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臨海都市圏の生活文化(平成7年度)

(1)三津浜の風物詩

 ア 港と朝市

 (ア)「坊っちゃん」上陸の三津浜港

 「ぶぅといって汽船がとまると、艀(はしけ)が岸を離れて漕(こ)ぎ寄せてきた。船頭は、真裸に赤ふんどしをしめている。野蛮なところだ。もっともこの熱さでは着物はきれまい。(夏目漱石『坊っちゃん』岩波文庫より)」
 坊っちゃんが数学教師になるため船で着いた場面である。地名は書いていないが、三津浜なのは明らかである。海岸は遠浅のため本船はいつも沖に泊まり、ハシケで客を運んでいた。当時の乗り場は埋め立てられ、現在は海岸からやや遠くなっている。高浜港が明治39年(1906年)に整備されるまで、松山の海の玄関口であった三津浜港について、その移り変わりをたどってみる。

   a 三津浜港の今昔

   (a)古代期

 松山市には、堀江・和気(わけ)・高浜・三津浜・吉田浜・今出(いまず)の諸港がある。そのうち藩政時代から松山城下町の外港として、明治維新の改革まで海の玄関口の役割を果たしてきたのが三津浜港である。三津浜は宮前川の河口に立地し、砂嘴(さし)が潮流によって南から北に延びてできた土地で、三穂町・洲崎(すさき)町(現在の三津1丁目から2丁目)が砂嘴の先端にあたる。
 『日本書紀巻26』に「斉明(さいめい)天皇7年(661年)正月6日難波を船出し給ひ、同月14日伊予熟田津(にぎたつ)に船泊り、石湯に行官し給ふ。」とあり、また、『万葉集第一巻』には、額田王(ぬかたのおおきみ)の「熟田津に船乗りせんと月待てば、潮もかないぬ今はこぎいでな」がみられる(①)。1,300年前に伊予に熟田津(「荒れることの少ない波静かな港湾」の意とされている。)のあったことが示されている。この熟田津の位置についてはいくつかの説があり、現時点では三津浜と断定することはできない。

   (b)明治期以前

 三津浜の町の発展は港と魚市から始まった。慶長8年(1603年)10月加藤嘉明(よしあき)は、松山に新城下町を建設すると同時に、三津浜の港湾を改修し、松前(まさき)から水軍根拠地をこの地に移して、船奉行を置き、松前城下の町人を招いて港町をつくり商取引の発展を計った。
 三津浜は港町で、港湾の施設整備が町の生命線である港の盛衰を左右した。
 元禄8年(1695年)に港の西北端にある洲崎の鼻へ長さ70間(けん)(約126m)、水上の高さ5尺(約1.5m)、根置き3聞(約5.4m)の積石波止(つみいしはと)が築造された。その後、藩は天保7年(1836年)に三津浜の海岸を埋立て(現在の三津1丁目から2丁目)、その埋立て地の払下げを行った。この払下げの地代で外港計画を立て、海に向かって南北70間、東西85間の鍵型防波堤を作り、これで元禄時代の防波堤と合わせて桝(ます)型となった。この工事は、藩の御船場(おふなば)を中心とする従来の内港重視から外港重視への変化を象徴したものであり、その後の商港としての発展を決定づける画期的な事業であった。

