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臨海都市圏の生活文化(平成7年度)

(2)お火舷祭と火事祭り

 「おかげん祭」の張り紙を河原津町内のつじでよくみかけた。『祭礼行事・愛媛県(③)』では、壬生川の鷺森(さぎのもり)神社の管弦祭(旧暦6月17日)と並べて、河原津の龍神社の火舷祭(旧暦6月11、12日)を紹介している。どちらも、地元では「おかげん祭」と呼ぶ。
 平成7年度大崎龍神社夏大祭にかかわる当組(とうぐみ)・当元(とうもと)の準備要領をみると、「おかげん祭(御管弦・御火舷)」と古い名称を並記しており、「お火舷祭」の呼称に、まだ遠慮しているようである。
 昭和57年(1982年)に、この夏大祭を取材した愛媛新聞の記事では、『月のない暗い海にとびかう火の行進、これにこたえるように浜辺でたくカガリ火』を、夏の夜をあやしくいろどる『民俗詩』とたたえ、**宮司(当時)の、『私流に火舷祭と呼ぶ』のを、言い得て妙としている。それほどに、暗い海を背景にした『火の舞』は、人々に感動を与えたようである。現在のお火舷祭を聞き取りながら、『火の舞』の復活を念じた。
 また、同じ『祭礼行事・愛媛県(③)』に、「風早の火事祭り」として、古くから北条市に伝わる国津比古命神社(くにつひこのみことじんじゃ)の、石段最上段から神輿を投げ落とす荒行事と、鹿島神社の神輿を、明星川(みょうじょうがわ)へ真っ逆さまに放り込む神輿みそぎが登場する。今回は、海辺の行事として、鹿島神社の秋祭りを、河原津のお火舷祭と対比して取り上げることにした。

 ア 海上の神輿巡幸

 **さん(東予市河原津 大正7年生まれ 77歳)
 **さん(北条市土手内 大正3年生まれ 81歳)

 (ア)大岩大明神と大崎お旅所

 『東予市誌(④)』によると、「昔、土民の霊夢に龍神女体にて大岩上に顕現し、覚めて後に岩上に一蛇あり(写真4-1-14参照)、驚き畏(かしこ)んで一社を設けこれを祀(まつ)る」と、大崎龍神社の由緒が述べられている。いわゆる磐座(いわくら)である。
 東予国民休暇村の本館から、裏の遊歩道を下ると永納山(えいのうざん)のりょう線に出る。尾根伝いにさらに下ると、細いうさぎ道がしめ縄を張った巨岩へ続く。7月8、9日(旧6月11、12日)のお火舷祭に張られた縄は色あせているが、直下に祭られた大岩大明神ののぼり旗は白い。山と積まれたさい銭は、多くの人々がお参りしたことを物語る。さらに下って、少し開けたところにお旅所がある(写真4-1-15参照)。『東予市誌(④)』には、かつての周桑郡と越智郡の境界が、龍神社の中央を通って海辺に至るとある。大岩の近くに神社を創建するとすれば、この場所をおいてほかにはないと思われるが、境内の両側は海に面した絶壁である。2m幅の道が北面を下って砂浜に通じる。お召船を降りた神輿がお旅所へ巡幸するコースであろう。
 1基の石灯籠(ろう)が、上部は台風にもぎ取られて建っていた。明和6年(1769年)6月と刻まれている。約230年前の古いものであるが、堂々たる構えは多くの信仰を集めた昔をしのばせる。大崎の龍神社は人家に遠いため、約300年前に現在地(河原津字居屋敷)へも鎮祭され、その後久しく両社ともに公認の神社であった(写真4-1-16参照)(④)。
 生霊の神として農民・漁民に絶大な信仰があった。「旧藩時代には桑村・越智・新居(にい)・宇摩(うま)四郡祈雨擁護(きうようご)の神と称した。松平隠岐守(松山藩主)の尊崇厚く、宝永・正徳・享保年間(1704~1735年)にわたり桑村郡代官を代参させ、文政(1818~1829年)・嘉永(1848~1853年)のころは、代官・郡中の庄屋などが雨乞いや遷座祭(せんざさい)に奉仕し、他郡・他領からも多くの寄進があった(④)」という。

 (イ)お火舷祭

 平成7年度大崎龍神社夏大祭実施要領をみると、次のような日程が示され、神輿の巡幸コースが分かる。

   〇第一日(新7月8日土曜日・旧6月11日)
    (1)例祭式典 12 : 00(全総代参列)
    (2)村内巡幸 12:30 本社宮出し、各注連組神楽(しめぐみやぐら)
            16:00 本社宮入り
    (3)海上渡御 18:00 本社宮出し、外港南岸よりお召船に御乗船海上巡幸
            19:30 お旅所宮入り


