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河川流域の生活文化(平成6年度)

(3)肱川の伏流水

 **さん(大洲市渡場 大正10年生まれ 73歳)
 **さん(大洲市田口 昭和11年生まれ 58歳)
 **さん(東宇和郡宇和町卯之町 昭和23年生まれ 46歳)

 ア 大洲市で最古の水道業者

 『大洲市誌(⑥)』によれば、大洲市の上水道は、昭和31~33 (1956~1958)年度の3か年にわたり建設され、初期の給水人口7,855人、普及率18.0%(昭和35年度末現在)でスタートしており、それ以前は、地下水を利用した井戸を水源としたり、川や山から流れる表流水を利用していた。肱川橋の上流側の右岸に残る上水道ポンプ場は、当時建設された、同市で最初のものである。
 今年73歳の**さんは、現在も井戸掘りを手掛けており、今日まで大洲の水道とともに歩んできた一人である。
 幼少のころ「大洲城の下のあたりで、帆掛け船や筏(いかだ)に乗ったり潜ったりして、よう怒られよった。鉄橋の下が瀬になっとって、鮎(あゆ)掛けをよくした。」という**さんは、手先が器用だったこともあり、中学校卒業後、群馬県にある部品機械工場へ就職した。親戚(せき)の縁者になる人が工場長をしていたこの工場は、中島飛行機(現在の富士重工)の部品製造を引き受けており、軍の徴用工場となっていた。戦争が激しくなるにつれ、本工場から順々に米軍機の攻撃を受け、昭和20年8月15日(終戦の日)の朝、ついに**さんの働いていた工場も爆撃された。
 終戦となって帰省したのが9月20日。汽車を乗り継いで長浜までは帰ったものの、そこから大洲までは数時間かけて歩いて帰ってきたという。大洲市内は台風の影響で大水となっており、汽車の線路は流され、道路も流失していた。帰る早々、流失した生家の残務整理を手伝うことになる。戦後しばらくは、配給で物不足の中、家業の金物屋・たばこ屋の手伝いをするが、兄が満州から帰って跡を継ぐことになり、再び群馬の工場へと働きに出る。「軍需から一転、ホンダのオートバイの部品なんかを作っとりましたが、朝鮮戦争前で景気が悪く、万歳しそうになって『やめるなら、今。』ということで、その後、福島や大阪などを転々としていました。」
 再び大洲に戻ってきたのは、ちょうど大洲の上水道ができたころ。機械を扱う技術が身についていたので、ポンプ屋兼鉄工所という形で商売を始め、やがて井戸の打ち込みなども始めたことから、水道組合にも入った。
 「打ち込みの材料は揃とる。大洲には、専門に掘りよる打ち込み屋さんが4、5人おったが、そことは取り引きがあったので、初めは習いに行き、そのうち手伝いに行くようになった。井戸掘りは毎日あるもんじゃないけんね。月に1~2回、井戸掘りについて行って、手伝うと一緒に習う。そのころは、2mほどの材で三脚を立て、30~40kgのおもりを3人くらい人夫さんを雇って手で引っ張り上げて、先端を尖(とが)らしたパイプを上から打ち込むんですけん。独立して始めるのは、人手があれば案外簡単にできたわけです。
 けど、掘ればどこでも水は出るのかというと、それは出ません。国道(56号)からこっちなら4間(けん)(約8m)くらい、駅の近所になるともう少し深いですかなあ。橋のあたりの左岸はもっと深い。出るのは川沿いのほんの一角で、川から向こうの五郎のあたりは粘土層で出ません。水の層にうまく当てるこつは、近所の人に深さの状況を聞いてみることよ。近所の井戸の深さがわかったら、水の層は広がりがあるので、だいたい同じ深さで出るようです。
 最近は上水道が普及してきたんで、『住宅用の井戸を掘ってくれ。』と言うのは、ほとんどない。井戸水の用途も、酒造も大手に押されたんかほとんどやめてしもうたので、今は、クリーニング屋、キャンデー屋といった業務用か、お百姓さんが畑にまくくらいでしょうかなあ。」