   (c)明治期とその後

 明治元年(1868年)の藩政改革に伴い、明治3年12月に三津小船頭以下の御船手(おふなて)が一斉解雇、翌年には番所が払い下げられて藩の水軍が解消され、これによって軍港的な色彩が完全に払拭(ふっしょく)され、商業港として運営されるようになった。
 明治になって従来の帆船時代にかわって大型汽船が登場すると、帆船けい留のみを考えた天保年間築造の桝型では隘路(あいろ)で使用に耐えず、汽船の出入りできる新港建設が必要になった。
 こうして三津浜町民の願いとは裏腹に、汽船時代を迎えた三津浜港が、近代港湾としての適格性を問われるようになった。明治17年(1884年)8月の大台風で破損した三津浜港桝型の復旧工事費5万円の上程に関して、愛媛県議会は、「同港は遠浅であり、その上西風強く大きな防波堤に囲まれた碇泊(ていはく)水面もなく、船客の乗降、貨物の積みおろしなど困難を極めている。それゆえその復旧は差し控え、汽船の往来碇泊に便利な好条件をもつ高浜に新しく築港し、三津浜に代わって県都の玄関口とすべきである。」との理由で否決した。これ以後高浜港の築港計画が具体化され、明治39年9月11日開港式をあげた(図表1-2-1参照)。
 高浜の開港により大阪商船の汽船はことごとく高浜にけい留することになり、300余年の間海上交通の中枢を占めた三津浜港には主たる汽船の影を留めることはなくなった。明治中期まで三津浜町民は、三津浜港が松山の表玄関で、高浜は避難補助港であると考えていただけにそのショックは大きかった。このような事態に対応するために、三津浜町はいろいろと対策を講じたが(図表1-2-2参照)、昭和26年(1951年)2月1日大松山港は重要港湾に指定され、工業港は帝人・大阪ソーダ・丸善石油(現在コスモ石油)の立地する大可賀(おおかが)に、木材専用港は今出に築港した。客船・フェリーの内航航路の主体は高浜の松山観光港に、三津浜港は漁船・小型貨物船や中近距離フェリーの出入港にそれぞれ港湾機能の分化がすすんだ。
 三津浜は大型客船こそ高浜に移ったが、柳井・広島・中島航路のフェリーは健在であり、いずれにもまして新興地にはない、人とのつながりの深さと人情味が漂う古き良き時代を思わせる町並が魅力的である。

   b 子供のころの思い出

  **さん(松山市三津 大正9年生まれ 75歳)
  **さん(松山市三津 大正9年生まれ 75歳)
  **さん(松山市三津 大正9年生まれ 75歳)
 三津浜港の移り変わりについて、港が一番栄えたのは大正末期から昭和5、6年(1930、31年)ころまでで、この時期が最盛期だったとか、港を活性化するために、関西汽船は最初三津浜港へ着ける話があったが、海上保安部で検討した結果、漁船が多く航路を邪魔するのでだめになり、高浜へ着けるようになったなどの思い出を語ってもらうも、ここでは、子供のころの思い出にスポットをあててまとめた。

   (a)朝市と渡し船

 「石段(旧魚市場西)の辺りに漁船がつながれて、それぞれの船より魚を運び出しセリ市場へ運ぶ姿や、天びん棒を担いだ魚商人がエッサエッサと渡し船場や三津浜駅へ運んでいた姿をよくみかけたもんです。その後ギイギイと、いとものんきに漕いで渡る三津の渡し船や魚専用の坊っちゃん列車で目的地へ運んでいました。」
 「昔の円形吹き抜け天井の魚市場の北側に、浜店(はまみせ)(軽く飲食する店)という名称の飲食店が多数営業していました。市場の手前(南側)には、近隣の農家の人たちが路上に野菜類を並べ、揚げ物や太鼓饅(たいこまん)などもあり、終戦後のヤミ市を思わす盛況でなかなかにぎやかでした。
 薄暗い裸電球の灯の下で、老婆が焼く太鼓饅は子供心に忘れられない味で、今でもこの味を思い出します。」
 「市場でセリ落とした魚を早速みんなで分け合っているおたたさんたち(*1)、雑踏の中をものの見事に頭の上におひつを載せたオタタさんたちが、小走りに三津の渡し場に向かって急いで行く姿を覚えています。」
 「昔の渡し船は手漕ぎでして、子供たちの櫓(ろ)の練習の場でもありました。船頭さんに教えてもらうために、船に乗るとわれ先に櫓を漕いで練習したものです。わたしらの年代のものならみんな船を漕ぎますよ。」

