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臨海都市圏の生活文化(平成7年度)

(3)波方海運の歩み-愛媛海運のメッカ-

 ア 帆船から機帆船時代へ

 波方町は、越智郡伯方町と並んで全国屈指の海運の町(船処(ふなどころ))であり、愛媛海運のメッカといわれる。したがって波方海運の歩みをみることは、すなわち、愛媛海運の歩みをみることになろう。
 来島(くるしま)水軍の伝統を受け継ぎ、江戸時代初期から続いた波方海運が発展する歴史的契機は、天和3年(1683年)波方村の浦役人長谷部九兵衛の意見により、松山藩が築造した波止浜(はしはま)塩田(*6)にある。明治時代初期の波止浜や波方地方では、塩田に必要な資材の砂を運ぶ「入れ替え船」、松葉など燃料を運ぶ船、塩を運送する船が発達した。特に波方の海岸で取れる砂が、塩田の入れ替え用に適しており、その砂を運ぶ入れ替え船でにぎわった。しかし、瀬戸内の塩田は、やがて過剰となり、入れ替え船も衰退していった。
 一方では、民家の草葺(くさぶき)屋根が瓦(かわら)屋根に変化するにつれて菊間瓦の需要が高まり、瓦用の粘土を運ぶ「土船」と、瓦製造から出る素灰(すばい)(松葉や割木の燃えかすで練炭、炭団(たどん)の原料となる)を運ぶ「素灰船」が発達した。特に波方産の五味土が菊間瓦に適していたので、波方から盛んに菊間へ運ばれた。この利益により波方の人々は、ようやく自前の土船や素灰船が造れるようになった。波方海運発展の基礎は、素灰船によって築かれたといえよう。
 明治29年(1896年)の波方村には素灰船を中心として44隻の帆船があった。この年には120mの波止(はと)を築く第1期工事が行われ、12月に完成した。翌30年2月には、築港工事費用をまかなうために波方回船組合が結成され、自費でもって築港工事を完成させた。波方船舶協同組合事務所の前に建てられている「築港記念碑」の由来板には、「波方海運の歴史は古く、徳川初期に端を発し、全国有数の船処として発展した。特筆すべきは波方築港である。現在5期工事を得て長さ400mの築港であるが、特に第1期工事は地元海運業者を中心に自費にて作ったもので全国でもまれに見るものであり古人の努力を偲(しの)ぶもので村民の誇りでもある。」と記されている(写真1-1-1参照)。
 明治30年代から大正、昭和初期にかけて、日本の近代産業の発展にともない、内航海運は石炭輸送の黄金期を迎えた。九州各地の炭田から坂出、播磨の塩田へ、後には阪神、名古屋の火力発電所などへ石炭を輸送した。当時の石炭輸送の特色は石炭の買い積み船であり、各地に運んで転売したので、時によると、思わぬ利潤もあったという。
 昭和になると、これまでの帆船に焼玉エンジンをつけた機帆船の時代を迎えた。帆船では月に1航海のところが、機帆船では2、3回の輸送ができるようになった。
 波方における機帆船の草分けは、昭和9年(1934年)山内才松が山中造船で建造した150総トンの機帆船であった。その後、帆船の改造や機帆船の新造により、昭和15年(1940年)ころ波方の船は、ほとんど機帆船になっていった。
 また、波方では、不時の出費や海難に備えて、独特の相互扶助の制度として「無尽(むじん)」を組織した。機帆船は保険に入れなかったし、担保能力もなかったので、この制度は戦後にかけて、波方海運の発展に大変役立つこととなった。

 イ 機帆船から鋼船時代ヘ-波方が先陣に立つ-

 昭和16年(1941年)以降の太平洋戦争中は、波方の機帆船も5、60隻のうち25隻が徴用され、戦火の犠牲となった船も多かったので、終戦時には、ほとんど残っていなかった。しかし、戦時中の計画造船(軍需物資運送用)により、造船所には建造中のかなりの船が船台に残っていたので、それらを進水させて波方海運の再建を図った。
 戦後の内航海運は、石炭輸送を中心として戦後復興の波に乗り、特に朝鮮動乱の特需景気(昭和25年〔1950年〕~昭和28年初め)で息を吹き返した(図表1-1-8、9参照)。
 波方はじめ内航海運業界に大変革をもたらしたのは、昭和30年代における機帆船から小型鋼船への切り替えであった。波方町の斎宮源四郎は、昭和27年(1952年)10月、鋼船の客船を貨物船に改造して「第10桑名丸」と名付け、小型鋼船時代幕開けの先陣を切った。また、瀬野政次郎は、昭和29年10月、「第5長久丸」(191トン)を建造し、続いて「第8長久丸」(499トン)を建造した。このように愛媛県では、波方町、伯方町を中心に機帆船から小型鋼船への移行が早かったため、「愛媛船主」の名が全国的にとどろくようになった。
 愛媛における小型船建造の特色は、地元の造船所と金融機関が全面的に船主を支援したことにあった。まず、昭和31年(1956年)、来島船渠は、「来島型標準船」を建造し、「月賦販売方式」によって小型鋼船建造の普及に乗り出した。他の造船所各社も来島の月賦販売方式に対抗して、船主に金融機関を斡旋したり、造船所の負担による延べ払いを認めるようになった。このような金融機関と造船所の協力体制は、「愛媛方式」と呼ばれ、「愛媛では船主が船を造るのではなく、造船所と銀行が造った。」と言われるほどであった。
 小型鋼船は、焼玉エンジンからディーゼルエンジンに変わったため、機帆船より速く、正確で、計画的な大量輸送が可能になり、船員の手配もやりやすくなった。また、保険の加入により船の不動産価値が認められ、銀行からの資金繰りがよくなって経営も安定してきた。やがて、一杯船主も、船から陸に上がって会社組織を整え、船員を雇って船をオペレーターに貸渡し用船料を収入源とする、オーナー船主の形態に変わっていった。