   〇第二日(新7月9口日曜日・旧6月12日)
    (1)初幟祈禱 10:00~12:00(本社)
    (2)海上還幸 17:30 お召船 外港南岸より出発
            18:30 お旅所宮出し、大崎鼻出発
                 海上巡幸後外港南岸より御上陸
                 お召車にて浜通り各注連組を巡幸し神楽
            22:00 本社宮入り

 神輿がお旅所へ向かわれるのが海上渡御(とぎょ)、大崎ヶ鼻のお旅所で1泊され、本社へ帰られるのが海上還幸(かんこう)である。宿泊・参籠の3名は、弁当・夜具(毛布など)・敷物(ゴザなど)は持参となっており、第2日の朝8時に交替することが、当組・当元の準備要領にある。
 12時の例祭式典に始まるお火舷祭は、日没のころを見計らって行われるが、元々、夜空を彩る「火の祭典」であった。
 祭りの案内をしてくれた**さんは、お召車による町内巡幸を見送りながら、かつての、にぎやかで荒々しい若者たちの祭りが懐かしいと言うのであった。河原津南組から、中組、北組へと神興を担いでつないだ。「(神興が)行こうとする、やるまいとするけんか祭りは男らしかった。あれが無うなってからは、寂しい祭りよなぁ。」と。
 実施要領の留意点にも、それらしきことが取り上げられ、周知徹底したあとがうかがわれる。すなわち、「(4)祭礼は神のものであり氏子のものである。お互に心して旧弊(へい)を除き盛大に執行せられるよう、特に下記三点に留意し協力する。○尊厳の維持(おごそかに)、○安全の確保(やすらかに)、○明朗皆楽(たのしく)」と記されている。神輿やだんじりの安全運行は、どこにもみられることである。
 それにしても、初めて見る海上渡御(写真4-1-17参照)は美しかった。太鼓を打ち鳴らしながら、手持ちのちょうちんをかざした道先案内に導かれて、港を出て行くお召船を波止の先端でお見送りした。お供船はなかった。
 「今は昔、なつかしの夏祭り!」と、**宮司さんが添え書きしたコピー(愛媛新聞 昭和37年7月14日付)が届いた。当時は、まだ周桑郡三芳町河原津とあり、東予市に編入される前である。これによると、「午後八時過ぎ、潮の満ちてくるとともに祭りの舞台は海上に移り、ミコシをのせた『お召し船』、これに続く『お供船』が暗い海を背景に『火の舞』を演じて祭り絵巻は最高潮に達した。」と記され、写真には、大漁のぼりをたて、ちょうちんを張り巡らして海上をねりまわるお供船、太鼓の代わりにドラムカンをたたき歌声高らかに気勢をあげるお供船の青年、大崎海岸で威勢よく神輿をかく青年たちが紹介されている。
 しかし、観衆の中で古老が、「わたしに言わせれば、優美、荘厳さがもの足りなくて、ちと味気ない。」と述べているところをみると、その昔とは、海上の祭り絵巻が変わっていたと思われる。優美で荘厳な河原津のお火舷祭。地元には復活の声も上がっているようだ。

 (ウ)鹿島神社の秋祭り

 **さんが「最も詩的で、わたしは一番好きです。」と絶賛するのは、北条市の鹿島神社の宮入りである(写真4-1-18参照)。
 北条港の中を左回りに3周して、先導船に続く2そうの神輿船(みこしぶね)とお供船が港を出る。
 対岸の鹿島はシルエットと化し、刻々と黒さを増していく。
 「9日の晩に宮出しをして、それからお旅所に今日までおいでたんよ。去年(平成6年)は海が荒れて、宮入りが1日延びたがな、今年は無事に島へ帰られたわい。」とつぶやきながら、古老がしばらく眺めていた。影絵のような鹿島と神輿船に見とれるうち、氏子でもないわたしの胸に、祭りの終わりを告げる寂しさが迫ってくるのを覚えた。
 送り火と迎え火を見なかったわたしを気の毒がるように、**さんはもう一度語って聞かせた。「そうです。こちらが送り火で、向こうが迎え火で、鹿島の方へ還御(かんぎょ)される(お帰りになる)ときに迎え火をたくんです。そのままず一っと、島へ着くころまでたいとるんです。わたしの一番好きなのは、神様が還御されるときに迎え火をたいて、たまたま、秋の夕焼けの真っ赤な中を帰っていく。逆光になっとるから暗いけれどもね。その光景が一番、秋祭りの中で詩的です。一番好きです。」と、声に力がこもる。
 神輿を先導する櫂練(かいね)り船は、胴の間ではやす鐘と太鼓のリズムにのせて、ホーオンエ、ホーランエとはやす。法衣(はっぴ)姿の少年二人がボンデンを持って船首に立ち、年長の長じゅばん姿の若者が剣櫂(けんがい)をきらきら光らせながら船尾に立って踊る(*2)。腰をくねらせての踊りは独得で、優雅で美しい。
 「ジャンジャンジャン」の半鐘の音も、ここではゆったりとしたリズムになる(火事祭りと呼ばれる理由)。
 森正史さんは、「櫂練り」を次のように説明している。「鹿島城主が河野水軍を率いて出陣したとき、鹿島神社の加護(かご)を得て連戦連勝した。がい旋に当たり、将士らは幟(のぼり)旗を翻(ひるがえ)し、太鼓・半鐘を打ち鳴らし、舷(ふなべり)をたたき、櫓(ろ)拍子をそろえ、櫂やボンデンを打ち振って戦勝を祝い踊ったのに始まる。(⑤)」
 また、森さんは、おはやしのホーオンエを「報恩会」の、ホーランエを「奉覧会」の意味としているが、これについては、少し整い過ぎるとして、「おそらく、漁船を操る掛け声から発生した、自然のリズムが固定したもの。」とする見方もある(⑤)。
 こうして、鹿島神社は、河野水軍の守護神・戦の神として信奉されていった。しかし、鹿島神社は、元々は漁業の神であり農業の神であった。