   (b)渡海船

 「中島などの島々より朝早く出た渡海船が毎日続々と入港して接岸していました。島々の産物を荷揚げ場に降ろすと、渡海船の人は、島の人々の注文の品物を買い出しに出かける。内港は、渡海船に荷を取りに来る人、注文の品物をそれぞれの渡海船に積む人と大変な混雑で活気があったですよ。今はフェリーなどの交通機関の発達でその姿も少なくなったが、でも午前中は今もにぎやかですよ。」
 軽トラックやワゴン車などがひっきりなしに来ては、荷物を船内に運ぶ。電気製品、プロパンガスボンベ、建築資材など、あらゆる品が1枚の歩み板の上を通過し、その度に歩み板は上下にしなる。おそらく昔から変わることのない港の風景であろう。

   (c)三津浜海岸のお台場

 三津浜海岸のお台場(現在の三津3丁目)には梅津寺(ばいしんじ)に負けないような砂浜があって、遊び場として走り回っていたという。「大人もそうだったが、元気で負けん気の強い『いけず坊』が多く、元気ではねまわっていた。それを担任の先生は『三津の子はブリキのバケツにカニを入れてカキ回したみたいだ。』と言っていたが、わたしらの時分はそれに輪をかけたようなものです。」と元気のいい三津っ子の話をしてくれた。「それに比べて今の子は上品でおとなしい。」と。

   (d)松山商業全国優勝

 「昭和10年(1935年)松山商業が夏の第21回全国中等学校野球大会決勝で兵庫代表の育英を破り、出場17年目で念願の初優勝した時は、大阪商船『すみれ丸』で高浜へ、そこから大型船は入港できないため『相生丸』に乗り替えて三津浜港に着いた(三津浜出身の田村選手がいたため)。深紅の優勝旗をかざして選手たちが下船して来ると、花火が次々と上がり、町民から『万歳、万歳』の大合唱で大変なにぎわいであったことが忘れられません。」

 (イ)朝市、今昔

 「伊予の松山名物名所、三津の朝市、道後の湯」と伊予節の名所づくしに歌われている朝市は、古い生きた歴史を持っていて、単に伊予一の魚市場というだけでなく、恐らく関西においても右に出るものはあるまいと言われていたそうである。 
 朝市の起源について『三津乃朝市物語(③)』によると、「応仁元年(1467年)河野通春港山(みなとやま)城主となり、毎朝城兵の米穀魚菜の類を近郊の農漁夫より購人せるより、多人数集合し物々交換、売買取引等盛んに行われるようになった。」と記されている。
 朝市の形式を取るようになったのは、江戸初期のことで『松山市史料集第12巻近現代編4(④)』によると、「元和2年(1616年)辰年当町居住ノ下松屋善左衛門始メ魚類売買ノ紹介ヲ開キタル。」と記されている。
 その後寛文3年(1663年)、続いて元禄15年(1702年)に、魚市問屋仲間が形成され、松山藩の保護を受けるようになった(図表1-2-3参照)。
 こうした問屋の発生は、従来の自由な商取引に伴う治安維持の困難さ(魚市場に問屋がなく、商人は、われがちに漁船に飛び乗り、漁師より魚介類を買い求める状態であった。そのため先を争い、果ては天びん棒や包丁で傷つけ合うという騒々しい魚市場であった。)を、藩権力の介入で除去する警察のような取り締まりが目的で、藩が特定の商人を問屋に命じ、商取引の秩序の確立と円滑化をすすめることになった。また、一方藩は魚市場の繁栄のため、市場の乱立を規制し、三津魚市場から半径5里(約20km)圏内の開市を許さず、過当競争を避け手厚い保護政策をとった。
 魚市場の繁栄期は嘉永(かえい)期(1848年~1854年)から維新改革の時期で、売り子48人が売りさばき、売買代金は一日平均銀札60貫目(当時50円、現在では200万円くらい)の活況を呈していたと言われる。
 維新後、魚市問屋株仲間が解体され、県税の魚市税が高率(『松山市史第3巻近代(⑤)』によれば、「明治10年〔1877年〕始メテ県税トシテ魚市税1ヵ年金10円卜定メラレ、明治12年ニハ地方税魚市負担率ヲ売上高100分ノ2トセラレル。」)であったために魚市場は不振に陥った。
 明治13年問屋15名が連署して、資本金2,000円で三津魚市商会社設立の申請をし、同年会社組織に転換した。その後同市場には、愛魚社(あいぎょしゃ)というライバルの別組織が明治16年(1883年)に設立されるも、明治21年(1888年)には合併し資本金16,000円へと増資された。

