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臨海都市圏の生活文化(平成7年度)

(1)遠浅に残る足あと

 ア 八重簀(やえす)と後ざらい

 **さん(東予市北条 明治43年生まれ 85歳)
 県内有数の穀倉地帯である道前平野は、隣接する西条市から続く広大な遠浅を海に向かって広げてきた。中山川や大明神川など、多くの河川によって形成された禎瑞(ていずい)、吉井(よしい)、多賀(たが)、壬生川(にゅうがわ)、河原津(かわらづ)の遠浅は、海の幸を求める場であり、古くから川狩りや潮干狩りなど、くらしと密着した行事として人々の足あとを残してきた。また、ノリ養殖漁業を発展させる一方で、海路を往来する貨物や人の足あとを残し、人力車のわだちをも刻んだ。
 東予市の老人クラブ会長を務めている**さんは、子供のころは海辺が遊び場であり、遠浅は海の幸を求めて奮闘する懐しい舞台であった。
 「子供時分にね、七夕よね。8日の朝(竹の)枝をもじって、浜へ持って行ってね。」と語り始めたのは子供の遠浅漁であった。
 「昔は簀言いよったんよ。土地を這うものを取る簀ちゅうのをまねて建てよったんよ、竹の枝を。」
 干潮の時に仕掛けておくと、満ち潮で魚が上がってくる。潮が引き始めると、沖へ潮と一緒に移動しようとする魚類が簀へ入る仕組みになっていた。
 「簀の胴へ魚が入ると、こいよに(この様に)戻りがあって(魚は)出られんのよ。それを子供がこしらえるんでね。それがために20人から30人の子供が出て、ワイワイ言うてやったもんです。」砂泥に潜るカニ、コチ、カレイを捕まえて、誇らしげに母親に渡したのだと言う。
 「後ざらい」と称する漁は、干し網(建干し網)で網主が魚をとった後を、近所の者に自由にとらせるものであった。網主たちは、土中に潜ったカニなどには手を出さず、子供は砂地をさらえて、エビ、カニ、コチ、カレイなどを持ち帰った。子供たちのおかずには十分だったようだ。

 イ ノリ養殖への挑戦

 **さん(東予市今在家 大正14年生まれ 70歳)
 **さん(松山市余戸 明治37年生まれ 91歳)
 愛媛県農林水産統計年表によると、ノリ養殖の経営体数は、ピーク時で約2,700を数え、昭和39年(1964年)から昭和45年(1970年)ころまでは横ばい状態を示している。ここでは、さかのぼって、生業としてのノリ養殖が、東予市の遠浅に定着した経緯を探る。
 『西条市生活文化誌(⑳)』には、ノリ養殖が軌道にのりはじめたのが明治の終わりころとし、黒島(新居浜市)の文次一家を禎瑞産山(うぶやま)(西条市難波(なんば))に住まわせて、ノリ養殖の仕事をさせた天保12年(1841年)からは半世紀を経過した後のことと記されている。また、県水産試験場が東京式の養殖・製造法の講習会を開き、玉津漁協が唐樋尻(からひじり)・室川で区画漁業の免許を受けたのが明治43、44年ころとある。さらに、東予市のノリ養殖について、「吉井から多賀、壬生川へと広がり、漁家や農家の副業として定着した」のが大正の終わりから昭和の初めとしている。
 **さんは、父栄吉さんがノリ養殖に挑戦したいきさつを次のように述べている。
 「大正6年(1917年)広江(ひろえ)、(東予市)の中津定吉さんの八重簀にノリがつき、生育しているのを見た。……(中略)……『どうしても養殖をしてみたい』と。『もし養殖ができたら地元の副業として金になると思うんだが分けてもらえまいか。』と中津さんに申し出た。『あんたがやってみようと思うのだったら、あげるけにやってみんかい。』と、3円で買い取った。その時中津さんは、『竹を9月中に建てるとシイ(フジツボ)や青ノリが付くが、10月の10日から15日ころに建てると、たね(胞子)がつき、それがふとる。』と教えてくれた。翌年はじめて篊(ひび)(ノリ笹)を千本買い込んで建て込みをした。篊の代金は8円だった。」
 地元の漁業組合が一向に振り向かないまま、繰り返し研究を重ね、生活苦におわれながらも頑張りぬいて、ようやく生産の見通しがついた。漁業組合が郡役所から30円、村役場から10円の補助を受け、組合の事業としてノリ養殖を始めたのは大正9年(1920年)、栄吉さんが取り組んでから3年目の年であった。
 栄吉さんが指導を仰いだ人物の中に、海藻の権威として有名な水産講習所の岡村金太郎博士があり、愛媛県水産試験場西条分場の**さんの名前がある。
 **さんは、当時のことを正確に覚えていると、次のように語ってくれた。「昭和2年(1927年)わたしは水産試験場で海産動物と海藻の研究をしていました。20歳代のはじめころです。栄吉さんはノリ養殖の組合長をされていて、進歩的で、新しいことに挑戦される方でした。ノリに肥料をかける試みをされていたと思います。品川ノリの本場大森からおじいさん(朝賀菊蔵さん)を招いて指導してもらったり、水産試験場が取り寄せたノリ抄きの機械を栄吉さんの庭へ据え付けたりしましてね、これは四国で初めてでした。」と。
 現在のノリ抄き(写真4-2-16参照)とは違うにしても、いかにも栄吉さんらしい先駆的な試みである。
 昭和24年(1949年)、イギリスの女流海藻学者ドリュー博士が、成熟したノリから放出される果胞子は貝殼に付着して発芽し、貝殼の石灰質に侵入して糸状体をつくることを発表し、昭和28年には、東北海区水産研究所の黒木宗尚技官が研究をさらに進め、糸状体から放出される胞子が発芽してノリになる実験に成功する。
 以後、各試験場の研究によって、人工種付け、野外・室内採苗法が確立されて、昭和36年(1961年)ころにはノリ養殖が全国的に広がっていった(⑳)。その間ノリ篊もメダケ、スダレヒビからヤシ網へ、さらに昭和30年には、愛知水産試験場が開発したクレモナ網へと急速に変化したのである。
 篠原栄吉さんが遠浅に残した足あとは、カブトガニのほかにもう一つ、ノリ養殖があった。

写真4-2-16 機械によるノリ抄き

写真4-2-16 機械によるノリ抄き

**さんの作業所にて。平成8年1月撮影