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臨海都市圏の生活文化(平成7年度)

(2)浜辺に寄せる思い

 ア 子供の遊び

 **さん(東予市三津屋南  大正7年生まれ 77歳)
 **さん(越智郡大西町新町 明治44年生まれ 84歳)
 水墨画や押し花などを指導しながら趣味に生きる**さんは、「60年余り前になりますが。」と前置きして、北条新田(東予市)から桜井(今治市)にかけての、海の遊びを語ってくれた。よく出かけたのは高須海岸(東予市)のようで、泳ぎ疲れると干潟でよくアサリ掘りをした。大きなハマグリが見つかると大喜びをした。そのころは、高須の砂浜にはカブトガニの大きいのや小さいのがたくさんいて、「男の子は、しっぽを持って、腹返しにして面白がっていましたけど、わたしたちには気味が悪く、半分は恐ろしく思っていましたね。ガメゴーラ(亀甲羅(かめこうら)の転か)と呼んでいました。」と、カブトガニの印象が強い。
 貝掘りは、近くの北条新田沖へ行くことが多く、バカガイ・ドべガイ・マテガイなど、いろいろの貝がたくさんおったという。「引きがまで引くと、貝がよく出てきましてね、時にはクルマエビが跳ねて、歓声が上がりました。」と顔を紅潮させる。マテガイは、女の子でもとれたようで、「目と言っていましたが、卵形の小さい穴がマテガイの住みか、塩を入れてやると、とび出してきます。すぐとらないと、引っ込んでしまいますので。」と、手を焼く場面もあった。「マテ串(ぐし)と言って、もどり(返しかぎ)の付いた串を差し込んで、たやすくとる人もいました。」と言うように、自転車のスポークで作った串で、マテガイを何十匹もとった話を耳にした。
 どちらかといえば、箱入り娘で育った**さんであるが、子供のころは意外に自然体験が多く、八重簀(やえす)漁で魚をとった後の「あとざらい」や、冬季の「拾いノリ」もしている。海が近く、遠浅を遊びの場とした子供たちの付き合いでもあったと思われる。
 さらに、桜井石風呂について、「大きな穴の中で、シダなどをたくさん燃やして。」と思い出を語る。3歳年長の「お姉さん。」と呼んだいとこがいたので、伯父伯母の家族と一緒の4、5日泊りの湯治である。大人は骨休めの、子供は風邪引き防止の石風呂であった。
 **さんは今は大西町に住んでいるが、長沢(今治市桜井)に生まれ、少年期には桜井海岸一帯が夏季の活動範囲であった。
 「海岸がやせましてね、沖で砂をとるもんですから。だから、コンクリートを打ちましてね、海岸を護っとるんですよ(写真4-1-6参照)。わたしらの子供の時分には、ずーっときれいな砂浜が続いていて、こんな防潮堤なんかはなかったんです。波止はなかった。」
 潮干狩りのことを尋ねると、楽しそうに昔を思い出して、「干底(ひぞこ)になりますとね、ずーっと沖の方まで行けましたね。そして、貝がとれたんですよ、バカガイがね。こう(つま立って歩く所作(しょさ))……つま先に当たりましてね。」長身の**少年が、あごまで潮につかった姿を想像するのであった。キサゴやアサリのことには触れず、すぐに、魚釣りの話になったところをみると、じっとうずくまって貝をとるよりも、行動的で活発な少年だったようで、河原津でチヌムシをとって石風呂へ引き返した陸(おか)釣りの話になった。
 「あのね、チヌムシ言いましてね、赤い(ゴカイ)、あれが一番ええんです。掘ってとるんです。それからね、足で踏んで、テジロという小さいエビをとるんです。」と、内緒で教えてくれるしぐさをする。
 テジロというエビの仲間は、粘土の中へ穴を掘って隠れ、潮が満ちてくると出てくる。
 「引いたら干潟になるでしよ。粘土を足でドンドン踏みよりましたら、出てくるんですよ、テジロが。干潟の潟という字は即ち粘土ですからね。河原津の海岸は大きな干潟になりよったんですよ。」と、えさ場としての河原津を話す。シャク(小型のシヤコ)などの、大型のえさはタイ釣りなどには使うが、小魚をねらう子供にはチヌムシが最高で、テジロはすぐにとられるので好まれなかった。
 医王池(蛇越池(じゃごしいけ))を経て桜井石風呂の砂浜へ出ると、ギザミ(ギゾーべラの仲間)やニゴザが釣れた。ニゴザのことをションべゴチとも呼んでいた。
 プロの釣り人たちは、その土地でとれるえさが一番良いと言う。それは、桜井~河原津の海岸という一つの生態系でも同様で、時間をかけて形づくられた食物連鎖の一面であり、いかに精巧な疑似ばりも、ほかの環境で育ったえさも、「地のえさ」をしのぐことはできない。
 潮干狩りのメッカと呼ばれる東予市の干潟では、かこう岩が風化し、大明神(だいみょうじん)川などの河川で運ばれた砂が、粘土と適当に混ざり合って、多彩な生きものたちの住みかになり、水や温度などの、ほかの要因とともに、貝類にとってすばらしい環境を保ってきた。しかし、昭和51年(1976年)の17号台風を境にキサゴが姿を消し、干潟に変化がでてきた。

