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臨海都市圏の生活文化(平成7年度)

(2)伝統文化は今

 ア 伊達家ゆかりの茶道

 **さん(宇和島市妙典寺前 大正7年生まれ 77歳)
 鎮信(ちんしん)流(石州(せきしゅう)系)は宇和島の伊達家ゆかりの茶道である。旧宇和島藩主伊達宗徳(むねえ)(9代)の四男武四郎の妻が旧平戸藩主松浦詮(あきら)(心月)の娘冏子(けいこ)であり、その松浦家は代々鎮信流の家元であったからである。『愛媛県史(⑥)』では「このような関係から、宇和島の伊達家より石州流が拡大していった。宇和島高等女学校の正科にも取り入れられ、次第に南予地方に発展していった。」と述べている。流祖松浦鎮信(しげのぶ)(江戸時代前期の肥前(ひぜん)国平戸藩主)は、片桐貞昌(さだまさ)宗閑(江戸時代前期の大和(やまと)国小泉藩主 茶道石州流の開祖)に茶の湯の指南を受けて一流(鎮信流)を創始した人物である。

 (ア)女学校と茶道

 『日本芸能史(⑦)』によれば、「明治41年(1908年)5月13日省令第20号をもって文部省は、高等女学校の科目中に『文部大臣ノ認可ヲ受ケ、随意科目トシテ土地ノ情況二依り必要ナル学科目ヲ加フルコトヲ得』と省令を改正し、諸芸を高等女学校の随意科に加え正規の教育課程に置くことを認める。その結果、茶儀・挿花・琴曲を随意科に置く女学校が次第に増加した。」という。愛媛県立宇和島高等女学校沿略誌には「明治41年度9月1日第三、四学年希望者二放課後茶儀及挿花ノ教授ヲ開始ス。」と記されており(⑧)、同校に茶道が取り入れられたのは、ちょうどその明治41年の2学期からであった。当時、茶道は科目としては「茶儀」と称せられていたようだ。その時茶道の教師となったのが、伊達家に仕え、松浦詮(心月)より鎮信流の茶の湯の伝授を受けた尾本行寛(おもとゆきひろ)(杉月(さんげつ))(明治12年~昭和43年〔1879~1968年〕)であった。以後昭和24年(1949年)3月まで同校に勤務し、その間、宇和島実科女学校(後の愛媛県立鶴島高等女学校)でも教えていたというから、長年にわたり、実に多くの宇和島地方の女学生に茶の湯を教えていたことになる。**さんも宇和島高女在学中彼に教えを受けた一人である。
 「当時女学校では茶道は正科でした。お茶かお花かどちらかを選択するようになっていて、欠席は厳しくチェックされました。成績はでませんでしたが、卒業時に茶道を修得したという証明書が交付されました。それには、石州松浦鎮信流となっていますが、昔は石州として習ったので、古い卒業生は石州、石州といいます。もちろん現在は鎮信流です。尾本先生は宇和島に茶道がまだ根付いていないころに茶道を広めた人です。先生は、伊達家の当主が宇和島に帰ってこられたり、よそから偉い方が来られたりしたときなどには、もてなしのさい配を振るった人でした。昔は、若い娘さん(女学校の卒業生など)が花嫁修業として先生からお茶も含めて行儀作法などを習っていました。仙台平(せんだいひら)(上質の絹袴(はかま)地の一種)の袴をきちっとはいて、シャッ、シャッ、シャッと音を立てて歩いておられた先生、気に入らないとき、黙って扇子でトントン畳をたたいておられた先生のお姿など今でも思い出します。」
 尾本行寛は晩年宇和島市宇和津町の金剛山大隆寺に身を寄せていた。そのころの思い出を宇和島高女の卒業生河野ハツキさんは次のように書いている。「金剛山寺にてご臥(が)床の折、時々お見舞に伺った。先生はご記憶がよくて『何期生のだれだれが来て下さった。だれだれは元気だろうか』と卒業生の名前から何期生のことまでよく覚えていて下さったのには感心した。昔の生徒が忘れずに訪ねてくれることがとても嬉(うれ)しそうでした。先生のご好物は、と伺いますと、梅干を食べない日はないと申されますので、沢山家に有りますから、と一壷(つぼ)持参すると、大変お喜び下さいました。茶道一筋に生きてこられた此(こ)の地方のただ一人の茶祖として道を残された貴い先生でした。(⑨)」
 尾本行寛は昭和43年1月17日死去、享年90歳。大隆寺の伊達家7代藩主宗紀(むねただ)の墓所の脇(わき)にある尾本家の墓地に眠っている。