   a 朝市のシンボル丸屋根魚市場

 **さん(松山市神田町 大正6年生まれ 78歳)
 三津の朝市のシンボルである円形ドームの魚市場は、明治5年(1872年)に当時としては珍しい丸屋根がつくられ、明治23年(1890年)には屋根を瓦でふき、地面は敷石を張った。しかし、支柱が一本損傷したことから崩壊の危険にさらされ、昭和29年(1954年)6月ついに解体される。昭和30年9月にコンクリート造り、カギ字型の新魚市場が完成するが、旧市場のほうが丸屋根のお陰で、真ん中に居ればその時の相場がよく分かり非常に便利だったという。
 魚市場の繁栄による収益が、町の上水道建設着手の契機となった。当時の様子を『松山道後案内伊予鉄道の栞(しおり)』に「毎朝ここに集まって来る漁師、肴(さかな)売りは何百人と言う数で、近海の肴は皆一応ここに集まって、それから松山、道後その他付近の各地方に送られるのである。船に積んで県外に移出するものも少なくない。町内唯一の盛観で魚市場としては関西第一の称がある。(⑤)」と記されている。
 旧三津浜町は魚市場の公益性から市場買収を試み、昭和3年(1928年)8月久松定夫町長が買収に成功して町営に移管した。その後、昭和15年(1940年)三津浜町が松山市に合併されたために市営魚市場になった。
 このように360有余年の伝統をもつ「三津の朝市」も、取扱量の増加にともなって、市場の老朽(ろうきゅう)化と狭さのため荷さばきに不便となり、早急に近代的な市場の整備に迫られてきた。昭和40年(1965年)に、松山市久万ノ台(くまのだい)に青果部と同じところへ総合市場として建設する計画があったものの、久万ノ台が三津浜港から内陸にあることや、「三津の朝市」の伝統を守りたいなどの理由によって、地元から反対が起こり、ついに昭和55年(1980年)に旧市場から750m離れた松山外港第2埠(ふ)頭の埋立て地に新装の大市場が完成した。そして新しい水産市場は、松山市中央卸売市場水産市場となり鮮魚流通の拠点として昭和56年9月16日に開場した。
 **さんは「魚市場特有の全国にも珍しい土佐紙の浜札、符丁(ふちょう)(商品の価段を示す隠語)など370年有余の歴史の灯は消え、商売人のみの魚市場となって、町民の出入りも自由にできなくなりました。丸屋根と庶民的な香りにあふれた『三津の朝市』の雑踏が忘れられません。」と語る。
 **さんの話に出てくる「浜札」とは、全国的にも珍しく、当時の売上げ伝票、今では金権に当たるもので戦争中の統制による公定価格ができるまでは、すべてセリが行われ「浜札」が使用されていた。その後の符丁は丸屋根が倒壊する昭和29年(1954年)まで算用数字で書かれていた。

   b セリから相対(あいたい)中心に

 **さん(温泉郡重信町横河原 大正6年生まれ 78歳)
 三津の朝市は朝が早い。午前4時にはもう市場前の広場は、商人の自家用車で一杯。さすがに、今は昔懐かしい天びん棒や自転車姿は見えないが、午前5時になれば、勢いよく鳴るベルの合図であちこちでセリが始まる。
 三津の朝市に詳しい**さんに、朝市の中心をなす魚市場の今昔について語ってもらう。

