データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

臨海都市圏の生活文化(平成7年度)

(1)生かされて生きる

 ア 縁日のお接待

 **さんの『遍ん路行(⑩)』は、次の書き出しで始まる。「私が幼い頃(大正の中ごろ)母はまだ暗い中から大豆ごはんをたき、大きなおにぎりをたくさんつくっていました。それを持って町はずれの川の袂(たもと)に茣蓙(ござ)を敷き、そこに坐って終日通るおへんろさんに、大豆ごはんのおにぎりを接待していた記憶が今も残っています。鈴を鳴らしながら通って行くおへんろさんを母の傍に坐って飽きもせず眺めていました。」
 「もろびつ(諸櫃か)へねぇ、大豆飯のおにぎりをいっぱい作ってねぇ。」と語り始めたお接待は、お大師様の春の縁日に、村はずれの橋のたもとでみた母の、お接待の姿であった。
 「クラボウ(紡績工場)の塀のところに杖大師(写真4-1-23参照)という庵(いおり)がございますが、あすこが北条の一番北の端じゃったんです、昔は。辺りは一面の湿地帯で、その道の向こう側に、木造の立岩橋(たていわばし)があったんです。橋がこれ一つですから、お遍路さんはみな通りよったんですね、この木の橋を。わたしが6歳ぐらいじゃなかろうかと思うんです。」
 「えぇ。お接待は、やっぱり習慣というか、大師信仰の気持ちの表れというか、春先きの、遍路の多いときです。『旧へんろ道』という道標(みちしるべ)があります。」と場所を教え、「昔は、どこでも、村はずれに道祖神(どうそじん)なんかを祭って、悪魔ばらいをしよりました。昔はねぇ、ホウソウ(天然痘(てんねんとう))の神様なんかが、とことこ歩いてくるように思うて、『ここからは、ホウソウの神よ、入るなよ。』と言わんばかりにね。」と、道祖神も祭られていたことに及ぶ。
 **さんによれば、四国遍路に出たくても出られない人々にとって、お遍路さんはお大師様であり、お遍路さんをお接待することで、自分も一緒に回らせてもらうという気持ちが込められていたのだという。定年退職してから、17年間四国遍路に出た**さんは、「わたしらが遍路するときは、杖が弘法大師です。宿へ着いたら一番先に杖の先を洗うんですよ。家へ帰ってきても、やっぱり、一番先に杖を洗います。乾かして、ふいて、袋に入れてのけとくんです。杖は弘法大師様じゃと大事にするんです。」と。一笠一杖(いちりゅういちじょう)の遍路姿を思い起こさせる。
 **さんは、作家早坂暁さんの店である勧商場に近く、早坂さんが小学校のころ、その学年のクラス担任をしていて、早坂さん本人をよく知っているだけでなく、父親の富田壷中さんを、鹿島を愛しシカを守った先輩として尊敬している仲である。ドラマ『花へんろ』で、店先に行き倒れの遍路があった場面のことをやり取りしているうち、遍路の悲しい旅立ちを知ることになった。こんな遍路もあった。
 「一度、瀬戸丸毛人さんに、捨て通行手形をみせられたことがあるんです。『本日、わたしとこの○○○○を遍路に出すが、万一行き倒れたときには、よろしく頼む。』という庄屋の書き付けでした。そしてね、「千人願」というて、近所の人から1文(もん)(文目(もんめ)-1両の60分の1)から2文の銭(ぜに)をもろうて出かけるんです。」庄屋の証明書と弔いの費用をいくらか持って死出の旅に出た話である。八十八か所を回って、わが村へ帰っても、わが家を横目にみながら、再び歩き始めるのであった。四国遍路に出て連続17年になる**さんも、箱車に母親を乗せた娘巡礼に出会ったが、家のない母子遍路は、ひたすら歩き続けるのだという。
 北条市府中を流れる河野川(こおのがわ)の河口近く、河野川橋の橋詰に、西ノ下(しののげ)の遍路松があった。

   この松の下にたたずめば露のわれ
   道の辺に阿波のへんろの墓あわれ
               (高浜虚子)

 高浜虚子(幼名池内清)が、8歳まで住んでいたこの地を訪れ、請われるままに、この松の……を詠んだ。大正6年(1917年)、虚子43歳のときであった(⑤)。
 そのとき、大松(おおまつ)(遍路松)の下にあった阿波(徳島県)の遍路の墓を思い出し、道の辺に……を詠む。
 昭和3年(1928年)、仙波花叟(かそう)らの懇請で建立された、虚子の句碑第1号は、地元の雄甲山(おんごやま)から切り出された柱石(はしらいし)に刻まれており、西ノ下大師堂の一角には、同じ柱石で作られた阿波の遍路の墓(写真4-1-25参照)がある。行き倒れた阿波の遍路の「哀れさ」が、虚子の心から消えなかった話である。