 (イ)伝統を守る

 **さんは、尾本行寛が広め、**さんの母が受け継いだ茶道鎮信流の師範として宇和島地方の茶道の伝統を支えている。
 「わたしの母も宇和島高女在学中に尾本先生から茶道を習いました。母は、来村(くのむら)(宇和島市)の小学校の教員だったころ青年学校の兼務となり、裁縫などだけでなく昔習ったお茶も教えたいと思ったのでしょう。恩師尾本先生を訪ねて自分の考えを話し、再びお茶を習うことになったようです。女学校で習ってからすでに久しいのに、よく覚えていて、間違いなくお点前(てまえ)をして先生にほめてもらったと喜んでいました。昼間は小学校、夕方からは青年学校、そして茶道の修業とそのころの母はたいへんだったと思います。そのためにわたしは、小学校3年から炊事、洗濯をさせられました。母は退職後尾本先生に頼まれて長い間女学校の茶道の指導を手伝っていました(後に尾本行寛の後を継いで女学校の茶道講師となる。)。わたしは、宇和島東高校の茶道部の指導を昭和43年(1968年)から20年間続けました。お茶のけいこに来る男子生徒のお行儀がよく、言葉遣いも丁寧だったことが強く印象に残っています。鎮信流のお点前は男の方に似合うような簡潔で無駄がなく、すっきりしています(鎮信流は武家茶と言われる。)。女学校の古い卒業生はこのお点前が懐かしいと言います。先般も茶会を開きましたが、昔の卒業生に大変喜んでもらいました。余剰金はわずかでしたが、阪神・淡路大震災のお見舞いとして送りました。また、年1回金剛山大隆寺で『お祭茶式』を行っています。流祖をはじめ歴代のお位牌(いはい)の前で法要と献茶を行うのです。この行事は尾本先生によって始められた伝統のある行事です。」
 **さんは、流派の勢力拡大という意図からではなく、尾本行寛以来の宇和島の茶道の伝統を守り続けようとして、各高校の茶道部の指導にも心を配っている。現在、宇和島東、宇和島南、津島、吉田、北宇和の各高校の茶道部はいずれも鎮信流である。特に宇和島南高校では、明治41年以来の茶道の流れが受け継がれてきた。同校茶道部講師二宮信子さんは、「本校の茶道の伝統を誇りにして生徒たちの指導に当たっています。」と語っている。生徒たちもこの歴史の重みをかみしめていることであろう。

 イ 松山藩の能・狂言の伝統

 能楽は江戸時代には武家の式楽となり、松山藩でも初代藩主松平定行のころから能が催されていたらしい。流派については、「幕府が観世(がんぜ)流を筆頭としたので松山藩は遠慮してシテ(能・狂言の主役)には喜多流を採り、ワキ(シテの相手役)下掛宝生(しもがかりほうしょう)流、大鼓(おおつづみ)(「おおかわ」)葛野(かどの)流、小鼓幸(こう)流、太鼓観世流、笛森田流、狂言大蔵流八右衛派とした。(⑥)」という。藩能は、明治維新(1868年)によって大きな打撃を受けたが、関係者の努力によって近代社会の中で新しく生まれ変わっていく。その中で、喜多流、下掛宝生流などの伝統が今日まで受け継がれてきたのである。

