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臨海都市圏の生活文化(平成7年度)

(1)シカのすむ島

   神威曾(かつ)て斧入らしめず島茂る (霽月)

 **さん(北条市辻 大正15年生まれ 69歳)
 **さん(北条市土手内 大正3年生まれ 81歳)
 北条市立ふるさと館に館長さんを訪ねると、早速、「こんなもんがあるんですが。」と言って『北條と鹿嶋(⑪)』を持ち出されたのであった。大正15年(1926年)、「国鐵北條驛」の開業を記念して編さんしたものであり、70年前の北条と鹿島を見ることができた。
 当時の海南新聞に掲載された「国鐵北條菊間線の歌」(重見榮次郎作歌)が出ている。菊間・北條間開通の、喜びの歌でもあるこの歌は、後半のちょうど半分が鹿島を詠みあげる。

        国鐵北條菊間線の歌  重見榮次郎作歌

     汽笛の響勇ましく    汽車は菊間を離れたり
     右は名に負ぶ齋灘    往き交ふ舟の数しげし
     千波ケ嶽のトンネルも  またゝく暇に夏ならば
     梨の荷出しに賑はへる  浅海驛は寂として
     構内人の影もなし    眼下に浪の花匂ふ
     海幸ち多き汐出磯    送り迎ふるトンネルの
     数よむ暇もあら波の   彼方に望む安居の島
     波妻の鼻も横ぎりて   再び望む海の面
     左に続く連山は     小杜若に名を得たる
     恵良腰折鴻の坂     昔河野氏代々が
     牙城置きしと言ひ傅ふ  高縄山の巍峨として
     海抜三千有余尺     雄姿堂々他を壓し
     風早三野に聳えたり   立岩川の鐵橋を     
     渡れば早も北條驛    目ざすは神の鹿島山
     驛を去ること四五丁   渡しの翁いんぎんに
     我を迎ふも快し     鳥居をくゞり伏し拝む
     鹿島の社神さびて    霽月翁の神威まだ
     斧入らしめず島茂る   句意そのまゝの御社や
     楠生ひ茂り松たって   神の使の鹿すめる
     此島あるを町人の    誇りとするも誠なれ
     我子の如く手馴付けし  島守にして鹿守が
     こいよこいよと鹿よべば 山に谺し尾の上より
     打ちつれ出づる鹿の数  餌につく様の可愛ゆけれ
     磯邊傅ひに汐ひきし   島を巡りて西すれば
     伊予の二見の名も高き  千切小鹿島繪の如く
     神のなせしか石門や   獺谷の絶景に
     時の移るも忘れけり   時の移るも忘れけり

  ア 俳諧(はいかい)と鹿島

 **さんは、「えぇ、そうです。三由淡紅(みよしたんこう)さんが、鹿島を世に出した大功労者です。私財を投入して橋も架けたりねえ。」と絶賛するのである。
 鹿島に、淡紅洞として名を残す三由淡紅は、霽月(せいげつ)村上半太郎が興した今出絣(いまずがすり)株式会社の社員として、また、「業余俳諧(ぎょうよはいかい)」を堅持した霽月の弟子として、手厚い指導を受けた(⑬)。
 『北條と鹿嶋(⑪)』に転載された『四国文学』明治43年(1910年)4月号に、「淡紅子新婚記念俳会」の紀行文があり、同年3月27日、主賓として招かれた霽月によって、その催しが細かく記されている。奥さんと3人の子供を伴って鹿島に一泊、翌朝子供たちと腰折山へ小杜若(こかきつばた)(エヒメアヤメ)をとりに出かけた。
 三由淡紅は、結婚披露宴を兼ねて50人の客を招待し、俳句会を催す計画を立てた。ところが、前日に、かなりの強風が吹いたようで、船便が主体であった客の大部分が欠席した。客を迎える淡紅は、会場となる鹿島の浜辺の松の幹に、ちょっとした工夫を凝らしていた。
 「松原を歩くと、昨日は気付かなんだが其方此方(そこここ)の松の幹に張紙をして何か掲示してある。一々主人(淡紅)の説明を聞くと『淡紅創始日本一』とは善哉(ぜんざい)である。『北條名物鹿の子』とは木の芽田楽(でんがく)である。『三由家傅午下(みよしかでんひるさが)り』とは入麺である。夫々(それぞれ)場所を定めて係を置いて園遊会に備えるつもりであったが、餘(あま)り賓客の少なかった(15人ほど)ので一処(ひとところ)で皆を饗したのぢやそうである。(⑪)」
 また、その紀行文の文末に、弟子淡紅を評した次の一文がある。
 「淡紅子は早く父に別れて母一人の手に育てられ、薄倖苦辛30年。……(中略)……其後は一意絣仲買業に従事奮励して、老母に奉養し、これから妻子を扶持する丈けの蓄積を得て、茲に初めて今年の初春に新婦を迎えたのである。酒と俳句とが唯二の嗜好で、嘗て十年前人に語りて、自分は千金を貯へ得たらば、俳行脚(はいあんぎゃ)して全国を巡り暮らしたいと言って居った、が今其千金は蓄積し得たけれども至孝の性、老母の意に反かず、此素志を翻(ひるが)へして嫁を取ったのである。鹿嶋の園遊会は其平生俳趣味の一飛沫である」と。「業余俳諧」の師霽月の、淡紅を慈しむ心がにじみでている。