 イ 釣り名人は料理長

 北条市の遊漁船では、釣りたての、鮮度のよい魚を使った汁が振る舞われる。船釣りをするお客さんの楽しみの半分はこの船上料理にある。不思議なことに、同じ材料を使っても家庭料理ではどうしてもこの味が出ない。訳を尋ねても、「ようお客さんに聞かれらいな。」と笑うばかり、**船長にもよく分かっていないのである。
 米と野菜は、乗船人数に合わせて、わたしが持参するから、ほかの材料は決して混じることはない。違っているのは、海水で洗うことだけである。水は、一升瓶(いっしょうびん)に入れて、2本積み込んでいく。調味料は、市販のしょう油のみで、野菜はタマネギとジャガイモ(使わぬほうがよい)、ナスは持参しても、**さんは、塩もみにするだけで決して汁には入れない。豆腐は入れる。使う魚は、年間を通してホゴ(カサゴ)が多く、夏場にはギソ(ベラ)も混じる。**さんは刺身も得意で、注文すれば、いつでも「お造り」にありつける。これまた鮮度がよくて、分厚いのが何ともうまい。ホゴは、良型のものを使おうとしない(お土産に持ち帰らせる)が、心得ていて、適量をさばいているようだ。アオギゾ(雄のべラ、大型)の粗(あら)(刺身をとったあとの頭・骨など)を入れると、少し甘味が出るように思う。
 **さんは、ずーっと弁当持参である。小型の行李(こうり)のように、植物の茎で編んだ、通気性のよいものを愛用している。「炊きたての御飯で、一緒にどうぞ。」と勧めても一度も応じたことがない。船大工が振り出しと聞く**さんには、職人気質(かたぎ)のようなものがあって、自分のやり方を通している。
 熱心さといえば、昼食を準備する間も、船が揺れないように気を配りながら、網代(あじろ)(漁場)を流す。とにかく退屈をさせない。
 「お客さんは、慰みじゃけん。」とサービスに徹し、「わしも、頭ひねるんぞな。」と、その日の潮流とポイントを段取りするのである。
 昼食用の魚は船頭さんの責任であろうか、午前中は、ポイントの様子を見ながら一緒に釣るが、午後は糸を垂れない船頭が多い。釣らせることに専念するのであろう。ところが、**さんは一味(ひとあじ)違う。一所懸命に釣る。一所懸命に釣らせる。
 お客さんの糸が絡み合ったり、仕掛けを落としたりすると、よく船上を走ったものである。「まるで牛若丸(源義経の幼名)じゃな!」と何度か冷やかし半分に言ったことがあるが、それほどに身のこなしが早かった。「魔法の指じゃと、言うてくれる。」その手にかかると、いとも簡単に糸がほぐされるのである。歯は少し弱ってはさみを使うが、目は確かである。一度、過労で倒れてからは、走ることは控えるように言われている。
 **さんにはもう一つ、「米櫃(こめびつ)じゃーけんな。」という口癖がある。これで家族を養ったという意味である。
 米櫃の一つは網代のことである。山を立てて船を止めると、ピタリとポイントに当たる。メバル釣りでは特に、魚の付く岩にピタリと付ける。「口を開けて待っとった。」とか「目を覚ましとる。」とか言いながら、オエベッサンの笑顔になる。「米櫃じゃーけんな。」といって、「船頭は、ように頭に入れとかないかんのよ、網代をな。」と続ける。海底地形とその日の潮、(口には出さぬが)客の熟練度、などが頭の中を駆け回るという。狩猟民族であった祖先のDNA(遺伝子)が組み込まれているために、「獲(と)る」ことに夢中になるのはお客さんの常、「みんなを退屈さしたらいかんのじゃけん。」と笑う顔は自信に満ちている。
 もう一つは、家族を養った釣道具の話であるが、長い経験から、海底地形との兼ね合いで、道糸に独自のビシ(鉛)を打っている。手作りである。
 船長との、海の付き合いも20年を越えると、その人柄が何となく分かる。たまたま出会ったお客さんとの一日を、生涯ただ一度の出会いと心得ているようにみえる。手抜きをしない一日の接待の中で、山立てをする山々に感謝し、海の幸に感謝し、出会いの人々に感謝し、そして、元気で働けた一日を神に感謝するのである。山によって生かされ、海で生かされているとの思いが、日常のくらしの中で、**さんの熱い信仰心となっている。
 視力が十分でない老人も、2か月に1度は乗るという。えさを付け、魚を外す船長さんの、生き生きとした姿が目に見えるようである。

写真4-1-23 杖大師の庵

写真4-1-23 杖大師の庵

「御杖弘法大師 青面山養護院」とあり、御杖の由緒が書かれた奉納額の下に、四国八十八か寺参りを終えた杖がたくさん納められている。平成7年12月撮影

写真4-1-25 阿波の遍路の墓

写真4-1-25 阿波の遍路の墓

北条市柳原、西の下大師堂にて。平成7年10月撮影