 イ 昔よりもう一つ深く掘らんといけん

 **さんの話を聞いているところへ、作業を終えた**さんが入ってきた。大洲生まれの**さんは、父親の仕事の関係で戦前の一時期を大阪で過ごしたが、開戦で大洲へ戻って以来、ほとんど大洲を離れていない。帰郷後の父親は、肱川で投げ網、立てきり等の漁で、アユ、カジカ、カニなどを取って商売をしていたと言い、「肱川に、僕らを育ててもろうた。」と感じているという。
 「若いうちは、何でもいろんな仕事をした。でも、ここが居心地が良くて一番長い。」と語り、30年近く**さんの水道店で働き続けている。永年打ち込み作業を続けてきた中で、**さんが感じる肱川の変化について語ってもらった。
 「桝形橋から見たカーブの所も、汚泥がこんなにたまっとる。大水が出ると、(被害もあるが)プラスの面もあって、今のようにいつもチョボチョボ流れよったのでは、腐ってしまう。
 一般家庭の4間(約8m)の井戸も、涸(か)れるとこが出てきたし、もう今はダメ。深さは注文主から任してもらうけど、昔よりもう一つ(1間)深く掘らんといかん。土手に堤防をするでしょ。(地中への水の)浸透が違うんじゃろうね。地下水の流れが変化してきた。
 これからの井戸の需要は少ないと思いますよ。でも、味はやっぱり甘みや臭みが違うんで、お茶の先生なんかは、まだまだ井戸を使うところが多いと思いますよ。」

 ウ 初めての井戸掘り、本業は地質調査

 肱川の最上流にあたる宇和町で、**さんは最近、初めて頼まれて井戸を掘った。**さんは、3年ほど前に地質調査業を始めたばかりで、それまで勤めていた自動車修理工場の廃業をきっかけに、転業したという。とくに予備知識があったわけではないが、その1~2年前に同じく地質のボーリングを始めた親戚(せき)の人の力を借りながら仕事を続け、ようやく「だいたいのことが、一応わかるようになった。」という。今では、西条から宇和島のほぼ県内全域で、コンサルタント会社から委託されて、高速道路建設予定地の地質調査などを行っている。
 地質調査を通じて感じる宇和町内の地下水の水位を尋ねると、「これまでの経験では、水が吹き出したのは1か所だけです。卯之町駅のずっと向こう(北側)で、4~5mのところで水が出ました。8m掘ったら100ℓ/分くらい水が出ました。地下水の水位は、場所によってまちまちで、一概には言えませんね。」
 **さんの井戸掘りは、前述の、西条や大洲のうちぬきと方法が異なり、地質調査のボーリングと同様の方法で行う。地質調査の場合は、地中の土そのものがサンプルとして重要なこともあり、1日に5m程度しか作業は進まないという。ボーリングの穴は直径90mm。深さ1mずつ穴を開け、土を取り除いては壁面が崩れてこないようにケーシングと呼ばれる管を打ち込み、さらに深く掘り進めていく。
 最近掘ったという井戸は、1週間目に深さ36mまで掘って水の層に当たった。コンプレッサーで空気を入れてふかしてみると、水はあるが量は少ない。上から水を送りこみながらガリガリと掘っていく。最終的に水の層の厚さは4mくらいと見込まれた。管の先端を茶筒状にふさぎ、そこから4mほどの側面に直径5mmの孔をたくさんあけたものを、穴の底の部分にすっぽりと入るように沈める。浅井戸用のポンプでは8mくらいまでしか吸い上げることができないので、圧を利用して水を押し上げるジェットという部品を先端に付けた直径50mmの塩化ビニールのパイプを内側に入れてポンプにつないだ。水を安定させるため、ポンプにタイマーをセットし、騒音で迷惑のかかる夜間以外は出しっぱなしにしているという。普通水道の蛇口を全開にすると15ℓ/分くらいの水が出るが、この井戸の場合は5ℓ/分くらいしか出ないという。
 今後の井戸掘りの予定を尋ねると、**さんは「初めて掘ったんでかもしれませんが、地質調査に比べると井戸のほうが手間がかかりますね。調査のほうは深さの見当もある程度つくけど、井戸は、深さの見当がつかない、水に本当にぶち当たるんかどうか、水が出たところで水質は大丈夫か、など、いろんな不安がありますからね。正直言うと、あまり井戸は掘りたくないですね。」と言って、苦笑した。
 この仕事に就いてまだ日が浅いうえに、地質調査が本業ということもあり、水脈の変化といったことは詳しくないと謙そんする**さんであったが、井戸に適した水脈を掘り当てることの困難さを、十分にうかがうことができた。