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河川流域の生活文化(平成6年度)

1 橋がむすぶくらし

 肱川流域に架かる橋は、支流を含めると非常に多く、小田川の豊秋(とよあき)橋(橋長143.4m)、知清(ちせい)橋(平成6年完成、橋長98.2m)、矢落(やおち)川の生々(せいせい)橋(橋長177.4m)等の著名な長大橋も多くあるが、この項では肱川本流の河口から鹿野川ダムまでの、中・下流の22の橋を取り扱う(図表3-2-2参照)。
 橋は、下部の橋脚(きょうきゃく)・橋台(きょうだい)と、上部の橋桁(はしげた)より構成される。橋桁の材質による分類では、木橋、石橋、鋼橋、コンクリート橋、合成橋などに分けられる。コンクリート橋は、コンクリートだけでは荷重による下に引っ張られる力に非常に弱いので、鉄筋かPC鋼線で補強した、鉄筋コンクリート(RC)橋か、プレストレスコンクリート(PC)橋に分けられる。合成橋は、鉄筋コンクリートの床板と鋼材の桁とを緊密に結合させ、床板も桁の一部として主桁の力を分散させたものである(①②)。
 構造形式による分類では、桁橋、トラス橋、アーチ橋、ラーメン橋、斜張(しゃちょうきょう)橋、吊橋(つりばし)等がある。桁橋は、最も一般的に見られ、主桁を水平に架け渡したものである。この場合、主桁の断面の構造から、I桁(鋼材のみの主桁の場合はプレートガータとも言う)と箱桁に分けることもある。トラス橋は、細長い部材を三角形の骨組にして組み立てたものである。ラーメン橋は、桁と橋脚を剛(ごう)結合し一体化させた橋で、これを曲線化していけばアーチ橋につながる(①②)。他の橋の構造に関しては詳述しないが、県下の本四連絡橋の内、大三島橋はアーチ橋で、建設中の多々羅大橋や来島大橋は、長大な吊橋である。また、橋台・橋脚と橋脚の間を径間(けいかん)というが、桁橋で橋脚があって二径間以上にわたって主桁が連続したものを、連続橋と言い、両端で単純に支持したものを単純橋と言う。長大橋の場合、単純橋を並べていくよりも、連続橋の方が橋脚の間を広く取ることができる(①②)。
 また、近代橋梁以前の橋としては、板橋、土橋があり、大河川には沈下橋、流れ橋が多かった。丸太等を橋桁にしてその上に土を盛って平らにしたのが土橋である(口絵参照)。沈下橋は、平常でも橋桁が水面から1m程度しか上になく、増水時は水中に没してしまう橋であり、高知県の四万十川には現在も多くあることで有名である。流れ橋は、木造の沈下橋で、増水時には橋桁や橋板が流されることを前提として作ったもので、ワイヤーなどで橋板等をつなぎ、すぐ回収できるようにして、流出するごとに架け直したものである。かつては、肱川にも多くの沈下橋、流れ橋があったが、現在残っている沈下橋は柿早(かきはや)橋と白滝(しらたき)大橋、冨士橋、板野橋だけである(写真3-2-1参照)。
 図表3-2-2から見ると、肱川の中・下流に架かっている橋は、桁橋、鋼橋、連続橋が多いことがわかる。しかし、後述するように戦前はトラス橋が多くを占めており、また最近では、新長浜大橋や小田川の豊秋橋のような、プレストレスコンクリートによる橋が増えてきていることから、肱川に架かる橋も、時代とともに変遷していることがうかがえる。
 同じ図表から、現在の橋は、ほぼかつての舟による渡しのあった地点にあることもわかる。このことから、橋が昔からの交通の要衝にかかり、現在も地域住民の生活に密着したものであることが理解できる。しかし、近代の土木技術の発達までは、肱川のような大河川への架橋は非常に困難であり、住民にとっては夢物語と考えられていた。肱川本流への鉄・コンクリートによる永久橋の架橋は、大正2年(1913年)に大洲町と中村を結ぶ肱川大橋を最初とする。続いて、昭和5年(1930年)に大川(おおかわ)橋が完成し、長浜大橋、大和(やまと)橋、逆(さか)なげ橋、鹿野川(かのがわ)大橋の長大橋が昭和初期に、相次いで建設された。これらの橋の多くは県道として建設され、県の事業として建設された。市町村規模で行うには不可能な、ばく大な建設費が必要だったからである。肱川大橋・大川橋・長浜大橋は鋼橋のトラス橋であり、長期間使用されたこともあって、その独特の形状は地域のシンボル的存在ともなった。他の3橋は鉄筋コンクリート製であったが、逆なげ橋、鹿野川大橋は昭和18年(1943年)の大水害で流出し、戦後架け替えられた。
 県の事業以外でも、昭和10年代、20年代に、峠(とうげ)橋、慶雲寺(けいうんじ)橋、畑(はた)の前(まえ)橋、五郎(ごろう)橋、父(ちち)橋、赤岩(あかいわ)橋等の多くの橋が架けられているが、これらはいずれも、その集落の負担(金銭・労力)で架けられたもので、木造の流れ橋、沈下橋であった(*1)。これらの架橋は、国鉄の開通や道路整備にともなう肱川の河川交通の衰退と同時期であることから、対岸の道路に向けて橋の重要性が増したためであろうと考えられる。永久橋でなくとも橋が架けられたことで、交通は非常に便利になったが、増水の度に流される橋の修復は、地域の人々にとって大変重い負担であった。これらの流れ橋は、昭和30年代・40年代に、次々と永久橋に架け直された。永久橋による対岸への自由な往来という、肱川の本流沿いに住む人々の長年の夢がかなえられたのは、つい数十年前のことだったのである。


*1:峠橋、慶雲寺橋については、常磐井忠伽氏の『肱川とむら(③)』に詳しい記述がある。

図表3-2-2 肱川本流に架かる長大橋、及び支流に架かる屋根付き橋の分布

図表3-2-2 肱川本流に架かる長大橋、及び支流に架かる屋根付き橋の分布


肱川本流の長大橋一覧

肱川本流の長大橋一覧

番号は前図に対応。竣工年は上が現在の橋のもの、下が最初の橋の年代(Sは昭和、Tは大正の年代。)。

写真3-2-1 白滝大橋

写真3-2-1 白滝大橋

平成6年8月撮影