 ウ 内航から近海船、遠洋船ヘ-世界の海へ進出-

 日本経済の高度成長にともない、昭和40年(1965年)ころから住宅建築ブームを迎え、ラワン材など南洋材の需要が増加したので、波方地区を先頭として愛媛の内航船主は、積極的に近海船の分野に進出し、フィリピン、マレーシア、インドネシアなどの東南アジアを中心に、中国、韓国、旧ソ連方面にも進出した。また、今治・波止浜など愛媛の各造船所も近海船(4,000~8,000D/W、標準型船は約6,000D/W)の建造体制を整備し、近海進出のオーナーをバックアップした。
 しかし、昭和40年から44年にかけて続いた近海船ラッシュにより船腹が増加し過当競争となったため、昭和47年から2年間にわたり近海船の建造が禁止された。このため波方のオーナーも、中古船の売船利益を基に遠洋船の分野に進出し、世界の海を舞台に活躍するようになった。遠洋船は、すでに昭和44、45年ころより、米材輸入が始まっていたが、この米材船も船腹過剰になったので、大型(6、7千~1万トン)のケミカルタンカー、冷凍船、自動車専用船(PCC)、さらにコンテナ船と、多種多様な船を建造した。このように愛媛船主は、おう盛な進取の気性と強い資金調達力によって世界の海を駆けめぐるようになったのである(写真1-1-4参照)。
 波方海運の現状は、波方船舶協同組合の資料によれば、海運会社は106社、船腹量は106,116総トンで、愛媛県における内航船腹量シェアの2割を占め、県内地区別で第1位にあり、名実ともに愛媛海運のリーダー的存在である。外航船は、16社(うち外航船のみ5社)、船腹量は43,372総トンである(いずれも日本船籍船のみで、このほか相当数の外航船を外国籍に移した便宜置籍 (べんぎちせき)船(*7)の形で支配下においているが、正確な数字は不明である(図表1-1-10参照)。
 愛媛県産業貿易振興協会では、愛媛の遠洋船と近海船のうち便宜置籍船は、遠洋船が438万2千重量トン、近海船が81万2千重量トン、また、遠洋船と近海船合わせた外航船の便宜置籍船は約520万重量トンにのぼるのではないか、と推定している。
 波方船舶協同組合長は、「現在、波方町の外航船は約100隻にのぼり、用船料として1か月約二十数億円、1年で約250億円余りの外貨が波方町に落とされています。また、内航の分野でも1年間で約300億円、外航と合わせると約五百数十億円ほどが波方町に入っているでしょう。波方町の海運は、ある時には経済変動の波に洗われ、また、ある時には過当競争に苦しんできましたが、オーナー、造船所、銀行でもって波方コンビナートを形成し、三者一体の結集力によって切り抜け、発展してきました。今日、内航海運は、用船料の低迷、船員不足と高齢化、さらに、規制緩和、構造改善など問題が山積していますが、波方町の主産業である海運業を歴代、親から子へ、子から孫へと継承し、船舶協同組合を中心に団結して守っていかなければなりません。それが波方町の生々発展につながっていく道筋であると思います。」と語っている。


*6:波止浜塩田は、天和2年(1682年)波方村長谷部九兵衛が藩に願い出て難工事の末、天和3年完成した県下最古の入浜
  式塩田(満潮面より低い地面へ干満の差を利用して海水を引き入れて製塩する方法)である。
*7:国籍をパナマやリベリアなど船舶登録料や税金の安い国に便宜上置き、日本で運航する外航船をいう。その際、船会社
  は、パナマ、リベリアに子会社を設立して、自社船を子会社に売船し、外国人船員を配乗させた上、オペレーターに用船に
  出す方式をとった。便宜置籍船の利点は、賃金の安い発展途上国の船員を配乗することにより、船員費を大幅に節減できる
  ことにあった。愛媛県では昭和48年(1973年)ころから便宜置籍船が運航されるようになり、国際競争力を強めた。

写真1-1-1 波方港記念碑(明治29年12月建立)

写真1-1-1 波方港記念碑(明治29年12月建立)

右側は昭和12年建立の記念碑。左側は帆船時代波方の青年たちが石を持ちあげて力自慢を競った「力石」。平成7年10月撮影

図表1-1-8 波方地区機帆船、船腹量別事業者構成

図表1-1-8 波方地区機帆船、船腹量別事業者構成

(注)最大船は斎宮源四郎ほか2名所有の「第3桑名丸」196総トン。昭和26年3月31日現在。『四国海運大鑑1951年、付、四国管内船名録(⑤)』P13~39より作成(50総トン以上機帆船)。

図表1-1-9 愛媛県機帆船隻数、船腹量の全国比率

図表1-1-9 愛媛県機帆船隻数、船腹量の全国比率

昭和25年11月1日現在。『四国海運大鑑1951年(⑤)』P93より作成(5総トン以上の機帆船の集計)。

図表1-1-10 波方海運の船舶所有状況(昭和50年度、平成6年度)

図表1-1-10 波方海運の船舶所有状況(昭和50年度、平成6年度)

波方船舶協同組合 昭和50年度、平成6年度資料より作成。

写真1-1-4 今日の波方港

写真1-1-4 今日の波方港

左前方は建設中の来島大橋。平成7年10月撮影