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臨海都市圏の生活文化(平成7年度)

(2)ソラマメは旬の味、故郷の味

 ソラマメは暖かい松山平野においては、古くから作られ近郊のどこの農家も自家用として植えられていた。また松山の人々は薄い緑色のこの豆を見ると、夏の到来を身近に感じたのである。この時期、ソラマメの幹はつぎつぎと上方に花をつけていき、その下には天に向かってさやがついている。このさやは下方ほど大きく、実るに連れて頭を垂れる。この実が熟さぬうちに摘み取り、塩ゆでにして食べる。おはぐろを着けたものは、少し硬いが、薄い緑の豆は柔らかくて甘い。旬の味、忘れることのできない故郷の味ということができる。

 ア 城北は一寸蚕豆の本場

 「ソラマメは昔から水田の裏作として作られ、水気の多い土地に適しますが、連作障害を起しやすいため5年に一作が普通です。特に種豆作りは収入も大きいですが、手間も要ります。
 昭和30年(1955年)ころですが、山越地区蚕豆生産組合を設立して、種豆の生産から販売まで全ての業務を引き受けて、全国各県(太平洋岸の鹿児島から千葉の温暖な県)へ売り込みに行っていたのです。その後、もう20年も前になりますが、松山市から当地区をはじめ城西地区を含めて、蚕豆生産に対する助成を受けることになりました。その申請書に他の地域も含めて『清水豆』の名称を全般的に使ったのです。その後、うちの組合に県外の売り込み先を尋ねてきよりましたので、教えたところ、なんと、むこうさんが、うちより先に清水豆ということで売り込みに、行ってしもうとるんよ。こっちが売りにいくと、『もう、清水豆を買うたがなー。』と言うんで、ヨイ、ヨイ、ということになり、ように尋ねてみると、お城の西の地区が、一足先に、売りにいっとるんですわい、あのときは、ほんとにまいってしもうたもんですわい。
 しかし、『清水豆』の本場はやはりこの地区です。ここの花こう岩質の堆(たい)積土が最適なのです。この山越、清水地区でソラマメやエンドマメを作ると、年々実が大きくなりますが、お城の西地区やその他の地区では、1年目は大きくても2年目から小さくなってしまうのです。そのため、ここの種豆を買ってでも、大粒の豆を作るようになっていったのです。
 この地域で硬く実の入った小粒のソラマメをハジキマメと言いますが、山間の久万山(くまやま)や中山地方で、ソラマメを作っても2年目から小粒になってしまいます。しかしその小さい種を用いてここで作ると、5年目には、清水豆と同じような大粒になります。子供のときには、これを炒(い)り豆にしてもらって硬いのをかじったものです。『清水一寸』は、『お城の見える所でないと、いいものができない。』と言われたのですが、温暖な地域ではどこでも栽培できます。しかし、種子用は城北のこの地区でないと、年々小粒になっていくようです。」