 (ア)東雲さんのお能

 **さん(松山市丸之内 昭和13年生まれ 57歳)
 東雲(しののめ)さんのお能として親しまれている東雲神社の神能(しんのう)の始まりは、「明治維新後旧藩主の東京移住の際、三ノ丸舞台所属の能面・能装束が払い下げられることになり、散逸を心配して歌原良七(うたはらりょうしち)、池内信夫(いけのうちのぶお)らが中心となって払い下げを受け、その資金調達のため演能団を組織して活動した。その後演能団の運営が困難となり、払い下げ代金の残額棒引きの代わりにそれらを全部東雲神社へ寄付、久松家も東京へ持参した能面・能装束など、一部は青山御所に献上したが、残りは同神社へ寄付した。味酒(みさけ)にあった能舞台(一説には城中の能舞台)も同社本殿北側に移築され、久松家から若干の演能料も下賜され、毎年1月3日の松囃子(ばやし)と春秋2回の神能が始まった。(⑥)」という。明治7年(1874年)ころであったらしい。
 東雲神社の宮司**さんは次のように語っている。「松囃子(舞い初め)は藩政時代からの神事ですが、能もまた社殿に仮舞台を造って神楽を奉納するような形で行われていたようです。御祭神(藩主)が生前能を演じておられたので、お慰めするのによかろうということだったのでしょう。松山藩にはニノ丸、三ノ丸に能舞台があり能が盛んに演じられていましたが、明治維新後、能面、能装束など当神社に奉納され、舞台もこちらに移り、春秋2回の神能が始まったといいますから、藩能の伝統が神能によって受け継がれたといえるでしょう。空襲(昭和20年〔1945年〕7月26日)で社殿も能舞台も焼失し、戦後しばらく演能の場所がありませんでした。昭和46年(1971年)松山大神宮を合祀(ごうし)(二柱以上の神を一つの神社に祭ること)して復興することになりました。その際、社殿はすぐには建たないから、まずお能だけでも復活させようではないかということになり、能楽協会の協力を得て、広場に仮設舞台を造って奉納しました。それは夕方から行う野外能でしたので、かがり火をたきました。そこで『薪能(たきぎのう)』と呼ぶ方がいいのではないかということになり、神能を『薪能』とも言うようになりました。昭和46年やっと東雲神社の境内で行われる神能が復活したのです。神殿は昭和48年(1973年)完成しました。現在、神能(薪能)は年1回春の例祭の日に幣殿(へいでん)(幣帛(へいはく)を奉奠(ほうてん)する社殿)で行っています(写真3-2-10参照)。神能は伝統を守って今でも喜多流中心で行っています。もちろん狂言も入ります。主催は神社側で、松山喜多会と松山大蔵会と相談して奉納していただいています。年々経費もかさみ、見料を取ってはという御意見もありますが、本来神能は神に奉納するものなので、見料などはいただかず、有志の方や地元町内会の御協力を得て続けています。最近は外国の方が楽しみにして見に来られます。日本文化の原点に触れることができるからでしょう。場所が限られていて、せいぜい350~400名ぐらいしか御覧いただけないのが残念です。」また、東雲神社に寄進されている能面、能装束などについて、「寄進された能面、能装束などは久松家から使用してもよいという許しを得ていたらしく、そのお礼の意味も含めて神能が奉納されるようになったのでしょう。鉄筋コンクリートの蔵に保管していましたので、空襲のとき焼失を免れました。この蔵は、萬翠荘(ばんすいそう)(*1)が建築された折、いっしょに当時の陸軍の技術で建てられたものだと聞いています。現在、能面、能装束などは『文華殿』に収納していますが、今でも傷みのないもの(特に能面など)は使用してもよいことにしています。衣装はくちてきますし、畳んでおくと折り傷ができるし、保管に苦労します。『文華殿』は現在公開しておりません。公開したいのですが、手が回りません。子供が大学を卒業して帰ってくれれば計画してみようかと思っています。」と語っている。
 この東雲神社へ寄進された能面、能装束など県の文化財に指定されているが、その数は「能面153点、能衣装110点、狂言面42点(⑪)」等多数、「丸亀城主京極家の所蔵であったものが旧松山藩主久松家に伝わったもので、15万石にすぎたものとして諸公にうらやまれ、貴重な扱いをされてきたものである。(⑪)」という。公開が待たれるところである。

