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臨海都市圏の生活文化(平成7年度)

(2)松守延命地蔵尊

 **さん(北条市下難波  明治42年生まれ 86歳)
 **さん(北条市下難波  昭和8年生まれ 62歳)
 **さん(越智郡菊間町浜 昭和22年生まれ 48歳)
 **さん(北条市下難波  昭和12年生まれ 58歳)

 ア 日本名松百選に大師松

 「そのお方が『お地蔵さんは以前からあったのか。』と聞かれるから、わたしが建てたと言ったのよ。その時は、百選(日本名松百選)の話なんか、何にも聞かなかったの。そのお方は、そこらじゅう見てお歩きになってね。」と、大師松が名松百選に選ばれた経緯を**さんが聞かせてくれた。なんでも、松の緑を守る会が選定した百本の日本の名松で、個人が管理したのは、唯一大師松のみであった。
 「マツの殺虫剤を作っている会社だとか、ロータリークラブとかライオンズクラブとかね、団体が管理しているものばかりなの。お地蔵さん建てて、拝んでるってのが気に入ったんでしょうよホッホッ……。」
 表彰式があるから上京するようにと、電話で要請があった。しかし、「わたし、別に、管理なんてね。あんな大きなものは管理できないでしょ。」と、表彰などと晴れがましいことは考えもしなかったので、「部落長(区長)さんにしてください。」と名前と電話番号を教えて切った。
 「行ってみると、お地蔵さんもちゃんと写真に撮ってあったの。精神的にお守りしているような人が珍しかったんでしょ、『あなたが出ていらっしゃい。』と、また言ってくるものですから、しょうがなくて。村の人に『1週間くらい東京に行くから、(大師堂を)留守にするから……。」と後を頼んで上京した。近所の信仰会や町内の役員さんから、航空券とお餞別(せんべつ)までもらったことを、済まなさそうに付け加えるのであった。
 全てを捨てて、「路上に人生あり」と歩き遍路を15回も重ねた末に、堂守りとして鎌大師へ移り住まれた妙絹尼さんには、表彰式に出ること自体がうれしいことでもなかったが、察するところ、松守延命地蔵尊(写真4-1-28参照)の建立についても、村の人に花を持たせたかったようだ。
 「初めはね、松を守るお地蔵さんを建てたいと村の人に言ったんですよ。そしたら村の人が『石屋さんに頼んで新しいのを建てたら、立派なのができる。』とおっしゃったの。わたしお金無いからね、その観音堂の中に今でも(地蔵さんが)何体もいらっしゃるけど、ほこりまみれでいるもんですから、『それを出して。』と言ったんです。」
 これを受けて、「町内の役員さんたちも相談した上で『自分らも知らない昔からあそこにある。100年だか300年だか知らないけど、昔からあるものをね、仏様を動かしたら罰が当たる。そんなことは止めたがいい。』とね。だから、わたしは言ったんですよ。『マツのためだからね。ほこりをかぶって、ほうってあるよりは、出して拝んであげたいからね。わたし一人で罰受けるから。』ってね。出してくださいと頼んだんです。そしたら、みんなが『出してもよかろう。』とね、『市(北条市)から叱(しか)られた。』ともね。」と許しが出たのであった。
 **さんの堂守日記を編集した『花へんろ一番札所から(⑫)』のまえがきに、作家早坂暁が名付けた札所のいわれと、馬越正八師刻の修行大師像(写真4-1-29参照)がある。
 わたしは、下難波の人々にお会いし、自素庵に**さんを訪ねる人たちを見ているうちに、花へんろ一番札所が、だんだんと偉大な情報発信基地と思われるようになった。
 いただいた著書に登場するこの地域の、老いも若きも、女も男も、庵主さまの筆を通して、だれもがお大師様となって迫ってくるようであり、日常の、話す言葉も振る舞いも、どこか庵主さまに似ているように思える。
 似ていると言えば、**さんと**さんの聞き取りの中に、「お地蔵さん(松守延命地蔵)が、どことなく妙絹さんに似ている。」というくだりがある。喜々としたお二人の語りの中に、わたしは、地域の人々が妙絹尼を通して、お地蔵さんに近付き、老樹のマツの精気に触れ、さらには、お大師様と一体化しつつあるように思われる。新しい情報発信のうねりを感じたのである。

 イ 大師松賛歌

   しづの児の鎌もて大師御自作の御像(みすがた)たたう法(のり)の松風 (妙絹謹作の御詠歌)

 昭和48年(1973年)、北条市が史跡に指定した鎌大師境内に、右のような大きな立看板があり、「鎌大師」の由来、俳かい盛んなりしころの風早地方をしのぶ「芭蕉塚」、恵良山(えりょうさん)の戦い(建武2年〔1335年〕)で自刃(じじん)した赤橋武蔵守重時(あかばしむさしのかみしげとき)以下18人を祭る「十八人塚」を紹介している。

