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河川流域の生活文化(平成6年度)

(2)久谷大橋と大橋町

 **さん(松山市大橋町 昭和8年生まれ 61歳)
 「久谷村が松山市に合併する時のことです。元県病院の副院長をされていた、坂本村の三好先生の助言で町名変更をすることになりましてな。河原町というのが松山にあるもんですから。うちの町で投票で決めたんですが、『河原分の分は除(の)けい。』とか『龍神にせい。』とかいろいろ出たんですが、『大橋はどうか。』と2票か3票多かったので、大橋町になったんです。」と町名変更の経偉を述べる。『久谷村史(⑧)』には、「昭和43年(1968年)1月久谷大橋起工式挙行。同年10月25日、松山市となる。」と記録されている。
 「昔の堰堤(えんてい)は、よう渡ったもんですが、両岸の基部だけですね、残っているのは。どちらも今は公園になっとります。堰堤も堤防も低かったな。あの公園の辺りが、200mに余って決壊したんです、昭和20年には。川の中央部が堰堤の下を抜けるようになっとりました。水なし川じゃけど、出水の時は、水が多うなったらすぐ上を越えてね。ごみが引っ掛かっても上を越えたんですよ。大橋は立派なもんで(写真4-1-14参照)、今は、水が橋を越えることなどない。」堰堤跡に立つと、対岸の延長上に、森松ゴルフ場の中心部を旧道が一部走っているのが見える。
 「最初の車を買った年(昭和41年)、長男が生まれた時、県病院からもんてきて、『今のうちじゃったら渡れる。』と思って渡ったら、エンジンへ水が入って、止まってしまいましてな。森松を回れば、そんなことないのに。」という堰堤は、出水の度に人々の通行を阻んだ。昔、お四国参りの遍路が、川の中の橋を渡るのに通行料を払った場所である。
 昭和18年の洪水は、御坂(みさか)川の決壊が強く印象に残っているようで、小村町の**さん同様に、北へ押し寄せてきた濁流を挙げる。旧拝志村の2か所(森之木と開発)の決壊で重信川左岸を突破した濁流は、源流山之内から急勾配を駆け下り、吉久で井内川の水を吸収して勢いを増したものであろう。流れの方向が南から西へ変わる辺りでの決壊となるから、上村宮の段から下へかけて、主要道路伊予・川内線をえぐるように流れ、重信川左岸堤防を突き抜けた後は、流れが右旋回をしたものと考えられる。久谷川(御坂川)から溢(あふ)れ出た水が、中野・小村で、流れを北向きに変えた。大橋町(旧河原分)でこれを目の当たりにした**さんは、「南の御坂川の土手が切れて、まほこに(まっすぐこちらに)来てな、茶色というよりは黒ずんだ泥水じゃった。」と記憶している。

写真4-1-14 久谷大橋と重信川

写真4-1-14 久谷大橋と重信川

橋の手前は堰堤跡。平成6年6月撮影