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河川流域の生活文化(平成6年度)

(4)エピローグ~小田川と共に生きる趣味の人~

 **さん(喜多郡五十崎町平岡 昭和21年生まれ 48歳)

 ア 本業は金物屋?紙漉(す)きのおっさん?

 「高校を卒業すると名古屋へ就職していきました。仕事の関係で、和歌山や大阪へ行くのが多かったんですよ。あの時分は、仕事にばっかし追いまくられとって、ほかにその感想というやつもないけども、紀ノ川(きのかわ)、あの川はとにかく『なんと大きな川があるねゃー。うちの川よりかは、しっかり大きいなあ。』と思ったいなあ。川を見るのも、この小田川がベースになっとるけんなあ。大阪の淀川なんか、『何ぞ、これ、きったねえ川じゃねゃあ。まあ、ほんとにひどい。入って泳ぐじゃのいうたら、とんでもないこっちゃ。』というふうな印象じゃったいなあ。
 結局、3年おって、五十崎に帰ってきました。僕の祖父が中風になって、それと、ちょうど僕らが就職したころいうのが、給料面の待遇が一番悪くて、生活ができにくかったんです。替えズボン1本買うと、あと昼飯代の心配をせないかんとかいうような状態だったですからねえ。僕がやめるころから、だんだんよくなってきたんですよ。その年に、妹が高校卒業して就職したんですが、妹の方が給料よかったですけんねえ。
 五十崎に帰ると、家業の金物屋を継ぎました。うちは、父親は、大工さん向けの両刃鋸(のこ)を作ってたんですよ。たぶん、愛媛県ではうちだけじゃなかったかと思うですけどねえ。ほんで、ほとんど大阪へ出しよったんですよ。うちの親父(おやじ)らがやりよったごろは、仕入れる側も玄人じゃないと、仕入れられないんですよ。というのは、値段なんかが大変な世界で、『これくらいの仕事がしてあると、この程度に売れる。』という見方ができなんだら、仕入れができないという世界じゃった。
 それが、最近どうなったかというと、お金を持ってたくさん買う人が商品が安く仕入れられる。で、ほとんどが使い捨てになってしもて、職人さんの道具も素人さんの道具も、ほとんど差がなくなってきたんよ。そうすると、うちらみたいな商売の仕方をしてきたところは、やれまい。うまいところが全然ないなってしもうた。買う方も、うちの技術を評価できないような人が、バイヤーになっていった。東京の専門業者の人から、『こういう小さい町じゃったら絶対無理じゃ。はよ、やめた方がええわい。』って言われた。ほやから、(金物屋が)左前になって、女房に食わしてもらいよる。
 僕が、『何か仕事やりたい。』いうて、商工会長の**さんらと話しよった時点で、五十崎の手漉き和紙(長野製紙)がやめる言うんでね。やめるのは困るぞ、と。ただし、『ろくろもやめちゃ困る。紙もやめちゃ困る。じゃけん、大変でも両方やってもらわないかん。』ということで、紙漉きにも行きよります。生活できるくらいな給料はもらいよるんですよ。
 だいたい、漉けるのは、日に200~300枚じゃないですか。普通の人がやって、だいたいそれくらい。あの業界なんかも大変で、後継者がないですしねえ。
 それと、川と離れられんのは、やっぱり、製紙いうのは、和紙も同じで、水をかなり使うと、片一方では、やはり汚染しとるのも間違いない。汚染源でもある。じゃあ、どっち取るんぞということですらいねえ。ほしたら、手漉き和紙ものうならしていいのかと、そう短絡的には、なってしまわんでしょうし。」

 イ 木工芸家(ろくろ屋のおっさん)

