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河川流域の生活文化(平成6年度)

(1)屋根付き橋とくらし

 近年、ベストセラーとなった「マディソン郡の橋」をきっかけに、屋根付き橋に注目が集まっているが、県下には、現在10の屋根付き橋があり、喜多郡・東宇和郡の肱川支流域に集中して分布している(図表3-2-2参照)。このうち、竜沢寺偃月橋(りゅうたくじえんげつきょう)(城川町)、弓削(ゆげ)神社遍路(へんろ)橋(内子町石畳(いしだたみ))、三島神社橋(野村町惣川(そうがわ))、御幸(みゆき)橋(河辺村)は、社寺に渡るために架けられたものであり、河辺村のふれあい橋・龍神橋は、公園・遊歩道の整備に伴い、最近架けられた橋である。河辺村の三嶋橋・帯江(おびえ)橋、内子町河内(かわのうち)の田丸(たまる)橋は、大正・昭和の時代に、地元住民の生活のための橋として架けられた。河辺村と内子町には、かつて10余りの屋根付き橋がそれぞれあったが、戦後、生活のための橋はその多くがコンクリート橋に建て替えられた。
 屋根付き橋は、京都府平安神宮や大分県宇佐八幡宮等の社寺にもいくつか残り、これらは、屋形(やかた)橋または鞘(さや)橋と呼ばれている(⑨)。しかし、住民の生活橋として使われ、また一地域に、このように多数の屋根付き橋が残っているのは、全国でも例を見ない。上記の橋の中で最古のものは、明治19年(1886年)に建て替えられた御幸橋であるが、その百年以上も前から架かっていたとされ、生活文化としての長い伝統を感じさせる。また、茶堂の分布等との重なりを考えると、肱川流域に共通した生活文化の存在が考えられる。
 生活橋としての屋根付き橋のある河辺村・内子町(特に旧満穂(みつほ)村)は、山間の峡谷に集落があり、聞き取りからも、炭等の集積や葬儀・祭礼用具保管、集会に便利だからということが、屋根を付けた理由ともなっており、その建設は、狭い平坦部において橋の空間を有効利用するためでもあった(写真3-2-8参照)。また、この地域は多雨で霧も多いことから、屋根をつけることにより、橋板が腐りにくくなり、橋が数倍長持ちすることも、屋根を付けた理由の一つであった。
 この項では、現在も生活橋として使用されている、三嶋橋と田丸橋に焦点をしぼって、橋とくらしのかかわりを調査した。また、谷筋沿いの集落として、次項の「谷筋をむすぶ交流」と共通の視点から、他地域との交通・交流等についても記した。

