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河川流域の生活文化(平成6年度)

(1)総動員体制の復旧作業

 「天の底が抜けたほど降った。」と五十崎の**さんが形容した、未曾有(みぞう)の豪雨が特に、肱川・重信川流域に甚大な被害をもたらしたが、その復興ぶりも目をみはるものがあった。各地の聞き取りで、災害のすさまじさを語った人々は、最後に必ず復旧作業に触れて、献身的な勤労奉仕に、半世紀を経た今でも感謝するのであった。大洲~五郎間の鉄道復旧には屈強な若者が、喜多地区はもとより中・東予や県外からも駆け付け、五十崎の氾濫原へは大洲高女や内子高女の女子生徒が出動したのであった。

 ア 稲苗の確保

 水が引くのに1週間ほどかかった(大洲新町)ことを裏付けるように、愛媛合同新聞昭和18年8月2日版は、相川知事の現地視察を、次のように伝えている。
 「相川知事は浮田秘書課長、坪井庶務課長を帯同、31日午前7時自動車で出発、大洲町を中心に内子、五十崎、平野、南久米諸町村の水害状況を視察、罹災(りさい)民及び勤労奉仕隊を慰問激励して帰ったが1日朝出渕町官邸(現南堀端町家庭裁判所)で次の如く語る。」という書き出しである。
 「被害は予想以上だ。一望目もあてられぬ泥土の稲田」の見出しで書かれた記事を見ると、すでに視察を終えた重信川流域と比較して、肱川流域の水害を次のように特徴づけ、また、時局を反映して食糧増産への意気込みを表していた。
 「肱川沿線の災害は中予の重信川沿線のそれとはいささか性質を異にしており、重信川は上流の拝志村、中流の北伊予村、下流の垣生村と3か所の堤防が決壊して奔流(ほんりゅう)が氾濫したのだから、夥(おびただ)だしい砂礫(されき)を流し、田圃(たんぼ)を根こそぎさらってしまい、見渡す限りの河原を現出し、これが復興には人力の到底及ばない部分もあるが、肱川沿線のそれは、勿論支流河川の中には堤防が決壊し土砂を流したところもあるけれども、地勢の関係で、下流の長浜で海潮が押し上げ、河水がふくれ上り、河全体の水位が見る見るうちに高くなって堤防を溢(あふ)れ出たものであって、大河川であるから、従って水量が多く、田畑といはず人家といはず広範囲にわたり水浸しとしてしまった。直接砂傑をもって田畑を荒らされるという被害は多くなかったが、水の中に埋もれてしまった部分が多く、どろどろの柔かい泥土で覆はれ全体の地盤が相当の高さに泥土で地上げされた形となっている。土砂は取り除かねばならないが、この泥土をすっかり取り除くことは容易ではない。それでこの泥土の上へ稲苗をそのまま植えたらどうかと思う。しかし、水路の関係もあるので全部へ稲苗を植えることはできないだろうから、残った部分へは蕎麦(そば)を植えるように指示しておいた。稲苗は四国の他の3県でも熱意をこめて配慮してくれているが、兵庫県では5万把(ば)の稲苗を早速送ってくれたし、中には株分けまでして送ってくれた。感激に堪えぬ。これらの稲苗を直ちに配分し、後植に全力を挙げているが県内でも被災害地市町村でこの株分けを行い、1本の稲苗でも多く回してもらいたいと思う。」と語り、水路が破壊されているから、今は出水の悩みであるけれど、次にくる干害対策を考えておくようにと指示している。

 イ 勤労奉仕隊の活躍

 (ア)筏(いかだ)を組んでの電線工事

 「水害による電信、電話線の故障が被害現地と県当局の通信連絡を遮断し、復興の上にも少なからず支障を招来しているが、県警察本部では県下各地に通信網を張る警察電話の早急復旧のため、警務課田中警部の指揮のもとに諸種の悪条件を克服して応急復旧に敢闘を続けている。」
 この記事(愛媛合同新聞昭和18年7月28日版)によると、水害第2日の24日に電話が不通となり、県警察本部は直ちに応急工作隊を編成して、重信川・肱川両流域に派遣している。地元警防団の協力を要請して、共同で工事に当たったのであるが、工作用具や復旧資材の輸送に思わぬ苦労をしている。例えば、松山から郡中までは、工作用具を綱で結んで体に縛り付け、泳いで5時間を要したり、大洲・八幡浜方面へは、三津浜港から長浜経由で資材の輸送をしたとある。
 やはり、被害が最も激しかったのは大洲地方で、「警電といはず、逓電といはず電柱という電柱は殆んど水中に没し、しかも流失した家屋のため、約20本の電柱が倒壊家屋の下敷きとなっている状態、工作隊はこれが復旧に筏を組んで作業するなど、その労苦は筆舌につくし難いもの。」と述べている。

