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河川流域の生活文化(平成6年度)

(3)五十崎河港の昔と今

 ア 昔栄えた下宿間の「亀の甲」

 五十崎町中央公民館に、昭和60年2月14日「先輩に聞くふるさとの昔」のテーマで五十崎町下宿間の**さん、**さん、**さんに聴取したテープがあり、これよりまとめる。
 「60年前ころには東宇和郡小屋・北平(河辺村)・中居谷(肱川町)等の交通運輸はすべて馬の背によったもので、農産物、林産物などは現在の肱川町、元の宇和川村の通称『馬の針』や白岩峠を越えて、奈良野を通って下宿間『亀の甲』に出て一休みするのでした。そして、平岡、五十崎、内子へと運んでいた。従って『亀の甲』には酒店あり蠟座あり、飲食店あり雑貨屋、舟宿などがあって、一集落をなしていろいろの商取引をするところであった。小田川を上ってきた川舟は、内子町知清(ちせい)までの舟便の途中で中休みをしたものである。宇和川村、中居谷、福岡、御祓(みそぎ)の木材はすべて『亀の甲』の浜まで運搬して筏に組んだのである。宿間、福岡、大久喜(おおぐき)の人々が用事を済ませるところとして発達していた。
 明治40年(1907年)ころの『亀の甲』は、船着場があり、6~7軒の店屋があり大正初めころまで繁栄していた。当時は、陸路はなく舟が唯一の輸送機関でした。
 『亀の甲』へは、河辺方面(山鳥坂(とさか)の泉峠、新田、福岡の弦巻(つるまき)経由)や肱川方面(福岡の馬のバリ、奈良野経由)から、毎日木材、竹、木炭、コウゾ、繭などを馬で運び、舟や筏で長浜方面へ輸送していた。
 船着場は、『亀の甲』が終点でしたが、筏は内子方面から流していた。そのため筏流し人は、和田(内子)方面の人が多かった。帰りは筏に積んでいた自転車に乗って帰っていた。大野鍛冶屋の表にエノキがあり、そこが船着場としていつも2~3隻つないであった。また、大洲の市や八幡神社の祭には、屋形付きの帆かけ舟を利用していた。そのころ大野幾三郎さんが酒屋を始め、精米は水車でしていた。
 谷川に架かっている橋は、当時、亀田谷蔵さんが、大島から舟で持ち帰った切り石(長さ2m、幅40cm、厚さ30cm)を2本寄付して架設したもので大変喜ばれた。
 しかし、その酒屋も開業して3~4年で倒産した。当時、酒屋は小売で帳付けのため、資本がなくなり長続きしなかった。また、酒屋があった関係で下宿間には、『樽屋(たるや)』が多くあった。毎年、長浜の豊茂(とよしげ)、櫛生(くしゅう)方面へ、酒樽(5升、1斗樽など)約300個を出荷していた。また、みそ、しょうゆ樽などは、大洲、八多喜方面へ出していた。長浜からは、塩などの必需品が、五十崎には牛を舟で上げていた。嫁入りの時にも舟を利用した。
 当時の店屋は、牛馬商、コンニャク屋、履物屋、散髪屋、煙草屋、飲食店があったが、宿屋はなかった。毎日日帰りのため泊まることはなかった。泊まるときは、舟の中で寝ていた。また、店屋の間に、馬つなぎ場があって、馬引きが馬をつないでは、昼食をとった。弁当は、トウキビ飯で、地元の人は、そのトウキビ飯がめずらしく、よく麦飯と交換して食べた。
 明治37年(1904年)8月に鳥越の国道51号(現国道56号)が開通し、陸運が盛んとなって、河川の利用が寂れ、『亀の甲』部落の店屋も自然閉鎖された。」と語っている。