 イ 沖を耕す

 **さん(東予市大新田 昭和4年生まれ 66歳)
 **さん(東予市大新田 昭和6年生まれ 64歳)
 豊貝突堤(ほうかいとってい)(写真4-1-7参照)と名付けられた防波堤が、1号・2号・3号と沖へまっすぐに伸びる。大曲(おおまがり)川河口の左岸延長線上にあり、突堤の1基が600mというから、沖合に向かって約2km突出することになる。
 「1号突堤の端から、少し控えて。」と**さんが言う沖合までが、アサリの漁場であり、ノリ養殖のコバ(漁場区画)になっている。豊貝の文字が、いかにも貝漁業の本場を思わせるが、**さんたち壬生川(にゅうがわ)ノリ養殖漁業者にとっては、命懸けで取り組むノリ漁場である。
 今年(平成7年)の4月の大潮は月末。「4月29日(みどりの日)が、人出も多いし、来てもろてもお土産があろう。」と連絡がとれた。堀江の貝掘り名人**さんたち3名に同行して、初の壬生川遠征を試みた。
 干底は午後5時半であるが、「2時ころまでに来てほしい。」と言われていた。3時間も前に現地へ着く必要があるのかと半ば疑問に思ったが、遠浅へ出てすぐに謎が解けた。遠浅が、とてつもなく沖へ広がっていたのである。あいにくの小雨であったが、1号突堤を歩いて沖へ出た。あちこちに場所を決めて、50人ほどの入漁者がアサリを掘っていた。思ったよりも砂泥地が黒い。足場に気を付けて突堤を降りる。突堤に使われた、石は大きく、足場が遠い。大島石や庵治(あじ)石(香川県)の廃材だろうと勝手に解釈しながら、カキ殼の付着したところを避けて降りる。突堤の基部は砂泥が黒ずんでいるが、少し離れるときれいな砂になる。コバの北西部に流れ込む新川が運んできた砂粒が、放射状に広がって、突堤まで到着したものと思われる。
 見れば、**さんはゴム製の胴靴(どうぐつ)の上から厚めのかっぱを着て、ひざの上まで潮につかって「しゃくり」を引いている。ここと思う砂泥地を引いては、横に揺さぶって、泥を落としている。「しゃくり」の先は、約40cmほどの鉄製の千歯になっていて、掘った泥がアサリともども金網に入る。泥を落とせばアサリが、死んだ貝の貝殼と一緒に残る。3回繰り返すと、ポリバケツ(中型)の3分の1くらいとれる。「けんど(ふるい)にかけたら、小さい貝は(その場所に)残るけんな。」と言うだけあって、**さんがとるアサリは大きい。やがて100人ほどに増えた人数も、広い遠浅ではまばらに見える。潮が引くにつれて沖へ沖へと人は動くが、**さんはそのさらに沖へ出る。潮はまだ引き続けているので、1時間余りはアサリが掘れると言う。1号突堤600mの先端近くまで続く漁場へ、作業船が船外機の音をたてて出入りする。突堤の接続部は、風や砂を防ぐ造りで、しかも、小型の作業船は通行可能になっていた。船は、大曲川河口の両岸に係留してあり、ノリ作業船は四角ばっている。両岸のコンクリート護岸には、ノリ網を一面に並べたままにしてある。船も網も潮には強い。
 5月末に訪れた二度目の聞き取りでは、**さんとも話ができた。御主人の話を聞く**さんは、裁縫の手を休めなかった。居間に飾られた七福神や色紙の説明を聞きながら、ふと**さんの手を見ると大きな手だ。「貴乃花の手型もいいが、自分の手型も押しておかねば。」と言うのへ、「手のことと頭(毛髪)のことは言いなさんなよ。」と**さんが口出しして大笑いとなった。本当に働き者の手である。「わたしの手は反対にこんなん。」と差し出した**さんの手は白く小さい。「これは苦労を知らぬ手よ。」と言うのを、**さんはにこにこしながら「苦労したんよ。」と、奥さんをかばうのであった。
 高須海岸から大新田の富士紡地先までは、貝漁業も壬生川漁協の管轄下にあり、アサリとりの入漁料は500円である。それだけアサリがよくとれる。河原津では、12月に稚貝の放流をすると聞いていたが、大新田では放流しない。
 「干潟の沖をブル(ブルドーザー)で押すんです。9月のノリの種付(たねつ)けの前に。沖の泥を混ぜるのがえぇのか、アサリがわく(たくさん発生する)んです。ここのところアサリの種が切れん。」とおっしゃる。同じ東予市の浜ではあるが、北の河原津と南の大新田では事情が違う。
 もっとも、ブルで砂泥を押す作業は、アサリのためにやるのではない。「ノリ場の砂地は高い所と低い所の段差がひどいんでね、杭打ちするタケでも普通14尺(約4.2m)じゃけど、12尺から16尺くらいまでの差がでてくる。高い所(浅い所)は種付きもえぇんじゃが、低いとアオノリが付いたり、種付けが具合いようにいかんけん。」そこで、ブルで砂地をならすのである。その結果、溶存酸素量が増えてプランクトンの発生をうながし、アサリにとっても環境が好転するものと思われる。大新田の沖の、アサリが多かったり、大きかったりするのは、ここに起因するのかも知れない。
 環境によって殼の色が変化するようで、大新田のアサリは模様が黒味を帯びているが、大型で味も良好である。
 それにしても、干潟の沖にブルドーザーが入るまでに、養殖漁業の変容した一面を知って、感慨深いものがあった。

写真4-1-6 桜井石風呂の浜

写真4-1-6 桜井石風呂の浜

防潮堤で砂の移動を防ぐ。平成7年7月撮影

写真4-1-7 豊貝突堤とアサリ漁場

写真4-1-7 豊貝突堤とアサリ漁場

まだ引き揚げていないノリヒビが立っている。ヒトは沖の方に点在。平成7年6月撮影