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河川流域の生活文化(平成6年度)

(1)開閉橋長浜大橋

 ア 長浜大橋の特質

 長浜大橋は、昭和8年(1933年)に着工、昭和10年8月に完成したもので、現役の道路可動橋としては、全国で最も古い、橋長226m、幅5.5m、開閉部18m、バスキュール式と呼ばれる跳開(ちょうかい)橋である。開閉部の反対側に「おもり」を置き、開閉の負担を軽くする、天秤タイプの構造であり、跳開橋の仕組みとしては全国で唯一と言ってよい、珍しいものである。
 総工費29万円、現在に換算すれば20億円近い費用をかけ、当時の最先端の技術による橋であったが、まもなく建造60年を迎える今日では、近代土木遺産としての文化財的価値が高まっている。橋建設の実現には、弱冠31歳で町長となり、県議会議長も務めた、当時の西村兵太郎(にしむらひょうたろう)町長の力が大きいと言われている(④⑤)。
 橋は、県道川之石(かわのいし)-長浜線の一環として架橋されたもので、長浜と対岸の沖浦(おきうら)をむすぶ。可動橋・開閉橋としたのは、全国のそれと同じく、陸上交通と水上交通の接点であったからである。当時は、肱川の筏(いかだ)流しはまだまだ盛んであり、橋よりやや上流右岸に「江湖(えご)」と呼ばれる入江があり、上流から集積された木材等は、ここで一度陸揚げされてから、京阪神方面に積み出された。このため、「江湖」までさかのぼる帆船・機帆船が多く通行するとともに、河口の砂利が結晶片岩で質のよいことから、戦後30年代に至るまで、多くの砂利採取・運搬船が肱川を通った。『長浜町誌』には、開通から昭和29年末までの、長浜大橋の開閉回数は、合計62,433回、通過船舶数は87,280隻との記載がある(④⑤)。

 イ 長浜大橋ができるまで

 **さん(喜多郡長浜町沖浦 大正3年生まれ 80歳)
 「わたしは、沖浦で生まれ育ちましたが、当時の沖浦は、対岸の長浜と対照的な半農半漁の寒村じゃったですよ。沖浦観音(おきうらかんのん)(瑞龍寺木造十一面観音立像、国指定重要文化財)の縁日の1日だけのために、30杯余りをつないだ舟橋を、4~5日かけて作っておりました。わたしも消防組で作業に出たんですが、長浜と沖浦の両岸は3.5mほどの干満があるから筏にして、舟の方は無償で(大きさを合わせるため)沖浦の舟ばかりを使い、材木を上に渡して、臨時の橋にしておったわけです。松山や卯之町・川之石からも人出があって、5万人ほどは来よったでしょうかなあ。もう愛媛鉄道がありましたからなあ。
 ふだんの通行は渡し舟で、ここは長浜-川之石聞の県道の扱いでして、県経営で無料で、あっちとこっちの岸に2杯の舟がありました。行って戻ったらおよそ30分、渡し守が常駐しておって、それは長浜では川仲瀬組、わたしらの方は村の組合である沖浦組合が請け負っておりましたな。舟は、長さはキールが18尺(約6m)、幅は人が3人座れるくらいじゃったろうか。人と持てるだけの荷物を乗せて、12、3人がせいぜいでしたな。長浜に夜遊びに行ったら、帰りは船頭さんを起こすんで、11~12時ころまでは、船頭さんは寝られんかったと思いますらい。長浜は明治の前から商家が多くて、万事派手でしたが、川を挟んだ沖浦は所得が少ないから冗費も少ない。そのせいか、沖浦は家が代々続いておりますが、商売の盛衰もあるから、長浜の本町あたりは、案外旧家が少ないでしょう。わたしの家は漁師で、当時は親船つきのまき網・鯛網も盛んでしたが、魚は長浜の市場に出しておりました。」
 「わたしは、徴兵検査は甲種合格じゃったんですが、急性肋膜(ろくまく)をやりまして兵役免除で家におる時、昭和8年(1933年)の4月ころ測量の手伝いに来てくれんかということで、大橋建設の最初からかかわっとったです。橋脚の所は、板などで囲って中の水を抜いて、井戸みたいに掘っていったんじゃなかったでしょうかなあ。沖浦側は岩盤が急勾配(こうばい)で十分基礎を打ち込めず、橋脚の上のコンクリートを後で除(の)けたほどじゃったですが、長浜側は40m打ち込んでも岩盤に届かんで、さらに松の丸太を35尺(約10m)ほど打ち込んでコンクリを巻いとるはずですよ。橋桁は(トラス=三角形の上部構造)、クレーン等は使わず、沖浦の洲(す)の所で組み立てて台船に載せて、満潮を測って橋脚まで持っていって、潮がひくのと同時に載せたんです。何とも偉いもんじゃなあと思って見ておりましたな。この工事を請け負った細野組の監督さんは、3人は死者を見込んでおったのに1人も出んかったということで喜んでおられました。」
 「橋ができてからは、長浜・沖浦のほとんどの者が参加してお祝いをし、橋の歌も作って提灯(ちょうちん)行列をしました。沖浦から自転車で渡れるようになり、わたしも長浜の工場で働くようになっとりました。12時間勤務の2交代制でしたけん、橋がなかったらやっておれませない。若い者は遊ぶことが多くなって、不経済な橋じゃったかもしれませんが。
 戦時中は、松山への通り道ということもあり、前後8回空襲も受けました。橋にロケット弾が打ち込まれ、橋桁のところに現在も弾痕(だんこん)が残っとります。沖浦側にはイワシ網の同じような作業小屋が、40戸ほど並んでおりましたから、こんな立派すぎる橋もかかっとるということで、軍需施設と間違えたんかも知れませんな。橋は、最初はネズミ色じゃったんですが、終戦後赤色になりました。昭和18年(1943年)の大水害の時も、これだけ河口にありますけん、橋が水につかるということはなかったですな。」