   (a)セリの今昔

 「昔は、競り子(せりこ)(競売する人)は、スゲ笠(スゲの葉で編んだ笠)をかぶって、それから手水(てみず)(魚を持ち上げる人)という人が一人いて、魚を高々とささげて買う人に見せよりました。その時魚が動いているように見せ掛けるため、手でクルクル震わして、生きのええところを見せるのですよ。幼稚なといえばそれまでですが、なかなかおもしろかったです。
 『これなんぼッ(いくら)、なんぼやアッー。』セリの声に買い方の手が挙がって、値を指す指がパッパ、パッパと目まぐるしく動く。昔はセリの呼び声はすべて専門的な符丁を使っていた。1をズン、2をリャン、3をキリ、4をソセというように、この発音を組み合わせれば値段が通じる。
 今は現代的な呼び方に変わっているが、卸売場一杯に並べられた発泡(スチロール箱)に入った魚を、買い手である仲卸業者、売買参加者が指の形で数字を表して値段をつけ、一番高い値段をつけた人に決まる。セリは電光石火で突き出す指の駆け引きの、その一瞬の差が勝負だけに、怒号のような声も混じって修羅場のようだ。」

   (b)魚が家庭に届くまでの流れ

 「現在は株式会社マツスイ、松山市魚市場株式会社(松魚)の2社の卸売業社と、仲卸業者(16社)・売買参加者(221人)との間のセリによって売買が行われ、その後売買参加者や買出入(*2)の手で、一般の家庭に届ける仕組みになっています。現在は一般の人は自由に魚市場に入ることはできません。
 昔は、卸売業者と売買参加者との間でセリが行われまして、その後売買参加者から一般の町民にも売買されていたのです。それから仲卸業者、買出入はいませんでした。また、昔は囲いがなかったので自由に入って買うことができたのです。
 セリそのものは大きく変わっていません。記録を大切に保存するために、今までの符丁はやめて、三枚の複写用紙に暗号ではなく後でだれにでも分かるように正式な数字で書くようになりました。また、スゲ笠も止めて、マツスイは帽子と茶の服装を、松魚は帽子とブルーの服装、仲卸業者は500番台の、売買参加者は300番台までの、買出人は600番台のそれぞれ番号の入った帽子をかぶってないと市場に入れませんし、帽子をかぶってない者には売らないことになっています。
 セリも今はほとんどなくなりまして、相対(売り手と買い手が向かい合って話し合う)売りになりました。農林水産省の方針で、セリをしなくてはいけないものと、しなくてよいものとの指導がありまして、これに便乗しまして卸売業社はほとんどセリをしなくなりました。セリをしますと価格がダウンして損をする場合がありますのでセリをやめて、相対売りをするようになったのです。これは卸売業社とわたしたちが話し合いをして、価格を決めていくもので、そのため、人によって価格が違ってきます。今は東京でも相対が多くなってきました。松山市では7割までが相対で、3割がセリ、時にはそれ以下のときもあります。市場で価格が形成されるのが本来の趣旨なんですが、これが消えつつあるのは残念です。」

