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河川流域の生活文化(平成6年度)

(3)大洲の伊予生糸作り一筋に

 ア 糸作りの道を70年

 (ア)大正・昭和前半の糸づくり~蚕糸恐慌の波をくぐって

 **さん(大洲市常磐町 明治43年生まれ 84歳)
 **さんは、旧久米村阿蔵の農家に生まれた。大正10年(1921年)、11歳のとき、叔父の養子となった。養父は製糸業を営んでいたので、**さんは、大洲尋常高等小学校を卒業後、ただちに家業の製糸業に従事した。
 **さんは、まず、大正から昭和前半時代における一番強い思い出として、「大正8年(1919年)には、10貫(37.5kg)、400円の生糸が4,000円に暴騰しましたが、翌年は、また元に暴落した時のことです。暴騰のときに銀行から2,000円借りた者は、翌年の暴落のため返済できず、家や土地を手放す者が続出したものです。それでも大正は、まだ良かったほうでした。昭和の一けた時代は、もっとひどかったですよ。昔から、『財産を潰すんだったら糸屋をやればよい。』といわれたもんですわい。」と、第一次世界大戦後に起こった蚕糸恐慌から昭和5、6年(1930、31年)の経済恐慌(*5)に翻ろうされたころのショックを振り返っている。
 養子先も昭和10年(1935年)に倒産し、多くの家屋や山林を手放したが、同13年には再建した。
 **さんは、このような修羅場をくぐっで昭和14年(1939年)には、足踏繰糸(あしふみくりいと)器械18台を購入して独立した。つづいて、大洲地方の小規模な個人経営業者32人でもって、大洲屑繭(くずまゆ)整理同業組合を結成し、業界の団結をはかった。

 (イ)戦後、波乱万丈の歩み

 **さんは、昭和19年(1944年)、海軍に召集され、佐世保海兵団に入隊したが、翌20年には終戦で復員し、ふるさとの大洲に帰った。留守中は、奥さんが繰り糸を続け蓄えを残してくれていた。
 昭和24年には、戦中戦後の統制が撤廃され、座繰(ざぐり)器械が許可(それまでは足踏器械)されたので、まず11台、あとで10台計21台を購入して操業を始め、戦後の復興の波に乗った。
 販路は、養父が、これまでに京都や金沢方面に開拓していたので、何かとやりやすかったという。
 ところが、昭和33年(1958年)には、**さんが連帯保証人となっている相手が倒産したため、遂に倒産の憂き目に遭ったのである。**さんは、「わたしの人生を振り返って一番しんどかったのは、やはり倒産でした。もう一週間くらいは、どうしてよいやら途方に暮れ、落ち込みましたよ。倒産しても器械は残っとるのですから、かえって、やる気が出てきて、がむしゃらに一生懸命働きましたわい。繭副蚕糸(*6)の仲買も大分・熊本・鳥取・徳島・岐阜など各地を回り、繭があれば、どこへでも行って取り引きしました。お陰で1年半くらいで3千万円もあった借金の返済が出来ました。」と、倒産の苦境を切り抜けたころの様子を語っている。
 また、蚕糸取り引きの上では、「糸の見本を取り引き相手に送る場合、わたしは正直に送りましたよ。ほとんどの者が糸の見本を実物より良く見せるため、糸を磨いて光沢を付けて送りましたが、わたしは、正直に糸そのままの見本を送って取り引きしました。相場の変動のはげしい糸の取り引きですが、やはり信用が大切です。人をだましてはいけません。人生は信用が宝です。」と、長い蚕糸業の歩みを通して貫いた信念を語っている。

 (ウ)80歳まで大洲最後の糸を引く

 **さんは、大洲地方の製糸業が廃業していく中で、座繰器械3台、従業員3人によって平成2年まで操業を続けてきた。**さん自身も、糸の揚返(あげかえ)し(繰り糸を繰枠に巻きなおす作業)をやっていた。従って、**さんは、大洲地方において金子製糸とともに、最後まで糸を引いた製糸業者(個人企業)の一人であった。座繰器械の3台は、愛媛県繭検定所が自動機械に切り替えた際、払下げを受けた伝統ある器械で、今なお十分使用できるものである。また、紬(つむぎ)の手織機(ておりばた)で最近まで紬帯を織っていたが、従業員の女性が病気になったため休止している(昭和49年のオイルショックころまで紬の手織機5台で紬帯を織っていた。)(写真2-2-30参照)。