 ア 竹の瀬のシンボル三嶋橋

 **さん(喜多郡河辺村大字三嶋(みしま)字竹(たけ)の瀬 昭和7年生まれ 62歳)
 **さん(喜多郡河辺村大字三嶋字竹の瀬 大正10年生まれ 73歳)
 **さん(喜多郡河辺村大字三嶋字竹の瀬 大正5年生まれ 78歳)
 **さん(喜多郡河辺村大字三嶋字竹の瀬 昭和2年生まれ 67歳)
 **さん(喜多郡河辺村大字三嶋字竹の瀬 大正2年生まれ 81歳)
 「この三嶋橋(写真3-2-7参照)は、大正12年(1923年)建造で、それまでは石橋でしたな。石橋というのは、大きい石を50cm間隔くらいで置いて、その上をぴょんぴょん飛んで渡りよりましたのよ。牛や馬は川の中をぞぶらしてな(川に入ること)。橋は、四隅(しすみ)の柱がクリで、中はスギ、天井などの上物(うえもの)はマツで、橋板は西はクリ、東はスギとマツを使っとります。屋根は杉皮です。西と東で材質が違うのは、わたしらが通ってみても、西平(にしびら)(西側)は雨が降るといつもしまる(ぬれる)からで、橋板の真中を高くして両端を下げ、水切りをよう(良く)にしてあるのと合わせ、昔の人はよう考えとるもんじゃと思います。大工さんは惣川の人じゃと聞いとります。
 橋の名前が三嶋橋と言うのは、ここから上がったところの中居(なかい)に三嶋神社があるからで、橋の造りが他の橋と違って、四隅(しすま)付き(切妻(きりつま)型屋根でなく数寄屋造(すきやづくり)風)の屋根になっておるのは、神社に対する尊敬の念からしたんでしょう。建造時の寄付者を書いた板額が橋に掛けてありますが、それを見ると竹の瀬の者を中心に、神社の氏子全体でやっております。神社の幟(のぼり)をつける柱も、らんかんの所にさしております。また、この橋から上がる道が、昔の往還(おうかん)(街道)で、三(みつ)が峠(とう)を越えての、惣川や小屋(こや)との物流の中心でして、そんなことで、小屋の人がだいぶ寄付に名前を連ねております。
 わたしらが子供の時分に、お金持ちの自転車を担いで、三が峠まで持ってあがると50銭もろうて、大事な小遣いかせぎでした。峠を越えると惣川までは勾配が良くてそのまま降りれるんですが、逆に向こうから来ると傾斜がきついんで、自転車のブレーキが焼けるからと、木をくくりつけてブレーキ代わりに滑り降りて来る人もおりました。また、10月23日の三嶋神社のお祭りには、今でこそ御輿(みこし)と牛鬼くらいしか出ませんが、昔はお菓子や金物等の露店(ろてん)がだいぶ出まして、このあたり一番のにぎわいでした。この店の品物を境内まで持って上がるんも、金物はAさんの家、まんじゅう屋はBさんとこと言うように決まっておりまして、現金を得るいい機会でした。惣川や小屋から材木を持って降りてきた際には、丸太をひいてきた牛は橋を渡らさんようにしており、そこから人が担うて渡しておりました。馬は板にしたものを背負っておるので、そのまま渡っておりました。正月の酒は、こちらから惣川の土居酒造まで買いに行きよりました。」
 「橋のすぐ上流に権現だきと呼ぶ大岩があり、この岩が風をさえぎってくれるので、橋も長持ちしておると思います。この岩のてっぺんに竜王様、根元に秋庭(あきば)様がお祀(まつ)りしてあります。わたし(**さん)が七つくらいの時に、岩の根元の大きなカシの木のところで、太夫(たゆう)さん(神宮)を呼んで竜王様を拝んでもらいました。この時に一斉に蛇が十数匹出てきたことを、はっきりと覚えております。」
 「昔は、この竹の瀬と神納(しんのう)をあわせた北平は、上浮穴(うけな)郡でして、北平・小屋・川上で浮穴村と言よったんです(昭和18年〔1943年〕に北平・川上が肱川村、後に河辺村に編入、小屋は惣川村、後に野村町に編入)。そんなこともあって、笹(ささ)が峠(とう)を通って小田町とのつながりの方が強うて、役場も小田寄りの神納にあり、郵便も小田の局からの配達でしたな。この竹の瀬は、ここらあたりでは一番平坦でしたんで、神納が東京じゃったらこの竹の瀬は大阪みたいな所で、昭和の初めまでは、紙漉(かみすき)工場が3軒、銀行も医者もありまして、宿屋も3軒ほどあって、『ちょんがり』というなにわ節唄いがよく泊まって、近在から皆、聞きに来ておりました。戦前までの主産業というと、ミツマタが中心で、ここらあたりの山はミツマタばかりでした。数年植えると嫌地(いやち)になって(土壌がやせること)、荒らしてからまた焼いて、しばらくソバやトウキビ(トウモロコシ)を植えてから、またミツマタを作っておりました。大部分の者はその曰くらしでしたから、スギなどの植林は資産家しかしませなんだなあ。戦後は、林業とシイタケ栽培が中心になって、自動車で鹿野川・大洲方面との物流が主になりました。」
 「戦後、自動車道が発達しだしてから、往還を利用する人も無くなり、今ではこの橋を利用するのは、わたし(**さん)だけです。以前は4~5年に一度、屋根のふき替えをしておりましたが、その際には竹の瀬と、このうえの中居の集落の者でやっておりました。しかし、中居にもコンクリート橋から自動車道が上がるようになって、なかなかふき替えのための人手を集めるのも難しく、近年はトタンにしておったんです。しかし、文化財としての価値を認め、屋根の修復を村費で全額負担していただき、杉皮に戻りました。杉皮は、小田・久万のみがき丸太の皮を使いましたが、トタンをはいでみると雨が漏っておったのか、下の棟木(むなぎ)もだいぶ腐っておって、それも取り替えました。『マディソン郡の橋』をきっかけに、全国からこの橋を取材にこられるようになって、歴史の古い御幸橋よりもこの三嶋橋を中心に取材する人もおられました。不思議に思って聞くと『生活のための橋として存在していることが貴重なんです。』という話で、わたしどもも改めて橋を見直すとともに、この竹の瀬のシンボルとして大事にしていきたいと考えております。」