 ウ 橋の開閉に携わって

 平成6年11月10日に開催された「動く橋シンポジウム」の記念作文集(⑦)に、小学生の母の語ったこととして、以下のような記載があり、昭和30年代の橋の様子を伝えている。
 「お母さんが子供のころには、1日に何回も赤橋が上がっていたんだよ。朝も赤橋が上がる時がさいさいあったよ。冬、(肱川)あらしがでている時なんか、橋が下りるのを待つ間、寒くてたまらなかったよ。みんなで足踏みして、我慢していたんだよ。朝、橋を渡っていて、橋が上がる合図のベルが鳴りだすと、みんなでワーと言って、一生懸命走って渡ったんだよ。その時に、『おじさん上げるの待って』と大声で叫びながら走ったこともあるよ。子供のころには、荷物を積んだ船が、よく川を行き来していたんだよ。」
 昭和52年に新長浜大橋が開通した(長さ333m、幅員10m、国道378号の自動車道橋梁で、町内では、旧長浜大橋を「赤橋」と呼ぶのに対し、「白橋」と言っている)。県としては、維持管理の費用もあり、当然のことながら旧長浜大橋を撤去することで、話が進んでいたが、すでに町のシンボル的存在となっていたことから、町民・町役場あげての陳情により、県内唯一の可動橋は残されることになった。現在、橋の両側の道路は町道と主要地方道になっているが、橋そのものは今も県の所有である。また、それまで県職員が常駐し開閉に携わっていた運転小屋も、町(港務所)で管理することとなった。町職員のいない休日や午後5時以降の時間外の橋の開閉を委託されたのが、前述した**さんである。
 「今は、橋を通る船はほとんど無く、橋を上げる時は、港務所へ申し込みすれば上げてもらえることになっとります。主には、この上にある造船所に出入りする船くらいですなあ。最初は休日だけということじゃったんですが、利用者は休みなしですけん、いつのまにか365日拘束されるようになってしまいました。上げるのは、家が近くじゃからまだいいが、肱川あらしの時は、寒いのが先に立って息がつまりますわい。ただ、わたしが開閉をできんようになった時、このようなことをほかにやってくれる人がおらんので、町としても心配しておるようです。NHKの全国放送等でこの肱川あらしと赤橋が、よく放映されるんで、テレビで見たぞ言うて、50年ぶりに同級生が訪ねてくれたりもします。新しい『白橋』は、自動車が通るにはいいが、生活道路としては、遠回りになるし勾配はきついしで、不便ですなあ。徒歩や自転車で、町中に入るのはいまでも皆、この橋を利用しておりますよ。
 現在は、実用性よりも橋が上がるという意外性が、この長浜大橋を有名にしとります。(長浜海の祭典-8月第1土・日曜日で)橋にイルミネーションがかけられ、役場としても橋を生かした町づくりを考えておるようです。まもなく60歳を迎える橋ですんで、大事に扱うて、その価値を生かしてやりたいですな。」
 前述の「動く橋シンポジウム」は、長浜町が主催し、同じく可動橋を持つ福岡県大川(おおかわ)市、佐賀県諸富(もろとみ)町、徳島県松茂(まつも)町はもとより、宮城県・埼玉県など県内外から300名以上が参加し、大きな成功を収めた。シンポジウムで、特に話題となったのは、生活橋である一方、文化財的な高い価値を持つ長浜大橋を、単なる観光資源でない町の宝・財産としてどのように生かすかということであった。その中で長浜町長が発言されているように、長浜大橋に象徴される、子や孫に残すべき古きよきもの、心のよりどころを大切に、新しい町づくりが進められることが、今後の地域の発展を生み出していくのではないだろうか。