 (エ)蚕供養塔を建てる~製糸一筋60年記念

 **さん方の庭には、写真2-2-31のように、立派な「蚕供養之塔」が建てられている。この供養塔は、昭和56年(1981年)7月、**さんが、蚕糸業60周年を記念して、青年時代からの仲買人の友人(明治39年〔1906年〕生まれ)と二人で建てたものである(この時の落成の様子は愛媛新聞にも報道された。)。**さんは、「今日まで60年間にわたって蚕糸業の生活をしてこれたのは、お蚕さんのお陰ですから、『お蚕さんに感謝の気持ちを込めて供養しよう』、と友人と相談して供養塔の建立を思い付いたのですよ。」と、製糸業60年記念の節目における感謝の思いを振り返っている。**さんは、今もなお、真綿を加工して綿帽子を作り、毎年11月におこなわれる愛媛県の物産展(「えひめ産業文化まつり」)で販売し、「軽くて肩が凝らない」と好評を得ている。平成5年の物産展では5、60個ほど売れたという。
 ここにも、大正から昭和・平成と七十有余年にわたり、伝統的な座繰製糸一筋に、波乱に満ちた人生を切り開いてきた**さんの、やさしい心遣いがうかがえよう。

 イ 大洲の製糸工場支えて44年

 **(大洲市大洲 昭和5年生まれ 64歳)
 **さんは、大洲市平野に生まれ、平野尋常高等小学校を卒業後、弓削商船学校(現弓削商船高等専門学校)に進学し、将来船員となって「海の男」に生きることを目指した。しかし、終戦のため船員の道をあきらめて大洲に帰郷し、大洲農業学校に編入学した。

 (ア)蚕糸のスタート

 昭和24年(1949年)、新制高校となった大洲農業高等学校を卒業し、同年4月、大洲養蚕農業組合の養蚕教師(蚕業指導員)になった。翌年11月には今岡製糸に入社し、養蚕農家の養蚕指導にあたるようになった。44年にわたり蚕糸業一筋に生き抜いてきた**さんの人生のスタートであった。
 今岡製糸では、養蚕指導と製糸業務にあたり、原料繭の購入や製糸工程の工務を担当し、後には会社役員になった。
 当時の製糸工場は、座繰器械で生産していたが、大洲地方の製糸工場は、2等繭を扱う小企業の国用製糸工場(県知事許可)が多くあり、上等繭を扱う工場(農林大臣許可)は今岡製糸(昭和30年の従業員77名)と桝田製糸(昭和30年の従業員113名)の2会社であった。

 (イ)大洲地方で「伊予生糸」が栄えた要因

 大洲地方において蚕糸業が盛んとなり、「伊予生糸」の名声を高めた要因として、**さんは、次の4点をあげている。

   ① 肱川の氾濫がもたらす肥よくな沖積の土壌(いわゆるタル土)によって、桑がよく育つこと(洪水によって他の作物
    の収穫が皆無でも、桑だけは安定して大丈夫であった。洪水に遭って漬かった桑でも洗って使うことができた)。ま
    た、肱川流域には、石灰岩が多いのでカルシウムの影響もあるといわれる。
   ② 繭は「なま物」だから、製糸工場は、桑の生産地帯から遠方ではいけない。昔から「製糸工場は、煙突の見える範囲
    で栄える」といわれたように、製糸工場の立地条件がよいこと。
   ③ 明治時代における河野喜太郎や程野茂三郎など先人、先覚者の努力、愛媛県はじめ各機関によって勧業政策が推進さ
    れたこと。
   ④ 多量の水を使用する製糸業にとって、肱川の水質が良く豊富であること。

 (ウ)今岡製糸と伊勢神宮御用生糸

 今岡製糸における**さんの一番の思い出は、「昭和28年(1953年)の伊勢神宮第59回式年遷宮(しきねんせんぐう)(*7)、昭和48年(1973年)の第60回式年遷宮と二度にわたる御用生糸の拝命でした。「伊予生糸」と評価されていた大洲生糸の中でも、今岡の生糸が最高級の品質と認められ、声価がますます揚がったのですから大変やり甲斐がありましたよ。昭和42年(1967年)ころは、自動繰糸機械(昭和33年ころから漸次、座繰器械を自動機械に切り替え、昭和40年代には全部が自動機械となる。)でしたが、『やはり、遷宮用の糸は手繰器械で製造してほしい』との要望があり、手繰り6台を使いました。伊勢神宮の徳川宗啓大宮司が今岡製糸工場に来訪され、お話を承ったことを昨日のように思い出しますよ。」と、全国的に名声を博した今岡製糸の栄えある時代を懐かしんでいる。
 さらに、昭和62年8月〔1987年〕には、第61回伊勢神宮式年遷宮用御料を伊予蚕糸農協で拝命した。平成5年(1993年)、退職直後の**さんは、同年10月2日に行われた第61回伊勢神宮遷宮儀式に招待された。それは、遷宮用原糸の「伊予生糸」を作った生産現場の代表として選ばれたもので、**さんにとっては、まことに晴れがましい記念となった。また、平成6年11月には、財団法人大日本蚕糸会総裁正仁親王より蚕糸功労賞を受賞された。