   洞を出る眼に午凪の海霞 (霽月)(写真4-2-2参照)。

 三由淡紅の鹿島への思い入れを、河東碧梧桐の「続一日一信(⑪)」にみる。
 「財産もなければ地位もない、一絣商人としての淡紅が、郷里の福祉の為めに尽瘁(すい)し、今後も益々出来得る限りの労力と金銭とを吝(おし)まざらんとする佳話を待って始めて興味を惹(ひ)く地となるであろうか。現に三津浜町に住する彼は、一部の人の間に奇人として知られてをるともいふ。そは兎に角、彼の生涯は、単に俳諧奇人伝中の一人として傅へらるゝに止まらぬ。朴直にして信仰のある其操行は、我等の理想の一端を遂行するものと推奨せざるを得ないのである。」
 淡紅は、周囲の俳人たちの間で、心配もされ褒められもしていた。

  イ シカ守り貞さん

 「こいよこいよと鹿よべば 山に谺(こだま)し尾の上より」と、国鉄北條菊間線の歌にも詠まれたシカ守りは、「貞さん」こと高橋貞吉翁のことである。貞さんのことがなぜか気になる今回の調査であったが、**さんも**さんも縁者については定かでないとのことであった。
 貞さんがシカを呼ぶ声を、河東碧梧桐は「竹法螺(たけぼら)でも吹く様な妙な音」と言い、紀行文には、「絶えずビとブとの間の濁った拗音(ようおん)(*3)を大きな声で張り上げてをる。姑(しば)らく見守ってをるうちに、一疋(ぴき)の鹿が、崖を下りて来るのが木の間に見え出した。男は右の手を出して小さな声で『コイコイコイコイ』とつゞけていふ。さうして又調子を張って竹法螺の音を立てる。音は更に山に谺して、全山響かぬ隈(くま)もないかと思われる。が、別に法螺や笛のやうなものを持ってをるらしくもない。再び濁った調子を張り上げた時、始めて『コイヨー』と男の口でよぶのであると合點(がてん)した。コをゴと濁って短く、ヨをビョーと長く長く引張るので、竹法螺の音のようにも響いたのであった。一息ついては、『ゴイビヨー』を息のありたけつゞける。」とある(⑪)。

   鹿をよぶ頃の夕照神凪に(碧梧桐)
   鹿笛を喉に蔵して春淋し(三允)
   鹿を呼ぶ翁あわれめ冬茂り (月斗)