 イ 女性からみたふるさとの思い出

 **さん(喜多郡五十崎町古田  大正3年生まれ 80歳)
 **さん(喜多郡五十崎町妙見町 明治43年生まれ 84歳)
 「五十崎の春秋2回の牛市には、地元はもちろん野村、郡中さらに土佐、九州から牛や馬が、広い駄場(現在の久保田歯科医院のあたり)に集まり盛大に行われていた。河原には屋根を支える柱だけの牛、馬をつなぐところがあり、市の時には町中大変にぎやかで特に飲食店、料理屋は大繁盛。わたしの家の隣が飲食店でしたが、大勢のバクロさんがお酒を飲みながら独特の手振りで売買していたのをよく見ました。当時牛は、川舟ではなく歩かせて連れてきていました。」
 このことについて『五十崎町誌(⑪)』は、春秋二季の四国名物の五十崎牛馬大市には数知れぬ牛馬を舟積みして荷揚げしたのは小田川水運であったと記している。
 当時農家は牛馬を飼育して、駄肥(だひ)(牛馬の糞(ふん)を肥料に)をとり、耕作に牛馬を使い、荷物の運搬をしたり、肥育して利益を得るほかに、いわゆる「子だし」(子牛を売ること。)をして利潤を得ることも計画していた。特に和牛は、農耕に欠くことのできぬものであったが、耕作は耕うん機、運搬は自動車などに急変して和牛は衰退していった。農家が飼育する子牛は春秋2回の五十崎牛馬市で求めたり、駄屋替え(親牛と子牛の変換)によっていたが、300年の伝統を誇る牛馬市も昭和43年(1968年)に遂に廃止された。
 「毎年早春には必ず中町裏の掛け小屋で一週間から10曰くらい阿波の伝十郎や源之丞の操り人形芝居がありましたが、それらの諸道具や人形遣いの人々も『帆かけ舟』で、赤や白の幕を張りめぐらして、笛や太鼓でにぎにぎしくやって来ておりました。当時は芝居のほか活動写真や市がたくさんあって、みんなそれが楽しみで、小遣いを貯めてお重箱の弁当をもって行っていました。そのためその時間帯は町の中を歩いている人は少なく静かでした。
 五十崎町に催し物があるときは、成能、森山、坂石等の人々は舟に乗ってきて大市見物や芝居見物をし、宿泊は舟の中で団体で炊事をして楽しく何日も過ごしていました。この催しは、五十崎町だけで、近郷では見られませんでした。」『五十崎町誌(⑪)』によると、催しをする場合には、殿様の許可が必要で昔から五十崎町だけ許可されていたと記している。なぜ五十崎町だけ許可されたかは定かでない。
 「五十崎町には、大久喜に昭和鉱業株式会社大久喜鉱業所があって、銅の埋蔵量、品質ともに全国屈指を誇っていました。また、従業員には本町出身の人が多く、本鉱によって町民の受ける利得も実に大きかったようです。また、紙工場、製糸工場もあり、催しのない日でも夜の町は今と違って大変にぎやかでした。そのため町には芸者さんたちが多くおりまして、仕事を終えてから川舟で鳥首にある青島さま(女の神様)へお参りに行っていたのをよく見ました。」と語る。
              鉱山豪気節          「五十崎町誌(⑪)」より
   一つトセ 人もよく知る大久喜の鉱山節をうたやんせ   ソイツア豪気だね
   二つトセ 古田の鉱山から銅が出る大久喜鉱山銅の山   ソイツア豪気だね
   三つトセ 見れば見るほど胸がわく五十崎の赤提灯    ソイツア豪気だね
   四つトセ 夜の夜中に驚かすストーム大将はげちゃびん  ソイツア豪気だね
   五つトセ 意気だ元気だ大久喜の若いおいらは銅探す   ソイツア豪気だね
   六つトセ ムッソリ太った鉱長さん今じゃ昭和の宝人   ソイツア豪気だね
   七つトセ 何年掘っても尽きやせぬ大久喜鉱山万々歳   ソイツア豪気だね
   八つトセ 山の上から下見れば内子の街の灯が招く    ソイツア豪気だね
   九つトセ 恋をするなら大久喜の若いおいらに惚れてみろ ソイツア豪気だね
   十つトセ 年はとっても負けやせぬ意気と元気と仕事では ソイツア豪気だね

昭和10年(1935年)~15年ころの全盛期によく唄われていたそうである。この大久喜鉱山も鉱脈不足、価格低下などにより昭和46年(1971年)3月やむなく閉山された。
 「近所の年配の方ですが、五十崎に何度も来て印象が良かったのでしょうか、五十崎が大変気に入って、お嫁にいくなら五十崎へ行きたい。五十崎の人であれば相手の人はどんな方でも良いといってお嫁に来られたそうです。今でも自分の考えに誤りはなかったと語っておられ、五十崎の住民として大変うれしい話です。」と語る。