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臨海都市圏の生活文化(平成7年度)

(3)機関室は「縁の下の力持ち」

 ア 親子二代の機関長、**さんの歩み

 **さん(松山市中須賀 大正11年生まれ 73歳)

 (ア)父に続いて、船乗りに

 **さんの父は、石崎汽船で機関長を務めていた。
 **さんも、昭和12年(1937年)3月、三津浜尋常高等小学校を卒業後、広島県の昭和汽船株式会社に船員として入社し、広島-倉橋島航路の旅客船に乗船した。
 昭和13年、呉穀物部商業組合(朝鮮から米を輸入するための国策会社)に転職した後、貨物船「第2鮮友丸」に機関員として乗船し、朝鮮航路に従事した。
 昭和16年、第2鮮友丸は海軍に徴用後、大砲などで武装した特設掃海艇に改装され、**さんら乗組員は海軍軍属となった。
 昭和17年(1942年)、徴兵検査後、徳島歩兵連隊に入隊、中国中部方面に従軍した。その後、船舶兵となって海上輸送に従事し、昭和20年8月、熊本で終戦を迎えた。

 (イ)石崎汽船へ

 **さんは、昭和20年10月、松山に復員し、石崎汽船に船員として入社した。当時、進駐軍に徴用されていた「第16相生丸」に乗船し、呉-小用(江田島)航路に従事した。
 **さんは、昭和23年(1948年)いったん石崎汽船を退社したが、昭和26年再入社した。昭和27年、機関長となり、昭和55年(1980年)10月に定年退職を迎えるまで30年間にわたり、安全運航を支える裏方に徹してきた。**さんが機関員、機関長としてかかわってきた船は、「第16、17、18相生丸」、「春洋丸」、フェリー「旭洋丸」、「恵洋丸」など石崎汽船における戦後の代表的な旅客船や就航初期のフェリーであった。

 (ウ)機関を支える

 **さんは、旅客船の機関長として歩んだ道程と体験を振り返って、次のように語っている。
 「船舶のエンジンは、蒸気エンジンから焼玉エンジン、ディーゼルエンジンと変わってきましたが、エンジン関係も本当に日進月歩です。しかし、技術的には常にトラブルがあり、マニュアルに従って定期的に整備しないと、うまく運転できません。
 船の係船装置や電気装置もどんどん新しくなりましたが、すべて機関部の管理にかかってきました。また、エンジンの馬力アップ(スーパーチャージャー)によるエンジンの軽量化にともない、ピストンの亀裂とか、高熱でバルブが溶けたり、水冷部分のキャプテーション現象(金属の腐食現象)とか、昔にはなかったさまざまなトラブルが出てきました。
 船の電気系統も、直流から交流に変わり、電圧とサイクルを一定させる装置の性能がよくなかったころは、自動電圧調整機の修理などに大変苦労しました。また、航行中、船の振動で電線がすり切れて電気装置が故障するので、修理するのに苦労しました。戦前の古い船(第16相生丸)では、振動で船底にヒビが入って浸水したこともありましたが、その時は応急手当で浸水をわずかにして、運航に支障ありませんでした。そのほか、操舵機が故障したため船の最後尾にある狭い操舵室に1日中こもって、電話の指示で手動で舵を動かしたりしたこともありました。
 船のエンジンクラッチについても第18相生丸や春洋丸は低速エンジンでクラッチがなく、船の前進、停止、後進の操作に苦労しました。操作が間に合わなくて岸壁に船を当てることもありましたが、旭洋丸、恵洋丸になると回転数の多い中速エンジンになり、クラッチもリモコン操作で船の運転がやりやすくなりました。
 わたしたちは、常にエンジンメーカーに出向いて、新しい技術を勉強しました。また、第18相生丸以降は船舶公団(*9)船が多くなり、船の性能も良くなりましたので、船舶公団のベテランの技師について勉強しました。また、専門雑誌の『漁業機関』を購入し、みんなで回覧して新技術を研究したものです。
 思い出の船は、純客船の春洋丸ですが、いわゆる『洋シリーズ』第1号の快速デラックス船として、なかなか性能が良かったですね。
 旭洋丸からエンジン監視室ができ、エアコン付きの部屋の中で配電盤や計器類の操作ができるようになり楽になりました。
 石崎汽船では親子代々にわたり勤める者も多いです。航路も少なく、船会社としては勤めやすいところです。」