           鎌 大 師
 平安の昔、弘法大師四国巡行のみぎり、草を刈りつつ泣く童子を見てわけを聞くと、「疫病が流行し、姉が死に弟も患っており、一家死滅するのではないかと心配で」と言う。大師はこれを憐み、童子の持っていた鎌で木片に自分の像を刻み、これに祈願するようにと言い残して立去った。
 童子がその言葉どおりにすると、病人は快癒し、地方の悪病も消滅した。
 その佛像を本尊として堂を建て、「御自作鎌大師」と称したというのがその伝説であり、由来である。

 「お大師様の押し掛け恋人」とか、「大師松に恋して」と自己紹介される**さんである。全てを捨てて、昭和54年(1979年)よりこの地に庵(いおり)住まいされ、以来15年の間に、句集『遍路杖』、随筆『風の足あと』、句文集『堂守歳時記』『人生は路上にあり』『お遍路でめぐりあった人びと』『花へんろ一番札所から』を、矢継ぎ早に出版し、一方では、自ら四国遍路で体験した「人々とのめぐり合い」をNHKラジオの『人生読本』で語り、また、招かれて講演も行うという大変お忙しい毎日である。『花へんろ』に登場する近所の子供たちのその後を尋ねて、「もう、みんな出てしまってここにはいない。」歳月が流れているのを知った。すっかり下難波(しもなんば)のお人になられた庵主さんに、作詞の依頼が舞い込んだ。
 **さんが、大数珠繰り(8月24日、地蔵盆)のあと、「片付けもんも済んで、お茶を入れていただいたときなんです。」と、お大師様の歌を作って欲しいと、妙絹さんに頼んだいきさつを語った。何でも、盆踊り(8月20日)の踊りを、毎年新しいものを覚えるには踊り子が年をとり過ぎている。阿波踊りのように、同じ踊りを毎年踊れるように、決めた踊りが一つ欲しい。お大師様の歌があれば、それを振り付けてお大師様の踊りとして継承していきたいから、是非作詞してくれと頼んだのである。
 「そしたら、『はい、はい。』じゃの言うて、『ようしません。』じゃのお言いずに。」引き受けてくれた歌は、一晩でできた。それが「鎌大師賛歌」であった。
 盆踊りは3曲の繰り返しで、約1時間も踊ったであろうか。少し間をおいて、コーラスグループ「こかきつばた」の発表があった。**さんの家で練習すると聞いたコーラスの鎌大師賛歌は、みなさん歌い込んでいるとみえてすばらしい合唱であった(写真4-1-31参照)。
 ところが、大師松は、妙絹さんが思いを込めて鎌大師賛歌に詠(うた)うころ、長い生命の炎を燃え尽くそうとしていた。

         鎌大師賛歌
                 作詞 庵主 手束妙絹尼謹作
                 作曲 重松忠夫
   1.高縄のみ山に在(いま)す観世音 恵良の峰に神ませる
     縁(えにし)は深き風早の 里に栄(は)えあれ鎌大師
     しづの児の鎌もて大師御自作の み像(すがた)たたう法(のり)の松風
   2.朝夕の瀬戸浦風に枝垂(しだ)れ枝(え)の 直(なお)く厳しき法の声
     大師を慕う里人の 仰ぎまつれる大師松
     しづの児の鎌もて大師御自作の み像たたう法の松風
   3.名にしおう小かきつばたや伊予すみれ 優しく強き風早の
     女人(にょにん)の姿かくあれと 今日を踊るや鎌大師
     しづの児の鎌もて大師御自作の み像たたう法の松風