 (イ)松山の能・狂言

 **さん(松山市千舟町 大正4年生まれ 80歳)
 **さんは、国の重要無形文化財能楽(総合指定)保持者で、日本能楽会員として全国的に活動を続けている(バチカンで行われたローマ法王御前の薪能にも参加)愛媛能楽会の重鎮(愛媛能楽協会会長)である。**さんに松山の能の特色や松山が能楽の盛んな土地だと言われる理由などについて伺った。
 「大きな特色は下掛宝生(しもがかりほうしょう)流(ワキ専門)を習うという伝統が続いているということです。これはめずらしいことで、よそではないことだと思います。この下掛宝生というのは松山藩の殿様が好まれた流儀で、松山藩では喜多流のシテが舞っても下掛宝生に謡わせることがあった。本当のところはよく知らないが、言い伝えがそうなっています。」このことについては『愛媛県史(⑥)』に「11代藩主松平定通は何の故か下掛宝生流を好み奨励したので、後には能の地謡まで同流で謡われるようになった。」と記されている。「松山では、現在でも地元に下掛宝生流の方がいてワキとして登場します。また、松山の能は喜多流だとよく言われますが、それは、松山(地元)に喜多流の職分(専門能役者)がいるからです。他の流儀と数だけでは比較できません。能楽ですから演能できるかどうかが比較の基準になります。松山は喜多流が盛んだと言われるのは、現に地元に能の舞台を務めることのできる人がいるからです。それに下掛宝生流のワキ方も地元にいる、狂言方もいる。囃子方(笛方、小鼓方、大鼓方、太鼓方)も地元でまかなえます。ワキ、狂言、囃子を三役といいます。シテだけでは能を演じることはできません。とにかく松山では地元の者だけで能を演じることができます。実は、そのことが松山は能の盛んなところだと言われる理由になっているのでしょう。しかしそれだけでなく、松山出身で日本の能楽界で活躍した方がいたということも見逃せません。池内信嘉(いけのうちのぶよし)、川崎九淵(かわさききゅうえん)、宝生弥一(ほうしょうやいち)、これら先輩の方々の活躍があったので松山は能の盛んな土地だと言ってくれるのです。」また、池内信嘉は大蔵流茂山忠三郎良豊(しげやまちゅうさぶろうよしとよ)を京都から招くことにも尽力したと**さんは語っている。このことに関して『松山市誌(⑫)』では「明治41年(1908年)8月、喜多六平太等が招かれて各流連合能楽大会が萱町の市公会堂で催された。この時崎山龍太郎が稀曲(ききょく)『竹雪(たけのゆき)』を演じたが、その間(あい)狂言(*2)の役柄に関連して、京都から名人といわれた茂山忠三郎良豊が招かれた。これを機会に古川久平以下松山の狂言方は忠三郎の門に入ることとなり、流儀も大蔵流八右衛門派から大蔵流の本流になったのである。……この後も茂山忠三郎は何度も来松して狂言方の指導稽古(けいこ)をしており、練磨を重ねた古川久平は職分として社団法人能楽協会に名を連ねるに至った。」と述べている。
 今年(平成7年)7月30日、**さんの率いる大蔵会は第19回松山市民狂言会を開催、**さんは狂言『枕物狂(まくらものぐるい)』の祖父の役で出演、同年8月8日の第14回美術館分館野外能では狂言『船渡聟(ふなわたしむこ)』の船頭を演じた(写真3-2-12参照)。
 「わたしは父から狂言を習い、物心がついたころには舞台に立っていました。狂言の家では男の子が生まれると、だいたい『靭猿(うつぼざる)』という狂言の『サル』の役から仕込みます。わたしもそれをやりました(大正8年〔1919年〕東雲神社奉納能に父に従って『靭猿』の子役で初舞台(⑬))。昔、子供の狂言はおもしろがられ、二歳年上のいとこと二人で演じたことを覚えています。松山中学校在学中は、毎年卒業記念の余興でそのいとこと狂言をやりました。大平洋戦争中、シンガポール陥落のときなど東雲さんで能楽をやりました。戦争中は、歌舞音曲はだいたい禁止されていましたが、能楽だけは奨励され、『忠霊』など戦意高揚の新曲もできました。それでも次第にできなくなりました。戦後、昭和23年(1948年)に父が死に、翌24年に追善能を松山中学校の講堂(校門を入って左側に戦後建てられた講堂)で行いました。関係者はちりぢりばらばら、自転車で走り回り、尋ね回って出演を依頼しました。衣装は東雲神社のを使い、『船弁慶』もしたので面も東雲さんのものを使用しました(戦後一時期は東雲神社の能面、能装束がなければ能ができなかった。)。親類の金子五郎が能を舞い、茂山忠三郎良豊先生の子息忠三郎良一先生にも来ていただきました。この追善能が戦後の松山の能復興の大きな足掛かりになりました。」
 現在、東雲神社の春の薪能(神能)、夏の県立美術館分館野外能、秋の南海放送サンパークの芝能、平成4年から行われている松山城二之丸史跡庭園の薪能などに松山の能・狂言の伝統は受け継がれている。その中心となって、後輩の指導に尽力しているのが**さんなのである。


*1:大正11年(1922年)久松定謨(さだこと)邸として建てられた。設計は木子(きご)七郎、昭和60年(1985年)県指定の
  文化財となる。現在の愛媛県立美術館分館、郷土美術館。
*2:能の諸役のうち、狂言方が扮(ふん)する役。「高砂(たかさご)」の浦の男、「安宅(あたか)」の強力(ごうりき)と太刀持
  ちなど。

写真3-2-10 東雲神社の神能が行われる幣殿

写真3-2-10 東雲神社の神能が行われる幣殿

平成7年10月撮影

写真3-2-12 **さん演じる狂言『船渡聟』

写真3-2-12 **さん演じる狂言『船渡聟』

平成7年8月撮影