 イ 渡しと内港

 (ア)今も残る「三津の渡し」

 三津浜の風物詩といえば、「三津の朝市」と「三津の渡し」と言われていたが、朝市が水産市場として発展的に姿を変えた今では、渡しに当時のおもかげをしのぶのみである。三津と湾を挟んで対岸にある港山まで80mほどを結ぶ市営の渡し船。「トン、トン、トン……」軽快なエンジン音を響かせて渡し船が通る。三津浜の人々は、この渡しを「洲崎(須先)の渡し」「三津の渡し」と言い、港山の人々は、「古深里(こぶかり)の渡し」「港山の渡し」と言っている。
 松山藩の統制下にあった江戸時代、この地域の様子はどのようなものだったのだろうか。
 前述の**さんによれば、長い歴史の中で三津の渡しは今日も運行されている。歴史の中の渡しは、藩政末期まで、藩の管理・統制と町家の人々との対立の歴史でもあったという。
 「江戸時代は、現在の三津浜一帯が御用船手(ごようふなて)衆の根拠地でした。当時の物資の輸送は船。この唯一の輸送手段を守るために、三津浜近辺には20以上の番所が置かれていました。船を修理したり、保管したりする御船場(おふなば)もあり、一般の人が船を出す場合には通行手形がないと通してくれないほど、この一帯は厳しく統制されていたのです。
 ここに集められた物資を迅速に運ぶことはとても重要なことでした。東や北の高浜方面への輸送に『三津の渡し』を使えばすぐなのですが、厳しい統制のために宮前川を渡ってぐるりと遠回りしなければなりませんでした。
 江戸時代の中期、渡し付近に集中していた町家が次第に大きな経済力を持ち、この土地での影響力も増大してきました。一目おかれるほどの経済力と影響力に、結局、藩も一般の人たちの『三津の渡し』の運行を認めざるを得なくなったのです。藩政を動かすほどの町家のパワーが三津の活気のもとだと言えるかもしれません。
 厳島(いつくしま)神社(神田町)の玉垣の問屋の銘記(多数が問屋名で、御船手は親柱が2本あるのみ。)がそれを物語っています。わたしは友人をよくこの厳島神社に案内して玉垣を見せるのですが、友人みんな異口同音に『これは全国にも珍しい。』と驚いています。」と語る。
 渡しの歴史は古い。応仁(おうにん)の乱が起きた室町時代の1467年までさかのぼる。三津浜に松山藩御船手が置かれて(1603年)以来、魚市場へ往来する商人などでにぎわい、また、俳人小林一茶をはじめ多数の文人も古深里洗心庵(*3)の句会(1795年)のとき渡っている。
 昔は、手漕ぎの木造船だったが、昭和45年(1970年)から木造船にエンジンが付き、昭和49年には鋼船にエンジン付きの渡し船となり、2隻が年中無休で運航している。平成元年12月から若干の更新がみられる。一つは舵(かじ)取りが手動から油圧式のリモコンになったこと、二つ目は、船の前部甲板から中央甲板接続部が階段からスロープを併用した形になったこと、三つ目は、操舵室ができて、冬の寒風や横からの雨に悩まされなくてすむようになったことである(写真1-2-2参照)。
 現在は松山市営で、三津から港山の間の海は、アスファルトなき道路扱いということで、松山市道高浜2号線というれっきとした名前がついている。松山市の管理道路だから1日たりとも休むことができない。船着き場に一人でも人影が現れると随時送り迎えをしている。運航は午前6時30分から午後8時まで(冬時間は午後7時まで)、所要時間は2、3分で定員は13名。船頭さん(市職員)3名が交代で勤務している。年中無休、無料、無事故と三拍子そろった「三無(さんな)しの渡し」と言われ、こうした公営の渡しは全国でも珍しい。
 1日に2回程度利用しているという近くのお年寄り(71歳)が「無料でしかもお客が一人でも動かしてくれるのでありがたい。ずっと残してほしい。」と語っていた。
 広島県や山口県との間を結ぶフェリーや高速艇が発着する中で、昔ながらののどかな「渡し船」も、立派に港の風景に溶け込んでいる。三津清緒の一つとしていつまでも残したいものである。