 (イ)学徒1万の援隊

 7月26日、松山市内各中等学校長会が県医師会館で開催され、協議の結果、学徒勤労動員に関し、次のとおり決定、27日朝発表された(愛媛合同新聞昭和18年7月28日版)として、学校別に、動員数と派遣先を挙げており、7月27日~7月31日までの5日間、合計9,750名となっている。
 記者も現地へ乗り込んで連日のように学徒勤労隊の活躍ぶりを報じたと思われ、同紙には一面の戦況とともに、復旧の報道がやたら目につく。
 市内中等学校の男・女生徒は、各地で歓迎され、戦時下で男手の少ない状況のもとでは、貴重な労働力と位置づけられたのであった。
 この年の4月18日、山本五十六連合艦隊司令長官がソロモン群島上空で撃墜(げきつい)されて戦死、6月5日に国葬が行われた。太平洋戦争はすでに破局に向かっていた。

 (ウ)大水害当時の世相

 2年前の、昭和16年(1941年)4月1日から小学校は国民学校と改称された。『映像でつづる昭和の記録(⑪)』によれば、「昭和16年4月1日から6大都市では米が配給制となり、11歳から60歳までは、1日2合3勺(330g)に制限されていた。さらに米穀配給通帳制と外食券制が実施されるようになり、9月には砂糖、マッチ、木炭、小麦粉、食用油、酒なども配給切符制になった。
 17年になると、塩、味噌(みそ)、醤油(しょうゆ)、そして衣料品までが切符制になった。衣料品は、背広50点、ツーピース27点、ワイシャツ12点、手ぬぐい3点、靴下1点というように点数制による総合切符制が定められ、1年間に都市部で100点、郡部で80点までしか買えなくなっていた。」のである。
 戦局拡大に伴って、働き盛りの男子が戦争に駆り出され、国内の生産力は低下して、人々は耐乏生活を強いられた。中学生の菜葉服(なっぱふく)、女学生のモンペ服が制服となり、女学生は絣(かすり)のモンペをはいていた。18年10月21日には、文科系学生の徴兵猶予が解かれ、小雨そぼ降る神宮外苑競技場で、文部省主催の学徒出陣壮行会が行われた。夏休みを返上してふるさとの災害復旧に汗を流した、早稲田大学や明治大学の学生も、8万人の大観衆の中に顔をそろえたのである。人も物資も、戦線へ戦線へと送り出されていた。
 それ故、食糧増産は国民に課せられた使命として、田植えを終わって成長しつつあったイネの埋没・流失を、一刻も早く復旧せねばならなかったのである。

 (エ)ある1日の勤労隊割当(愛媛合同新聞より)

 松山市内中等学校の、7月31日まで勤労隊が出動する事態に呼応して、東予の今治から三島までの中等学校が参加するなど、参加範囲が広がりをみせている。当該市町村の男女はもちろん、隣接する地域から、文字通り各種団体の出動がみられる。「帰省学徒の奮起」、「女青も奮起(喜多地方)」、「僧侶も勤労」、「技術陣総動員(県農会)」「県勤労訓練所生の涙ぐましい活動」、「松山の5校東宇和に向ふ」など、まさに挙県一体となった復旧活動である。
 「女学生隊応援」の見出しがある。内容は「松山高等女学校生徒400名、城北高等女学校生徒300名が27日午前9時、伊予郡岡田村の災害地へ行き、稲おこしの勤労作業に従った。又松山技芸高等女学校生徒200名は温泉郡垣生村へ、済美高等女学校生徒300名は同拝志村へ行き、それぞれ稲おこし作業を行った。」となっている。「まるで軍隊同様に、現地の受け入れと勤労隊本部が連携した、一糸乱れぬ勤労奉仕であった。」