 青木月斗の句は、大正13年(1924年)1月、松山訪問の際に鹿島で詠んだものである。
 **さんは、「三由淡紅、仙波花叟ら、瀬戸丸毛人さん、富田壷中さんも含めて俳人続出の北条といった時代ですね、文人墨客の往来が盛んでした。」と語る。風早吟社の設立も早かった。
 鹿島のシカについて尋ねると、「1772年、今から220年くらい前に、鹿島の雌鹿を一頭捕らえてお殿様のお庭に放したことが『松山叢談』第九の上に出てきます。後で雄鹿を他所(よそ)から取り寄せ、できた子鹿をまた鹿島へ放したようです。木本市左衛門がやったと。次いでは、『愛媛面影(⑭)』の北条、描かれた鹿島にシカがおります。そして、八木繁一先生がお元気なころに、『鹿島へ来てもシカが見えんのじゃ、お客さんもがっかりするじゃろ。』と言われましてね、鹿島のシカを県の天然記念物に指定していただいた(昭和23年〔1948年〕)。主なものはこんなところでしょうか。」と**さん、すらすらとお述べになる。
 『北条市の人文・自然(⑤)』に、清水栄盛がシカの消長について述べているが、瀬戸丸毛人さんからの聞き書きである。これによると、明治37年(1904年)ころに約40頭余りの生息が確認され、高橋貞吉さんが鹿守りとして勤めていたと書かれている。
 しかし、「30頭内外がいつも生息していたようで。(⑤)」とあるのは、青木月斗が大阪から鹿島へ来た大正13年(1924年)ころに約15頭となっているので、鹿守り貞吉翁の、二度目の世話で増殖した、その後の生息状況をさす。宮司さんの異動に伴って島を出た貞さんが、再び島へ戻ったときは3、4頭に激減(⑪)していたのである。
 貞さんと、それを支える地域の人々によって、「神鹿保護会」が結成され、「餌送(えさおく)り旗(ばた)」を各戸に回した。家々ではその旗が回ってくると、その日のシカの餌を拠出して、全町民がシカの保護に尽くした(⑪)。
 **さんは言う。「まだ手こぎの舟でね、島へ渡るのは。豆腐のかす(オカラ)や芋の茎(芋づる)を集めて、夕方になると、こちら(鹿島の対岸)から合図しょった。赤い旗でね。」島へ移り住んでいた貞さんは、赤い旗を見て餌をとりにきたのである。戦前の話だ。
 終戦(1945年)後、**さん、**さん、**さんらは南予へ出向き、ハマユウの実生(みしょう)を炭俵で4、5俵も持ち帰って鹿島へ植えた。ビロウの種子は温室で発芽させ、1尺(約30cm)くらいになると植え、ツバキも植えた。しかし、ハマユウなどは一晩で食われてしまうほど、シカも食糧難時代であった。
 理科の教員であった**さんは、先輩の**さんに従って鹿島にかかわる調査、植林、親子の自然観察海藻標本づくり、展示資料の収集などに出かけた。国語の教員であった**さんが同道しているのは驚きであるが、「小学校は全科ですから。」と笑われる。
 シカの食草が減少したことを、**さんは次のように語った。
 「鹿島のシカは、屋久島のというか、キュウシュウジカの系統であろうと言われておりますので、暖帯地方の植物を植えないかんと、**先生の指導を受けましてね、それで植え込むんですが、なかなか育たん。**先生や**先生は、学校が引けてからも水をやりに行ったり難儀をされたんです。南斜面に火災があったりして、しばらくすると、マツが芽を出し、クスノキからわき芽が出ましてね(戦時中に、鹿島ははげ山になっていた)。それが今は大木になっています。戦後の20~30年は、枝も張っていませんで、光も当たるもんですから、シダの群落ができて、イシカグマ、オオバノイノモトソウなどが大群落を作っていました。
 ところが今は、光を通さぬほど樹冠が広がり、下草がほとんどない。また、シカの食草の問題があるんです。」と、終戦後の50年間をかいつまんで話される。しかし、その間にシカのさく飼いが、試行錯誤の末に定着して、野生のシカが今は10頭足らずになった。それでも野生のシカは、食べたり角を研いだりで樹幹を傷めるという。
 野生のシカは細くて、さくで飼育されている仲間とは別種のようである。特有の白い斑点が美しい。子鹿の白斑は特に美しいと**さんは言う。
 神鹿保護会は、全町内の協力を仰ぐ一方で、鹿島を訪れる遊覧者に喜捨(施し)を請うている。

   伊予の北条名所は鹿島、鹿も居ります二三十 居るにや居るけど餌の為めに 惜しやダンダン数が減る
   それが惜しさに神鹿保護の、為めに働く此の會に 縞(しま)の財布の口開けて、寄附をしやんせ皆の衆……一寸鹿が鳴
   く……(⑪)

 鹿島神社の社頭に出したというこの看板、調子のよさがあると思ったら、伊予節(いよぶし)に因(ちな)んだ宣伝歌とある。文中の「ダンダン」は、方言で「ありがとう」の意味もあり、しゃれた宣伝をしているのである。今も、鹿島の入口に「ようおいでたなもし」と歓迎の看板が出ているが、この遊び心はず一っと受け継がれてきたものであろう。一瞬、ほっとするのである。
 さて、見逃がしてはならぬ「伊予の二見(ふたみ)」は、島の西海岸にある。**さんは「本物の二見が浦(三重県、二見町)は日の出、伊予の二見は日の入りなんです(口絵参照)。しめ縄で結ばれた玉理(ぎょくり)・寒戸(かんど)(いずれも海面に突出した岩)がね、きらきらと夕日に映えるところは何とも言えません。」と推賞する。

   岩ありて天つ日ありて海ありて伊豫の二見はかしこかりけり (吉井 勇)


*3:ヤ・ユ・ヨ・ワの音が他の音に加わって生ずる音(漢語林)。

写真4-2-2 鹿島の淡紅洞

写真4-2-2 鹿島の淡紅洞

犬でさえここで引き返したという「犬戻り伝説」が語り継がれた鹿島第一の難所。三由淡紅がこの難所に橋をかけたのが鹿島周遊道路の始まり。平成7年12月撮影