 (エ)ひたすら良い繭を求めて

 **さんは、四十数年にわたる蚕糸生活をとおし、特に原料繭の確保に苦労したことについて、「昭和24年(1949年)に繭の統制が解けてから各製糸会社は、優良繭の確保について競争しました。当時の南予には、郡是(ぐんぜ)製糸(宇和島市)・鐘渕紡績(八幡浜市)などの大手製糸をはじめ、宇和島市の城南製糸・吉田町の程野製糸・宇和町の酒六(さかろく)・内子町の内子製糸・大洲市の桝田製糸、今岡製糸など多くの営業製糸があり、優良繭の確保のため養蚕農家を翻ろうする有様でした。特に昭和28年に鐘紡八幡浜工場を酒六が買収したので、鐘紡の地盤争奪をめぐり、農家一軒一軒を『朝駆(あさが)け、夜駆(よが)け』で訪問し、庭先で直接取引しましたよ。」
 「昭和32年(1957年)からは、上浮穴郡の農家に養蚕を勧め、まず、柳谷村の1軒から始めました。当時は蚕業指導所がなかったので、蚕業指導員の給料は、今岡製糸が半分、村が半分負担して養蚕指導にあたってもらいました。続いて昭和34年からは美川村、36年から面河村、その後、久万町・小田町と養蚕が広がりました。松山地方局内に蚕業指導所ができてからは、われわれ企業側の私的な投資がいらなくなり、やりやすくなりました。やはり、一番目の柳谷村の開拓には、大変苦労しました。当時は養蚕組織もないので、トラックに肥料などを積んで持っていったりしました。上浮穴地方も最盛期には24万kgほど繭の生産がありましたのに、今はほとんどなくなり、寂しい限りですね。」と、今岡製糸における若いころの苦労を語っている。

 (オ)合併から組合製糸へ~組織の柱として

 昭和49年(1974年)6月には、今岡製糸・桝田製糸と喜多養蚕連合会が、大洲市など地元自治体の協力を得て合併し、伊予生糸株式会社が設立され、**さんは、大洲工場(今岡)の工場長に就任した。
 「この合併の年は、ちょうど生糸の一元輸入化(蚕糸事業団による一括輸入)が始まった年でした。また、振り返ってみると、わたしが就職した昭和24年は、繭の統制が撤廃された年にあたり、不思議にそれぞれ大きな節目の年に遭ったことになります。」と、蚕糸業における節目との出会いを振り返っている。
 昭和53年(1978年)3月、伊予生糸は、繭の生産拡大と繭加工施設の整備により生産から加工販売に至る一貫体系を図るため、伊予蚕糸農業協同組合に改組された。昭和55年には、農業改善事業の適用を受け、菅田の新工場に繭の集荷加工施設が完成し、操業が始まった。新工場の対象地域は、大洲市・長浜町・内子町・五十崎町・肱川町・河辺村の1市5町村であり、受益戸数811戸であった。当時の従業員は46名、加工能力は原料繭、年間400t、生糸生産、年間78,000kgであった。**さんは、新工場ができた昭和55年から昭和62年(1987年)、愛媛県蚕糸農業協同組合連合会に合併するまで加工部長を務めた。
 愛媛県蚕糸農業協同組合連合会は、県養蚕農業協同組合連合会と伊予蚕糸(大洲市)、愛媛蚕糸(野村町)、北宇和蚕糸(広見町)の3加工農協が合併して組織され、生産から加工販売までを県レベルで一体化した全国初の農協連であった。**さんは、昭和62年、合併後の大洲工場長となり、平成2年(1990年)5月には定年退職を迎えた。**さんは、さらに平成5年5月まで、嘱託工場長として務めを果たした。
 このように蚕糸業の様々な体験を積んできた**さんは、蚕糸業のやり甲斐について、「機屋さんはじめ各方面から、良い糸の評価を受けると、それまでの難儀や苦労も忘れます。やはり、生糸を作るにせよ、繭を農家から頂くにせよ、打算はいけません。何事も先に代償をもとめてはならない、与えることを考えておけばよい、と思います。報いは独りでにもんてきます。そこにプロとしての喜びがありますよ。」と語っている。そこには、44年間にわたり、「伊予生糸」を支えて、一筋に生き抜いてきた**さんの思いが示されていた。


*5:大正8年(1919年)の繭価を100とすると、昭和5年(1930年)は33.5、6年には25.8と好況時の3分の1、4分の1
  に下落した(⑮)。
*6:繭を繰糸する際、生糸にならないものの総称(きびそ・びす・ようしん・揚り繭などという)で、絹糸紡績の原料とな
  る。サナギは家畜飼料や養魚飼料として使われる。
*7:伊勢神宮の式年遷宮は、約1,300年前から20年ごとに行われ、遷宮祭の神宝御料(神に供える御衣(ぎょい)など錦の織
  物)の原料糸に大洲の「伊予生糸」が選ばれた。生糸は京都市の織物工場で仕上げられ、神宮に納入された。

写真2-2-30 平成2年まで使用した座繰器機

写真2-2-30 平成2年まで使用した座繰器機

**さん方(3台保存、現在も使用可能)。平成6年9月撮影

写真2-2-31 蚕供養之塔(蚕糸業六十年記念)

写真2-2-31 蚕供養之塔(蚕糸業六十年記念)

昭和56年7月建立。**さん方の庭。平成6年9月撮影