 イ 蚕豆を作り続けて

 「昨年平成6年(1994年)の田植えころ(6月下旬)、千葉県の房総方面へ旅行をしたのですが、この時期に青ざやをかなり作っているのを見かけました。昔はこの地域でもよく種豆が売れたものです。どことも豆を取ったあと田植えをして、秋の取り入れ後の10月中下旬に冬作のソラマメの作付け(まきつけ)をしますが、松山平野では10月20日ころが最適期とされています(写真3-3-24参照)。この時期にまくと、徒長(とちょう)せず、風倒も少なく結実がよいのです。冬作で1日の遅れは、実るのが7日遅くなると言われ、これが市場価格に大きく響きます。はしりのソラマメは、並の約3倍の高値で取り引きされるのです。
 ソラマメは2月に開花しますが、寒さや霜にあうと花が落ちてしまうので、工夫が要ります。わたしは、ヤロビ農法(ソ連の育種学者ルイセンコの提唱した植物処理の方法。秋まき作物の種子を催芽して低温処理を施し、春まいて結実させる。)により低温処理を施した種子を用いて、寒害や風害を避けながら栽培しています。この方法は至って簡単で、家庭用の冷蔵庫の野菜室(7℃で)へ、蒔(ま)き付け前の種子を約20日間冷蔵するという簡単な処理法なのです。これで寒い時期を避けて栽培し、一足早くはしりの出荷もできるのです。旬の時期に、1日でも早く出荷すれば、高値での取り引きにつながります。いくら松山産の早生(わせ)(早出し)といっても、暖かい鹿児島産、次いで宮崎産には、太刀打ちできません。早いものは2月上旬に、一月遅れで宮崎産が東京市場へ出てきます。ここ松山の山越地区ではソラマメが花盛りのころです。
 鹿児島・宮崎の両県へ、清水一寸の種子を売り込みに行ったこともありますが、粒が大きく、味もよいのはわかっているが、樹勢の強い『綾西』を作っているからということで、売り込みに失敗したこともあります。
 青ざやは5月中に収穫しますが、種子用は、梅雨が明けてからです。充実してくると、さやが黒色になってきますから、乾いている日を見計らって取り入れ、カビがこないように注意しながら、乾燥を十分にして脱粒し選別します。全て真夏の手作業ですから大量に生産することができないのです。ここで選別からもれた小粒のものや、硬く実ったものが、雑穀として扱われるソラマメであり、ここいらでいうハジキマメなのです。」
 この実の入ったソラマメが保存備蓄される穀類としての豆である。このソラマメにも、地方によってくらしの知恵として受け継がれたさまざまな食べ方がある。香ばしくいって、保存食やおやつにし、煮豆にし、潰(つぶ)してお餅のあんにする。讃岐(さぬき)(香川県)には醤油(しょうゆ)豆がある。飽食の時代、美食の時代と言いながらも、少年時代のなつかしい思いに駆られる人も多いのではないだろうか。
 司馬遼太郎著『坂の上の雲(⑯)』の一節に、明治期の伊予の先人、秋山真之(日本海海戦における聯合艦隊の名参謀)がソラマメのいったのを、絶えず噛(かじ)っていたことが述べられている。
 「………真之はヨーロッパでも艦隊勤務でも、いつも煎(い)った空豆を上衣のポケットに入れていたし、こんど東京にもどって軍令部へゆくときも、ポケットを空豆でふくらませて、噛りながら歩いている。つい最近も、『三笠』の艦上から母親にだした手紙の末尾にも、『腕豆及空豆、二三斗(1斗は約18ℓ)計リイリテ御送被下度候』とねだった。煎り方はどうも、母親でないとうまくゆかない……。」
 清水豆(空豆)によせる城下への郷愁とともに、末っ子、真之の老いた母親へよせるほのぼのとした心情がしのばれる。
 その名産ソラマメと種豆の行方について、**さんは「種子用清水一寸の売り込みには8月ころに行きますが、売値の目安は青ざやの市価の約10倍プラスα(アルファ)です。αはその年の気候によるでき具合いで定まります。山越蚕豆組合の値が決まれば、他の組合の値も決まります。しかし、近年は『綾西』など他県産の品種に押されて、他の野菜を作った方が収入がよくなってきています。農地も減少してしまって農家も蚕豆栽培の意欲を失ってきています。農地の面積からみても、いつまで種子用の蚕豆が、この地区で作られるのでしょうか…。と言って皆無になることは絶対ありません。関係機関からの厳しく温かい指導と助言もありますが、清水豆を生産してきた一農家として確信をもって言えることは、名産の『清水一寸蚕豆』は、絶えることなくこの地区で受け継がれていくということです。高品質、良品化を望む今のくらしの中にその兆しがほのかに見えてきています。」

写真3-3-24 真冬に育つソラマメ

写真3-3-24 真冬に育つソラマメ

松山市の郊外にて。平成7年12月撮影