 イ 機関長**さんの歩み-エンジン支えて50年-

 **さん(北条市栄町 大正9年生まれ 75歳)

 (ア)16歳で機帆船に乗る

 **さんは、椀(わん)船による桜井漆器の行商で名高い越智郡吉海町椋名(むくな)に生まれた。**さんの父も大分県や鹿島県各地へ椀船行商に出かけていた。
 昭和6年(1931年)、椋名尋常高等小学校を卒業した**さんは、1年あまり役場に勤めた後、しばらくの間、父の行商を手伝っていたが、あまりおもしろくないので、津島(吉海町)の機帆船「第2徳吉丸」(70積みトン)に乗船し、船乗り修業を始めた。
 **さんは、少年時代を振り返って、「わたしが船に乗り始めたのは16歳のころでした。津島は、昔から海運が盛んで、各家に一パイ(1隻)ぐらいは船を持っていました。わたしが乗った第2徳吉丸は、宮崎から大阪へ木材(ベンコ〔弁甲〕と呼ばれた杉材)を運んでいました。乗組員は5人でしたが、少年のわたしは、『カシキ』といわれた飯炊きの仕事につきました。船乗り修業は、飯炊きから始めるのが普通でした。」と語っている。
 **さんは、その後、黒川汽船の客船「津島丸」(40トン、今治-尾道航路)に乗り、この船で機関技術(焼玉エンジン)の勉強を始めた。
 昭和12年(1937年)から16年までは、八幡市(現在は北九州市)の機帆船に乗り、八幡から鉄板を積んで長崎や呉の造船所に輸送した。
 昭和16年6月、20歳になった**さんは、徴兵検査を経て、佐世保海兵団に入団し、機関兵となった。同年10月航空母艦「飛竜」に乗艦し、昭和17年6月には史上名高いミッドウェー海戦に遭遇した。米軍機の集中爆撃により「飛竜」は大破ののち沈没したが、**さんは救出され、九死に一生を得て内地に帰還した。

 (イ)裏方に徹して

 昭和20年8月、終戦により無事椋名に復員した**さんは、合併直後の瀬戸内海汽船今治支社に入社した。最初は島通いの客船「津島丸」に乗り組んだが、そのころの船員の給料は80円くらいで、海軍時代より大分少なかったという。
 その後、昭和59年(1984年)9月、定年退職を迎えるまでの間、「第8東予丸」(58トン)、「第11東予丸」(226トン)、「第15東予丸」(220トン)、「うずしお」(263トン)、「しろがね」(360トン)、「くにさき」(382トン)、フェリー「ひろしま」(468トン)などに機関員、機関長として乗り組み、長く瀬戸内海航路を支えてきた。
 **さんは、旅客船機関部の裏方に徹してきた50年近い歩みを振り返って、次のように思い出を語っている。
 「終戦後、船のエンジンも次々と改良され、性能も良くなってきたのですが、調子の悪い時の調整や故障の対応には難儀しました。エンジンが自動化されてからずいぶん楽になりましたが、特に船舶整備公団船は設備、性能ともに整備されてきました。
 終戦まもないころの第11東予丸などは、ディーゼルエンジンの排気弁の調子が悪くて速度が遅く、予定の到着時間に間に合わせるため、この船に乗り組んだ人はみな苦労しました。特に港の出入りの時にはエンジンに付ききりで大変気を遣いました。
 東予丸クラスの船は、暖房機が機関室にあったため、夏は大変熱く、ファンもないので暖房機を背負って走るような苦しみでした。その後公団船になりファンも付き、フェリー『ひろしま』などのエンジン監視室に冷房が付いて楽になりました。」

 (ウ)思い出の航路

 「思い出の航路は、広島-今治航路や尾道-今治航路です。昭和30年(1955年)から40年ころは瀬戸田町の耕三寺(こうさんじ)参りの全盛時代で、尾道航路は乗客が多く、会社のドル箱路線でした。尾道の桟橋などはいつも黒山の人でにぎわったものでした。一日5、60人くらいの東京行きの人が、今治から夜9時ころの尾道最終便に乗って渡り、翌朝の汽車に乗ったものです。ところが宇野から特急列車が出るようになってからは、朝8時ころ松山から汽車に乗れば、その日のうちに東京へ着くようになったものですから、尾道航路は乗客がガタ減りになりサッパリでした。瀬戸田でお客さんを降ろしたら、尾道行きには2、3人しかいなくなったのですから、尾道の町がさびれたはずです。新幹線駅も初めころはなかったのですから余計さびれましたよ。尾道くらいさびれた町はほかにはありません。
 尾道-新居浜航路も、尾道から干物や塩こんぶなど海産物を山のように積んで、住友城下町の新居浜へ運んだものですが、尾道の問屋街もさびれてしまったものです。
 定年は昭和53年(1978年)9月でしたが、そのころの思い出としては、その年の夏のころ皇太子(現天皇)御夫妻が『しろがね』に乗船されたことです。それまでの『しろがね』は、エンジンが古くて排気弁クランクの調子が悪かったのですが、クランクピンを研磨して皇太子御乗船までにはよくなりました。
 長い間船に乗ってきた上で、やりがいといえば、船が無事、安全に、時間に合わせて港に着いた時です。特に団体客には気を遣いました。無事に着いたその時には、本当にほっとしましたよ。やはり機関部の仕事は縁の下の力持ちですから。」


*9:客船や貨物船の建改造に、資金と技術の両面で協力し、老朽、不経済船の代替を促進するために、昭和36年(1961年)
  に設立された政府出資の特殊法人。

図表1-1-16 石崎汽船航路表

図表1-1-16 石崎汽船航路表

平成7年12月現在。『石崎汽船史 海に生きる(⑩)』より作成。

図表1-1-17 瀬戸内海汽船関係航路表

図表1-1-17 瀬戸内海汽船関係航路表

瀬戸内海汽船資料より作成。