 「名古屋で就職してた会社は、木を加工する機械をやりよったんですよ。ろくろそのものは、してなかったけども、ああいう機械いうのは、原理はみな同じなんで、とっつきやすかったんよな。そういう機械をいじれるんなら、それを使って木を加工してやろうかなと思って、ちょうど、村おこしが始まったごろに取り組んで、もう11年になるかなあ。
 昔は、どこの町にでも、たぶん、一人や二人はおいでたはずですけんね。機械の知識があったのと、親父がそうやって鍛冶屋をやりよったというので、刃物・鋼に対する考え方いうのが多少下地にあって、それで、とっつきやすうて始めた、自己流でもやれた。
 こういう手仕事は、始めるときに**さんとも話したんじゃけど、『職人の子は職人よなあ。やっぱり、しゃべってお金をもらうよりは、汗かきよる方が、無難なぞ。』と。
 デザインのセンスとかになると、『これでいいのか。』言われると、どうでしょうねえ、わからんけど。自分なりに、この木の器を作るときには、こういう風に作りたいというやつを、やっぱり持っとりますけんねえ。
 一番最初は、『こういうふうに作りたい。』じゃないんですよ。先に素材があって、その大きさとか厚さとか、そして木目があって、それを、裏・表、何度となくこうひっくり返して見よるうちに、『あっ、これはこんなふうにするとおもしろい木目が出て、おもしろい器ができるんじゃないか。』と。
 東京あたりじゃったら、ケヤキの汁椀(わん)1個2万円以下で探したて、ありませんよ。だから、僕がここで売りよるのが、汁椀1個5,000~6,000円ですけども、食えんですねえ。実際、原料が高いんですよ。ケヤキの木代が汁椀1個の大きさで2,000~2,500円するけんな。漆(うるし)を塗るのに、汁椀じゃったら8回から9回くらい塗るかなあ。で、削って、そのあと漆を8、9回塗ってしよったら、なんぼにもやれんで。5,000円っていうのはとんでもなく安い値段なんよ。
 内子の町並みの中でじゃったら、たぶん値段が倍くらいでも売れるんじゃあないかなあと思うよ。内子の役場の人ともよう話すんじゃが、『町並みで、1軒借りてやったら、たしかに売れてよかろうが、内子の人らはぼやくぞねゃー。』
 でも、ここんところ年に1回くらいかな、松山で個展をやりよるしなあ。もう地道にやる以外にしゃーないなあ、というのもあるんですよ。以前にテレビ放送していただいたときは、テレビはこわいなあ思た。ものすごい数の注文が入って。多すぎるとまた、どうにもならん。一人ですから。それに、今持っとる素材でさばける間はいいんですよね。次の素材を買(こ)うてになると、とんでもない値段ですけんねえ。そやから、注文もほどほどじゃないと、やっぱり困るわけよ。これくらいでやって、食えるように、ひょっとしてなれるとしたら、やっぱり60歳過ぎてかなあというのは、やっぱりあるなあ。
 そやから、僕、10月に個展やったんじゃけど、それなんかはもう、仕事から帰ったら、夜はほとんどやらないけないなあ。それに、こういうやつは、ほとんど今漆塗りじゃけども、塗りは夜の方がええんよ、人が来んけん。例えば、塗り始めて途中で人が来たら、ちょっとおいとっていうのはいかんのよ。漆の状態が変わるけん、また、ときなおさないけん。
 だけん、塗り始めたら、とにかく、ずっと塗ってしまいたい。それを、人が来たけん1時間、そこで抜けるじゃのいうのは、やっぱりいかんし。おまけに漆はかぶれるじゃない。たぶんあんたまけると思うけど、そういう状態で表に出てきて、手にいっぱいついとって、わしと話しよったら、3m以内になったら、弱い人じゃったらかぶれるんよ。わしも今は、もう平気よ。最初半年はなあ、大変じゃったぜ。両腕がこの辺までと、首筋と。半年くらいで抗体ができるんじゃないかなあ。最初はなあ、塗るんは夜しよう思て、夜塗り始めたら、晩飯食うてからじゃけんなあ、晩飯食うときにビールでも飲んどったりしたら、途中で小便(しょんべん)しとうなる。そやけど、手を1回きれいに洗(あろ)てしまわなんだら、小便はできんけんなあ、これは。そじゃけん、大変なんぜえ。夕食後ひどいときは12時くらいまでかかるし、早かったって2時間くらいはかからいな。
 ここまで、11年やって、ここんところは自分でもまあまあ納得とまではいかなんでも、それに近いような物作りができだしたかなあと、思うようになってきたところじゃけんなあ。やめる気は、もう全然ないしなあ、これは。」