 イ 安全・豊漁祈願

 **さん(北条市土手内 大正3年生まれ 81歳)
 **さん(北条市柳原 昭和6年生まれ 64歳)

   御野立の巖や薫風二千年(霽月(せいげつ))

 **さんは語る。「鹿島神社の祭神が、武甕槌神(たけみかづちのかみ)で、房総半島の鹿島の御神体を勧請(かんじょう)したものですから、いわゆる武勇の神様と、そして、頂上の大きな岩に神功皇后(じんぐうこうごう)がお立ちになって、敵の軍船を御覧になったという伝説がありますので、戦(いくさ)の神様と申しておりますけどね。神社のしめ石(写真4-1-20参照)に刻まれた文句は、漁民の守り神・農民の守り神を示しているのです。向かって右に、潜龍随時(潜龍(せいりゅう)時に随(したが)い)、左に、游雷應期(游雷期(ゆうらいき)に應ず)とあります。瀬戸丸毛人さん(本名清学、鹿島をこよなく愛した人、7年前に死亡)から聞いて、今でも覚えております。」と。
 北条市辻町の商店街を北進すると明星川に突き当たる。その界わいには、今でも銀行の支店や早坂暁の『花へんろ』の舞台となった勧商場(かんしょうば)などの商店が並ぶ。瀬戸丸毛人さんは、「提灯並に神佛葬具」を商っていた。自ら興した「伊予農業銀行」の北条支店へ来ていた村上霽月とは早くから俳句の交流があった。古今の漢詩を味読して、そのイメージを句に表現する「転和吟(てんわぎん)」の新風を開いた霽月(⑥)が、あるとき毛人さんに、「おまい、戦(いくさ)の神というけれども、漁民と農民の神様じゃがや。」と言った。そのころ、毛人さんは、亥(い)の子旗に漢字を染め抜く仕事もしていた。大正3年生まれの**さんがこの話を聞いたのは子供のときであるが、それ以来、「潜龍随時・游雷應期」は、**さんの頭にインプットされている。
 古来、龍神は水の神、漁業の神とあがめられ(⑦)、雷神は実りを約束する農業の神として祭られてきた。
 **さんは、一本釣りの漁師になって、もう40年になるが、最近は釣り客が増えて遊漁船を操る日が多く、今も柳原漁業組合のお世話をしている。
 「あの龍宮はんは沖の方を向いとってな。」という龍宮神社の祭礼は7月6日であった(写真4-1-21参照)。
 昭和8年(1933年)に柳原港が改修されるまでは、高山川(たかやまがわ)の河口のこの辺りは一面砂浜で、「ず一っとカヤが生えとってな、沖へ遠浅になっとった。」という。
 「昔は、広島県の家船(えぶね)もちょいちょい泊まりよったなぁ。子供も乗せて、ここで食糧を調達もして出て行きよった。」いわゆる漂海民の寄港地である。また、港の北端から山へ向かう道路は、道幅は広くないが、国道196号を横切って高縄山へ通じ、山頂の高縄寺参拝コースになっている。斎灘(いつきなだ)に浮かぶ島や対岸の漁村から大勢の信者が昔から訪れ、柳原港へ降り立ったのである。
 長い間母親を介抱した**さんは大変心の優しい人で、一度この船に乗り込むと、その人柄にほれて付き合いが続く。お陰でこの20年間、潮のよい日は予約があって乗船できぬことが多い。「お客さんは慰みで来るんじゃけん。」と、一所懸命に釣らせる**船長は、殺生の罪滅ぼしか、はたまた豊漁の感謝か、大変信心深い人でもある。
 「昔の龍宮はんの日は万才(まんざい)もあって、にぎやかにしょったわい。」と言うように、この辺りは風早万才の本場である。「昔から芸者の家はなあ、代々(万才が)続いとるがなぁ、わしはその趣味がないので、どっちかというと嫌いで。」と、シーンとした神様(の信仰集団)の方が好きだと言う。「神様は怒らんけんね、信心は(心が)朗らかになるけんね。」と、争い事を好まぬ**さんらしい言葉である。祭礼の当日は古式にのっとり、柳原の町役員も列席して、厳かに執り行われた。
 柳原港の入り口に三穂神社(写真4-1-22参照)があり、この氏神様を地元ではオエベッサンと呼ぶ。寛政年間(1789年~1801年)に勧請されたといわれるこの神社は大国主命(おおくにぬしのみこと)、事代主命(ことしろぬしのみこと)とともに蛭子(えびす)神が祭られている。柳原の漁民にとっては、1月11日の地祝い(現在は1月15日)が、1年の安全と豊漁を祈願する祭礼である。「柳原」の地名は古く、『二名集』の柳原村に始まることが境内の地名誕生之碑に刻まれていた。観応4年(1350年)、今から645年前のことである。
 **さんの釣りには、いくつかの口癖がある。「目ぇ一覚ましとる!」、「来たっ、来たっ!」は笑いながら小声で、「釣りはオエベッサンじゃけん!」は心から笑いながらである。このオエベッサンには深い意味があって、餌をとられて空(から)ビシで糸をあげたり、魚を取り逃がしたりして不機嫌な顔をする客に、心をおおらかにして、にこにこと楽しく釣りましょうと、船長の願いが込められているのである。
 『渚の民俗誌(⑧)』の中に、伊豆大島の漁村で調査した「祈りを込める言葉」がある。「トー、エベッサマ」、「釣らして下さい、エベッサマ」はマグロ延縄(はいなわ)の時に、「ツォー」、「トー」、「ツィ」はムツの時に漁師の口から出たという。また、秋田県の男鹿半島では糸にツツとつばをかけて「エブス!」と叫んでから糸を投げると出ている。
 『宇和海と生活文化(⑨)』にもエビス信仰に関する記事がある。太平洋といわず瀬戸内海といわず、漁業信仰の「オエベッサン」が共通に出てくるわけで、えびす顔をした**船長の口から出るのが面白い。わが家の神棚にえびす様を祭り、沖の船でえびす様に成り代わる。そんな**さんに思えるのである。


