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河川流域の生活文化(平成6年度)

(2)凧合戦

 ア 凧々あがれ

 (ア)出世凧

 五十崎の凧合戦の起源は明確ではないようだ。しかし、藩政のころから旧暦5月5日に男子の初節句を祝い、立身出世を願って凧をあげていたらしい(端午の節句を別名凧節句という。)。その伝統を受け継いだのが現在凧合戦当日に行われている初節句神事と出世大凧あげである。愛媛大学名誉教授村上節太郎さんの著『伊予の凧・日本の凧(②)』に、出世凧と神事について、昭和45年(1970年)商工会の役員が集まって相談し、出世凧の製作は**が引き受けたとある。実は、当の**さんが出世凧の提案者でもあった。**さんはその提案の趣旨について次のように語っている。「昔は時の権力者がわが子の初節句を祝って凧をあげていたそうだが、今はもうそんな時代ではない。だれでも子供の将来を思う気持ちは同じである。だから1枚の凧に託してでも祝ってやるのが本当ではないか。しかも男女同権の世の中だから、男の子だけでなく、女の子も祝ってやる必要がある。」と。この提案に全員が賛成し、昭和45年初めて大きさ430cm×290cmの出世大凧が空に舞ったのである。

 (イ)凧で教育

 村上節太郎さんは「私は凧合戦を、学校教育に組み入れるとよいと、かねてから思っていた。竹の骨を削る手工技術、凧文字や図柄を描く書道、美術の学習、凧を貼(は)り、根つけをつけて狂い凧にならぬよう数学と物理学の実践、日本はもちろん世界各地にある凧の形や材料の地域性、伝統や独創性の調査、歴史地理の社会科勉強の楽しさ、快晴に厳寒に凧を上げて走り回る体力養成、気象学の勉強、合戦のルールを守り、フェアプレー精神の涵(かん)養、凧合戦を通して社交性、国際親善をはかるなど、凧合戦はまさに、知育体育徳育に結びついた総合教育である。(②)」と述べている。昭和49年(1974年)五十崎町教育委員会、同町観光協会共催の凧の研究会が開催され(村上さんも出席)、凧あげを五十崎中学校の学校行事に組み入れることになり、5月3日が中学生の凧合戦日と決められた。昭和50年(1975年)が第1回。創作凧、標準凧(165cm×135cm伝統の字凧)、ミニ凧の審査、女子生徒の凧踊りクラスマッチ、男子生徒は実際にガガリ(相手の凧糸を切る刃物)をつけ(写真3-3-5参照)、小田川を挟んで凧合戦を行った。まさに村上さんのねらいどおり、実に多彩であった。上記の研究会に出席した大瀬中学校長(当時五十崎中学校教諭)の話によれば、五十崎中学校の校務分掌には「凧主任」が置かれたという。「全国広しといえども、凧主任を置いたのは五十崎中学校だけでしょうね。」と校長は当時を振り返る。その後実施日を5月5日凧合戦当日に変更、行事の内容も多少変わったようだ。現状について五十崎中学校教頭に尋ねたところ、標準凧などの製作と審査は続いているが、創作凧づくりは廃止、男子生徒は自分たちで作った凧をあげるが、ガガリはつけず、合戦は行わない。凧主任ではなく、凧の係を置いているとのことであった。出世凧をあげ、学校行事として中学校が凧合戦に参加しているということは、五十崎の凧合戦の大きな特色であると言ってよかろう。

 イ 凧げんか

 「年中行事の凧合戦を五十崎地方では、戦前、凧喧嘩(げんか)と称していた。(②)」凧製作者の一人、**さんに戦前の凧喧嘩の思い出を語ってもらった。「五十崎方と天神方の対抗戦でした。対抗意識は強かったように思います。昭和29年(1954年)の合併(五十崎町、天神村、御祓(みそぎ)村の合併)当時もまだ残っていました。場所は豊秋橋からエノキまでの間、川幅は広く、風の関係でけんかにならないこともありました。そのようなときには、天神方はじっとしていてもよいのですが、五十崎方は川の中に入らなければなりません。ひっかかった凧同士のけんかです。しまいには、石を投げ始め、人間同士のけんかとなります。子供のころ凧のけんかよりも人間のけんかを見る方が楽しみでした。期日は旧暦5月5日、麦刈りのころでした。主催者などはなく、適当にいつごろから始めようやということだったようです。」同じ凧製作者の**さんは、「子供のころ凧合戦を見に行きたくて親にせがむと、許してはくれたが、時間を制限されました。旧暦5月5日ごろは養蚕の最も忙しい時期であり、その上麦刈りの時期です。子供も手伝わされました。わたしも小学校2年生ごろには弟を背負わされていました。」と語っている。昔の凧合戦のころは、ちょうど農繁期、農家では、子供でも手伝いで忙しい。まして大人たちには、のんびり凧合戦見物などという余裕などなかったに違いない。**さんの奥さんも「忙しくて見に行けませんでした。」と語っている。ちなみに凧合戦の日を5月5日の子供の日に改めたのは昭和35年(1960年)のことである(写真3-3-7参照)。

 ウ 凧あげで交流

 五十崎町観光協会は第5回大阿蘇全国凧上大会において、凧を通じて熊本県阿蘇町と姉妹縁組を結んだ。館報「いかざき」第276号(昭56.9.1)には「当協会も、昭和53年(1978年)第2回大会より毎回参加、阿蘇からも本年(昭和56年〔1981年〕)5月5日初めて5名の訪問があり、相互交流で親睦を深め、今後の縁結びとなったものです。(③)」と記されている。そのほか、日本各地の凧あげ大会に参加し、凧を通じての交流に努めている。平成6年度の観光協会通常総会資料によると、平成5年度事業報告に「第13回丸亀凧あげ大会」「岡山凧上げ大会」「第4回小豆島二十四の瞳全国凧あげ大会」「第17回大阿蘇全国凧あげ大会」という項目が載っている。一方、五十崎町でも五十崎日本凧あげ大会を開催している(平成6年が第4回となる。)。同町観光協会の話では、平成2年本県で開催された国民文化祭をきっかけとして翌年から実施したとのことである。
 町民待望の五十崎凧博物館(写真3-3-8参照)が落成したのは平成元年のことであり、この博物館も全国の凧愛好者との交流に一役買っている。また当地には村上節太郎さんの凧コレクション(村上邸に収蔵)があることも忘れてはならない。

〔参考〕
 「大阿蘇全国凧上大会」と「五十崎大凧合戦」は凧を通じて本日より姉妹縁組を結び、今後、両町民の友好と親書を図り永遠に凧による絆を強めていくことを宣言します。
  昭和56年8月4日
 大阿蘇全国凧上大会長
    阿蘇町長 竹原 末則
 五十崎大凧合戦会長
    五十崎町観光協会長 岡田 己宜
      館報『いかざき』(③)第276号より

写真3-3-5 五十崎凧博物館保存の「ガガリ」

写真3-3-5 五十崎凧博物館保存の「ガガリ」

平成6年7月撮影

写真3-3-7 凧合戦会場 豊秋河原

写真3-3-7 凧合戦会場 豊秋河原

平成6年7月撮影

写真3-3-8 五十崎凧博物館

写真3-3-8 五十崎凧博物館

平成6年11月撮影