 ウ 娘に「趣味の人」と呼ばれて

 「もはや、『道具屋のおっさん』とか、『ろくろ屋のおっさん』とか、『紙漉きのおっさん』とか、じゃなくて、今の生活全部が僕のライフスタイルだと思うんよ。山が好きで山へ行って山菜取って帰って食べるのもそうじゃし、川へ行って魚取って帰るのもそうじゃし、これが生活になってしもうとるんよな。
 まあ、道楽親父と言やあ、たしかに道楽親父。うちの高校2年生の一番上の女の子が、『よそで言う時には、うちの父親は、趣味の人です言うんじゃ。』言うて笑いよったけど、たしかにそうかもしれんなあと思う。好きなこと、たしかに好きにしよるし。あのう、ここの町じゃけん、それができるという面もかなりありますしねえ。こんなに山が近くにあるし、川があるし、こんなくらしをしたい言うて松山におったんじゃったら、たぶん、できんやろうしね。
 どれかを一つとってのけて、たとえば、川へ行ってアユを取るのをもう今年からやめなさいということに、僕らなってしもうたら、たぶん、この器作りの方にもかなり影響が出てくると思う。トータルで見てもらわなんだら、僕はいかんのやないかなあ。よそから来た人と会(お)うて話すると、『あんたほど、生活を楽しんどる人、なかろうな。もう、あんた一番ぜいたくよ。』と、みんなに言われる。
 こんなことやりよって、一番理解してくれるのは、もう、一番は女房ですけんねえ。そうじゃなかったら、こんなもんやめてしもて、早う勤めるなり、何か考えた方がいいんじゃないっていうふうになってしまいますよねえ。」