*2:ボンデンは、1.55mのメダケに紅白の布を巻き、頭には五色の布を束ねて着けてある。また、剣櫂1.25mは木製で剣と
  柄でできており、両方の付け根の、紺紙の縁取り以外は金紙がはられている。

写真4-1-14 大崎ヶ鼻の大岩大明神

写真4-1-14 大崎ヶ鼻の大岩大明神

龍神女体が顕現したとされる磐座。平成7年10月撮影

写真4-1-15 大崎ヶ鼻のお旅所

写真4-1-15 大崎ヶ鼻のお旅所

大正14年までは大崎龍神社として祭られた。平成7年10月撮影

写真4-1-16 河原津字居屋敷に合祀(ごうし)されている大崎龍神社

写真4-1-16 河原津字居屋敷に合祀(ごうし)されている大崎龍神社

夏大祭当日、境内は昔ながらの屋台店でにぎわう。平成7年7月撮影

写真4-1-17 お火舷祭の海上渡御

写真4-1-17 お火舷祭の海上渡御

河原津漁港を出て、約3kmを海上巡幸し、お旅所へ。平成7年7月撮影

写真4-1-18 鹿島神社の宮入り

写真4-1-18 鹿島神社の宮入り

お召船が港を出る。鹿島の背に夕日が沈む。陸の送り火にこたえて鹿島で迎え火がたかれる。平成7年10月撮影

写真4-1-20 鹿島神社のしめ石

写真4-1-20 鹿島神社のしめ石

漁業の神、農業の神を祭ったあかし。平成7年12月撮影

写真4-1-21 柳原港の龍宮神社

写真4-1-21 柳原港の龍宮神社

昔は沖の方を向いていた。平成7年7月撮影

写真4-1-22 三穂神社

写真4-1-22 三穂神社

オエベッサンの名で親しまれている。平成7年7月撮影