 (イ)渡し船の船頭さん

 **さん(松山市港山 昭和18年生まれ 52歳)
 **さんは、渡しの近くで生まれ、渡しとともに成長してきたと言ってもよい。子供のころはまだ伝馬船(でんません)(無甲板木製の小舟で、普通櫓で漕ぐ)で、渡しに乗ると、船頭さんが櫓の漕ぎ方まで教えてくれたというのんびりした時代だった。漁師の持つ船もほとんど伝馬船だったそうだが、それが今では動力船に変わった。
 **さんが、知人の勧めで渡し船に乗るようになったのは、昭和45年(1970年)で、4級小型船舶操縦士免許試験のときだったというから、現在(平成7年)24年になる。
 対岸までわずか2、3分と短い。このため船着き場に一人でも姿を見せると、その都度船頭さんは船を動かす。病院通いのお年寄り、自転車の会社員、犬を連れた男性、幼児の手を引いた女性、子供たち…。乗客の層は実にバラエティーに富んでいる。買い物カゴを手に一人で乗ってきた女性は「内港に沿った道を歩くと30分以上かかります。この渡しはもう何十年も利用しているわたしたちの〝生活の足〟なんですよ。」と語っている。
 **さんは「手漕ぎの時代が情緒があって懐かしい。お客との対話がありました。体はきつかったが、3度に1度は漕いでくれる人がいました。今はエンジンの音がうるさくて昔みたいに客と会話することはほとんどなくなった。でも、降りるときには、みんな礼を言ってくれる。渡しが続く限りこの仕事を続けたいです。」寒空の中で船を操っていても心の温まる瞬間だと思う。
 また、**さんは「最近、船に乗りたいという子供の気持ちを満たすために、遊覧船がわりに楽しむ親子連れや、観光客風の若い人が珍しがって乗り込むこともたまにある。」と語る。渡し船は、〝生活の足〟プラス新たに〝遊び〟、〝観光〟の要素も持ち合わせてきている。
 「以前、夏場には午後8時の運航時間が終わると、泳いで渡る人があったですよ。また、初めて乗る人の中には、お金を差し出す人がいて無料と分かると『本当に?』と目をパチクリさせていました。最近は釣り人を対象にした遊漁船が目立って増えたですよ。そのため、高速船などが渡しのコースを横切る度に渡し船は横波をくらう。渡し船の舷側(げんそく)を超えてバサッと波が入り込む。昔の手漕ぎ船だったら大変なこと、今の動力船でも昔と違って舵を取るのも大変な時代になりました。」一見のんびりした渡しながら現状は危険と隣り合わせと言ってよい。安全は、**さんら船頭さんの舵取りの腕にかかっている。少しの油断も許されない。どこまでも「三無しの渡し」の歴史を続けてもらいたい。
 「お客の多い時は、1時間で10回くらい往復する。利用者は、1日平均して100人で、満員になることはまずない。暇な時は新聞を読んだり、雑誌を読んだりしています。と言っても、船着き場に人の姿を見ると迎えに行かないといけないので、ゆっくり読むことはできませんが。」
 往時に比べたらお客は年々減少しているそうである。マイカーの普及で、港山から朝市に魚を運んでいた行商人も、みんな渡しから車になったという。また、女性等の買い物客の志向が変わり、品物の豊富な松山市街地の商店街に、直接車で出かける女性等が増えたことなどの生活の変化によるらしい。そんな利用者減に加えて、行革問題などが重なり、この渡しも一時は民間委託へと動いたこともあったが、地元の人たちが、有料化・廃止につながるのではないかと反対陳情を市議会へ提出し、現在は立ち消えになっているそうだ。
 「『矢切の渡し』ならぬ三津の風物詩をいつまでも続けてほしい。」と**さんは語る。


*1:伊予郡松前町の女性行商人。のちには、松山近辺の女性行商人の一般的な呼称となった。ゴロビツと呼ぶハンボ(木製の
  桶)に魚を入れて、頭上に載せ、絣の着物に、手甲(手の甲をおおい保護するもの。)、脚絆(すねにまとい、ひもで結ん
  で、動きやすくする布。)、前帯、前だれ、わらじ履きの特有の服装で、松山市など近郊の町や村に魚を売り歩いた。
*2:買出人はセリに参加できないが、買出人として3年以上経験し、売買の能力があると認められると売買参加者としてセリ
  に参加できる。
*3:東港山の麓に古深里の不動院というささやかな一堂がある。ここが洗心庵のあったといわれる所で、有名な芭蕉の「笠を
  舗て手を入れてしるかめの水」という句碑がある。

図表1-2-1 三津浜の築港・改修と高浜開港(明治期)

図表1-2-1 三津浜の築港・改修と高浜開港(明治期)

『県都機能の充実・強化に関する研究(②)』より作成。

図表1-2-2 三津浜町側の対応と港湾整備

図表1-2-2 三津浜町側の対応と港湾整備

『県都機能の充実・強化に関する研究(②)』より作成。

図表1-2-3 三津の朝市の成立と発展

図表1-2-3 三津の朝市の成立と発展

『県都機能の充実・強化に関する研究(②)』より作成。

写真1-2-2 三津浜の風物詩「渡し舟」

写真1-2-2 三津浜の風物詩「渡し舟」

平成7年12月撮影