 エ 暇なときは、いつも川

 「川そのものを云々(うんぬん)言い始めたのは、やっぱり、この町で村おこしがどうこう言い始めたころ、だから11、2年前ですかなあ。川へは、ずーっと行ってましたからね、アユ取りに。6月から11月そこそこまでは、川へ入りびたりというか。暇なときは、いつも川。
 川が好きじゃし、とくにここ十何年かは、そういう傾向が強いけどなあ。川へ行くときは、ほとんど魚(取り)みたいよ、網。そりゃあ、春先にじゃったら、川へ行ってアユ取り言うたって、アユもおらへんけん、何するんぞ言うたら、菜の花の新芽摘んで帰って、漬物(つけもの)作ったりとか。
 河原へ行くとなあ、とにかく、五十崎辺りじゃったら、そんなに人も行てないしなあ。この少し下流へ行って河原のほうへ降りとったら、うるそうもないし。
 子供のころは、夏の間は、ほとんど毎日川へ行って遊びよったな。この近辺の子供はもうみんなそう。川へ行って、とにかく泳いだり魚取ったり。で、また、川がきれいなかったけんなあ。
 僕ら、豊秋橋より下流で遊ぶことが多かったですけんね。ニガタケの竹藪が、ザーッとあったりとか、その下が少し掘れこんでわき水が出るのと、ちょっと入りくんだようになっとって、そこへ潜って入ると、こんなフナがおったりとかな、ほんなして遊べよったんよ。
 魚はなあ、たとえばアユなんかにしたって、おる量が全然違わいなあ。ハハッ。子供でも取れよったいなあ。龍宮(りゅうぐん)(現在、転倒堰(てんとうぜき)があるところ)、あそこは石積みの堰(せき)じゃったんですよ。で、落ちアユ時分になったりすると、行って、足広げてこう待ちよるとな、少し細濁(ささにご)り程度に川の濁れとるときに、股(また)ぐらヘザーッとアユが入ってきたりとか、放っても取れらやー。今はとんでもない話でな。
 転倒堰いうんは、増水すると倒れるんですよ。これができるまでは、汚泥が毎日流れよったけん、わかりにくかったのかも、わからんですけども。転倒堰ができて、あれを倒した時に川へ入ると、大変なんですよ。臭いし、ドブで、ものすごいですよ。生活そのものも変わって、そういう汚水も多くなっとるとは、思うんですけどねえ。本当、ひどいもんですねえ。
 『アユは、頭からはらわたもみな食べて、しっぽまで。』と、よく言うじゃないですか。これはたぶん、10年以上前じゃないかい。ぼくら、はら食べませんもんね。今年(平成6年)らみたいに水が少なかったら、アユも食べるものがのうて、特に臭みがありましたねえ。昔は、もっとアユが全然ちごたようなけんな。どういうんか、はらわたを出して見ると色が違った。もっといい藻がつきよったんじゃない。あのねえ、緑がよかったんだと思うんですけどね。もうずっと昔の話じゃけん。今年とったアユは、プンとにおいがするんで、はらわたをおいた(残した)もので焼いたら、臭いんですけん。全部、開きですけんね。開いて、一夜干しにして、これはうまいですけんね。
 水量は、やっぱり減ってますよねえ。上にダムはないですけんねえ。そこの神南(かんなん)山の上に登って、内子のほう向いて見たら、びっくりですなあ。子供のころは雑木に覆われておった感じじゃったがなあ。それがなくなって、果樹に、柿畑やなんかになってしもうとるでしょ。ここなんかも、その上はそうじゃし、もともとあれは、ほとんど雑木林じゃったじゃないか。
 ここで一番ようわかるのは、そこのお寺山よな。お寺山なんか、入ったら、夏でも『涼しいねゃあ。ちょっとよい、どーならい。』言うくらい、木がうっそうと茂っとったけんな。お寺山行って遊んでも、墓石ひっくり返して、しかられたりとかな、ハッハッハッ。そやけど、お寺でもお宮でもそうじゃけど、どこへ行ったって、ほんと、とんでもない、こんなような(かかえきれんような)木ばっかしあるような気がしよったいなあ。まあ、僕らが小さかったから、木が大きく見えたんかどうかわからんですけどねえ。でも今は、どこへ行ったって、そんな雑木がなくて、ほとんどスギ・ヒノキを植林して、こんなやつ(針葉樹)ばっかりで、これはもう、水に響いてくるのはまちがいないわいねえ。保水力が、針葉樹というのは、ないですけんねえ。
 川が少しましになったので、いろんな人たちが来ますよねえ。土曜日なんかやったら、お弁当持ってきて広げたりしておられる方もありますし。
 だんだんよくなってきたのにつれて、犬の散歩をする人が多くなった。そうすると、犬の糞(ふん)の始末に困りだしたんですよね。『とにかく散歩するときに、ナイロン袋と小さなスコップを持ちましょう。自分の犬の始末くらいはしましょう。』と問題提起して、あつかましいくらい公民館でやったんですよ。護岸の所へ腰掛けることもできんくらい、犬の糞が多かったんですよ。ま、最近はだいぶましになってきて、今は、散歩されている人の8割くらいは、ほとんど後始末できる用意をしてまわりよいでます。
 でも、まだあとがあって、ちゃんと始末ができよるんかいうたら、そうじゃなくて。例えば、掘り起こして土に返るような形でおいてやれば、まだ少しましになる。でも、袋ごとポッと放り捨てて帰ったりとかいうのもあるんじゃけん。まだまだなんよ。
 川は、やり始めると自分に帰ってくるというのが、一番大変ですけんね。本当は『みんなが、ちょっと気をつけようや。』というところから入ってな、『とりあえず、考え方だけでもいいんじゃないか。』ということになれば楽なんだけど、そんなことは、この辺りの人はできん人が多いなあ。
 皆、我が身に返ってくるけんなあ。というのは、『じゃあ、おまえとこの家庭排水はどうだ。』と言われると、皆そうじゃない。『どれくらい自分を律して生活できとるんだ。』と言われたら、皆自信がない。とりあえず何かをするということも大事なことじゃけど、『これはおかしいんだぞ。』という見方ができるようになることが、大事だと思う。
 子供ができて、父親になって考えるのは、『今いろわなくてもいいものは、やっぱりいろわないで、次の世代に判断をまかせる。』というほうがいいんじゃないかということです。次の世代に、我々はこんなふうにしてがんばって、この川はこうやってきたんだぞ、ということを、この町の子供たちにそう言えるようなくらし方もしていきたいし。」

 オ 何を残したいか

 「川で網打っとるときは、何も考えてない。こういう時間が持てたりとか、漬物漬けたりするのが好きで、一番大切。こういう時間が持てなくなったら、この器のデザインなんかも、考えておれんようになってしまうんじゃないかなあ。木をいろうと、どうしても水を抜きに考えられんもん。どれ一つなくなっても困る。
 よく、『何を残したいか。』と聞かれるんで、この前も一緒に河原へ行って、『ここへ、しばらく腰掛けてみません?』って言ったんですよ。『何かわからん? こうやって座りよって。ぼーっと座って、魚を見たり、木を眺めとったり。なんとなしに、ここ吹いてくる風とか、さす日とか、ここへあたりよって。何を残したいんか言うたら、これを残したいんじゃ。』」