 ウ 大師松のOKサイン

 菊間で、喫茶店とブティックを経営する**さんの朝は早い。ゴルフ場の樹木管理に当たる御主人に便乗するので、6時には開店できるという。店は、息子と二人で経営し、国道196号沿いの、瀬戸の島々とおだやかな海が眼下に広がる、よい位置にある。北条市の自宅から、北条バイパスを通って店へ出る**さんが、大師松とのかかわりを次のように語ってくれた。
 「5年ほど前なんです。主人の車に乗せてもらって、北条バイパスを北進中、フロントガラス越しに小高い山並みを見ておりましたら、腰折山の麓の、1本の大きなマツが目にとまったんです。『お父さん、あのマツ、見に行ってみたいね!』と言ったのがきっかけで、不思議な縁ができたんです。」
 樹木に詳しい御主人ともども鎌大師堂を訪ねて、大師松が県指定の天然記念物であることや鎌大師堂の由来、妙絹さんの庵住まいを知った**さんは、毎月の一日参りを欠かさぬようになった。
 「月に一度、一日参りをさせていただいて、後はバイパスのところから『今日も一日繁昌しますように。』と拝んでたんです。そうするうちに、わたしの気のせいでしょうか、大師松がね、『OK!』って言ってるの。」
 大師松と、そのマツに繁昌を祈って手を合わせる**さんとの間に、これを樹霊というべきか、目に見えぬ交信が生まれていった。マツの枝と枝とで作られる空間が、ある日は、元気のよいOKサインに映り、きまってその日は店が忙しかったと言う。
 感じるものを胸に秘めて、「今日は忙しいよ!」と言うと、「何で忙しいの?」と息子さんはいぶかり、友人に話しても、「何でそんなに分かるん?」と不思議がるばかりであったが、予言が何度か的中するうちに、みんなが信じるようになっていた。
 昨年(平成7年)、夏も終わるころに、OKサインを送ってくれない大師松が弱々しく見えて気にかかっていた**さんは、夢の中で大師松の危機を知った。
 「枯れる1週間前、新聞に載る前なんですね。大師松が枯れて、バイパスに向けて倒れる夢をみたんです。」というのが1回目である。「(県の)天然記念物だ。枯れる訳がない。お前の目の錯覚だ。」と反対する御主人をせき立てて行ってみると、マツは枯れていた。御主人も大変驚いたようだ。
 **さんは、周囲の人たちが驚く中で、大師松が夢枕に立つという体験を、さらに2度も重ねた。大師松が「のどが渇いた。水をくれ。」と知らせた時には、妙絹尼さんの許可を得て、水とお酒を飲ませ、「切られる!」と知らせた時には、時すでに遅く、大きなパワーシャベルのそばに横たわるマツの、変わり果てた姿に涙を流した。
 「お願いして、枝の一部をいただいて帰りました。」と言う形見の大師松は、店の神棚に祭られていた。2年ほど乾燥し、仏像を彫ってもらって、毎日拝むつもりだという。
 「木に語りかける。」という言葉を近ごろ耳にすることがある。その人たちにとっては、樹木が、人間と同じ身近な存在となるのであろうか。ともあれ、**さんは、大師松と交信した最後の人と言えよう。なお、大師松の県指定天然記念物は9月9日に解除され、9月21日に伐採されている。
 **さんは、鎌大師の真ん前に住んでいる。いとこ同志の結婚で、子供のころから、大師松の下で遊び、嫁いでからは、大きな枝で日陰を作ってもらい、川辺りでみんなと洗濯もした。御主人が鎌大師信仰会の会長をされているので、お堂や庵の改築についても、大師松の枯死による伐採についても一部始終を知っている。「折にふれて、近所の人は、大師松の下で記念写真を撮りました。」という**さんは、見るにしのびずと旅に出た庵主さんに代わって、御主人ともども、トラックで運ばれていく大師松を見送った。**さんも、**さんも、「からだの一部が切られる思い。」で伐採を眺め、去り行く大師松の、変わり果てた姿に涙を流すのであった。
 平成6年12月号の『えひめ雑誌』に、「松守三ン世」の見出しで、手束妙絹尼の一文が載っている。

          (前段省略)
 私はよくお人に話します。人生は一度きりじゃない、前生あっての今生、だったら後生のない筈はない、生きとし生けるもの三ン世を生き通すのです。だからこそ今生を一所懸命に生きましょうと。よき来世にまた生まれ出るためにと。
 明日から大師松を伐ると決まった夜、茶、花のお弟子たちと松の下で「お袂(わか)れ供養」のお茶をしました。そして伐られる姿を見る切なさに翌朝庵を出て、漂泊にも似て快快(おうおう)の日を二週間して帰庵しました。大師松亡き秋の空はただ茫々と漲(みなぎ)るように青く張りつめていました。
 お遍路を始めて大師松にま見えた日から、二十余年拝んで来た樹霊は、人と同じに私のように三ン世を生きてゆくのだと納得して、十一月八日、立冬の今日未明の勤行(ごんぎょう)に、松の霊位、伐採から七七四十九日のご回向(えこう)をひとり修しました。
 「松守」の関防(かんぼう)印は、私の心に生き続けている大師松のために、もの書く手がある限り使ってゆきましょう。命のかぎりお大師様のお給仕をして、もう他所者(よそもん)でない愛媛の風早びととして残る世を一心に生きて参ります。

    つれづれと大師松亡き秋の空
    雁渡る吾が恋の松失き空を
    雁渡る松の精魂(すだま)か空駆けて


*参考・引用文献
 第2節で引用した文献もあるので、章末にまとめて掲載した。

写真4-1-28 松守延命地蔵尊

写真4-1-28 松守延命地蔵尊

名前を付けてあげるとお地蔵さんが喜ぶ(妙絹)。平成7年10月撮影

写真4-1-29 花へんろ一番札所と修行大師像

写真4-1-29 花へんろ一番札所と修行大師像

大師松の下露に、すでに歳月の苔の色さえおびられて(妙絹)。平成7年10月撮影

写真4-1-31 鎌大師賛歌を歌うこかきつばたコーラスの皆さん

写真4-1-31 鎌大師賛歌を歌うこかきつばたコーラスの皆さん

招かれて、老人ホームの慰問にも。見守る男性諸氏も真剣。平成7年8月撮影