつけて呉へ供給しようと決定しました。そこで堀江駅から桟橋まで鉄道を引き込んで、船で軍需品を呉に運ぶということで、堀江駅には、線路も敷いてプラットホームもできていたのですが、この時終戦になりましてこの話も途絶えたのです。しかし、四国鉄道管理局では、宇高連絡船だけでは四国と本土の連絡はおぼつかないので、宇高の補助航路として、西に作ろうということになった。そうすると戦時中に、海軍がせっかく準備してくれている呉の仁方と堀江とを結ぶ連絡航路があるじゃないかということで、国鉄仁堀航路を開設したのです。」

 (イ)就航から航路廃止まで

 **さん(松山市堀江町 大正13年生まれ 71歳)
 昭和22年(1947年)から54年(1979年)まで国鉄に在職し、仁堀連絡船にも乗船していた**さんに、その盛衰について語ってもらう。
 「最初は関門(下関-門司、昭和39年10月31日閉航)の中古船「長水(ちょうすい)丸」(393トン)が1日2往復していました。当初、運賃は3等で大人片道6円とかなり高かったですが、終戦後ですから引き揚げ者とか、物資・食糧も不足していたころでしたので、統制物資を運ぶヤミ商人も多く、その上に開設当時は他の航路に欠航・休航が多かったため、乗客が殺到して繁栄しました。その後、「水島丸」(333トン)、「五十鈴(いすず)丸」(153トン)、「安芸(あき)丸」(250トン)、「瀬戸丸」(399トン)の4隻が就航し活躍しましたが、昭和25年(1950年)以降引き揚げ者も少なくなり、生活物資の充実や社会の安定とともに、戦後の混乱状態も平静さを取り戻したので、この航路の輸送も下降してきました。そのため1日1往復にしたり、小型の船「五十鈴丸」にして1日2往復にしたりしまして、一時的に利用客は増加しましたが、再び減少傾向をたどりました。そのため存続か廃止かと岐路にたっていた仁堀航路も、昭和31年(1956年)4月より広島鉄道管理局に移管されまして、仁方を中心としての運営に変更して、観光コースとして大幅に時間の改正を行いました。
 車の時代になっても、国鉄本社では、国鉄連絡船の主流は、レールとレールを結ぶのが使命だから、自動車航送はだめと言っていました。
 昭和40年代のモータリゼーションの到来で、仁堀航路でも昭和40年(1965年)7月1日からフェリーとなり自動車航送を開始しました。しかし、すでに昭和39年から民間の呉~松山フェリーが1日16往復運航しており、それとの競合や水中翼船、高速艇の出現で利用客も大幅に減少してきました。それとともに財政的にも赤字となり、国鉄は、地元商店街の廃止反対運動にもかかわらず、仁堀航路の廃止を決定し、昭和57年(1982年)6月30日をもって、その歴史に終止符を打ったのです。」

 ウ 仁堀連絡船に乗って

 前述の**さんは、接客ボーイとして連絡船に乗船し、その後甲板員に、昭和42年(1967年)には、国鉄労働組合呉支部の委員長になって、組合専従として昭和47年まで組合活動で活躍した。その年の12月からは堀江桟橋の事務職員として職場に復帰し、その後桟橋助役として3年間勤務した後、昭和54年(1979年)3月31日に国鉄を退職した。国鉄職員として34年間、その内20年間は仁堀連絡船に乗船して活躍しており、その思い出を語ってもらう。
 「開設当時は、宇高航路に劣らないほど利用が多く、特にヤミ商人を中心に乗客が殺到して、そのためヤミ船連絡船とも言われていました。
 堀江からは、米を中心に日用食料品(野菜、タマゴ、大豆、アズキ、コンニャク等)また、ヤミ焼酎等。仁方からは、ハガネの産地ですからノコ、ヤスリ等、また、こちらから米を持っていって、帰りに酒造会社で酒粕を買って帰り、こちらで酒粕と籾(もみ)殻を混ぜ合わせて肥料として使用していた。
 ヤミ商人と言われた人たちは、2、30歳台の人が多かったように思います。今でも忘れられないのは、女の人で、前と後に米を2斗(米1斗は15kg)ずつたれさげて、その上に両手に1斗ずつ持ってよいしょよいしょと乗船していた風景はよく覚えています。女の人が米を6斗運んでいるのですよ。この人は、夕方帰って来たら買い出しに行って、翌朝また広島へ6斗運んでいるのです。もちろんヤミ物資ですので取り締まりも厳しく、週に1回くらいはありました。そのときヤミ商人は逃げ回っていました。中には船長室に逃げ込む人もあり、それが縁で船長さんと結婚した人もありました。一度押さえられると、今までのもうけの何日分かは飛ぶわけですが、それでも結構高く売れていたのでもうけになっていたようです。また、定員一杯の上に持ち込まれる物資の重さで、船は傾いていましたよ。
 楽しかったことと言えば、ボーイをしていた若いころが結構楽しかったです。当時接客ボーイをしていたので仁方に着くまでの2時間40分間、お客さんから面白い話を聞かせてもらったりして、お客さんと仲良しになり、多くの知人もできて一番楽しかったころと思います。つらかったこと、緊張したときと言えば、濃霧や海が荒れたときでした。出港のときは視界が良くても、途中急に濃霧のために前方が視界ゼロになって、このときは船長の指示で両側に見張り役が出るのですが、このときはお客さんの安全を考えなくてはいけませんので相当緊張しました。2時間40分の時間は長く感じ、レーダーもなかったころですからそれは大変でした。また、大時化(しけ)で海が荒れ、船が大きく上下に揺れるときなど、お客さんに大丈夫ですよと言うものの、内心は心配で、これで自分の人生も終わりかと思ったことが、4、5回はありました。
 昭和25年(1950年)以降、仁堀航路も利用客が年々減少してきて、廃止問題がわたしの在職中に4、5回はありました。地元の人たちと一緒になって、運輸省や国鉄本社に陳情に行ったことは印象として残っています。お陰でわたしが退職するまでには廃止にならなかったことを大変ありがたく思っています。
 わたしが退職してからも、最優秀船「瀬戸丸」が就航している姿をみて、大変うれしく思っていたのですが、昭和57年(1982年)6月30日に仁堀航路が廃止され、OBとして大変残念でした。」