 イ 麓川にかかる屋根付き橋

 **さん(喜多郡内子町河内字清田 大正12年生まれ 71歳)
 「この河内にある田丸(たまる)橋(口絵参照)は、もともとは土橋で、昭和18年(1943年)の洪水で流れた後、屋根付き橋に架け直したんです。ピーヤ(橋脚)があると橋が流れやすいということと、その当時は、この近辺で木炭の生産が盛んで、検査のために炭を集積する場所がいるということが、屋根付き橋にした理由でした。また、屋根を付けると耐用年数が延びるということもあります。費用や材本は利用する近辺の10戸ほどで出し合い、河辺村や町内の屋根付き橋をあちこち見て、地元の大工さんに、架けてもらいました。建材のほとんどはスギで、橋板はクリを使っております。屋根は杉皮を使っております。過疎で人手が少なくなったことから、一時トタンにしたことがありますが、皆の要望と町の補助もあって、また杉皮に戻しました。橋以外にも、昔は飛び石が6か所ほどここにもありまして、道だけが両岸まで続いております。
 田丸橋からの道は、昔の満穂(みつほ)村から立川(たちかわ)村(両村とも昭和30年に内子町と合併)に抜ける主要往還で、牛の買い替えや種付けに行く人や、内山郷では一の宮とされる立川村川中(かわなか)の三島神社へ参拝する人で、以前は毎日たくさんの通行者がありました。同じ山村どうしということで、内子の街中よりも、満穂と立川の間での姻威(いんせき)が多く、祭りや何やでの親戚どうしの行き来も多かったですな。もちろん、全部徒歩です。
 冠婚葬祭については、わたしの父が早く亡くなりましたんで、20歳になる前から村のつきあいをせんといけませんでした。以前は、人が亡くなった時は、近隣の『ひきあい』(組内(くみうち))が葬儀のほとんどの世話をしましたが、当時は、車も電話も無いので、まず二人ずつ連れだって遠方の親戚に知らせに行きます。また、どの家でも、わら3荷、たきもの3荷、むしろ10枚は用意しておくものとされ、お棺の近くから、生丸太・たきもの・わらの順にかぶせ、上をぬれむしろで囲って、火が吹き抜けないようにして、各集落ごとの決まった場所で火葬にしておりました。山間の小集落として、このような葬儀関係のことや何かで集まったりする必要がある時にも、屋根付き橋ですと便利ではあったんです。今では、自動車道がどこでも抜けており、田丸橋を使うことは多くありませんが、この地域のくらしぶりを示す大事なシンボルとして、橋が残っていてもらいたいものです。」

写真3-2-7 現在の三嶋橋(河辺村竹の瀬)

写真3-2-7 現在の三嶋橋(河辺村竹の瀬)

平成6年10月撮影

写真3-2-8 神納の帯江橋(昭和26年建設)

写真3-2-8 神納の帯江橋(昭和26年建設)

農機具や近辺のバス停のベンチ等が置いてあり、倉庫としての屋根付き橋の役割がうかがえる。平成6年10月撮影