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河川流域の生活文化(平成6年度)

(3)石田和紙作りの里

 東予市石田(旧周布(しゅうふ)郡吉井村大字石田)は、周桑平野を流れる周桑第一の中山川の下流左岸に位置している。石田の手漉き和紙は、中山川の伏流水がわきでる「ひょうたん池」はじめ、各地を潤す豊かな水を母胎として発展してきた(写真2-2-6参照)。

 ア 石田和紙の先覚者森田重吉(もりたじゅうきち)の足跡

 中山川の堤防から石田に向かうと、集落の入り口付近に「ひょうたん池」と臨済宗大智寺がある。境内には、石田和紙の先覚者森田重吉をたたえる「頌功碑(しょうこうひ)」が建てられている(写真2-2-5参照)。
 碑文によると、森田重吉(天保8年~明治42年〔1837年~1909年〕)は石田の農家に生まれた。若いころから紙行商で諸国を回っていたが、石田の紙の品質が粗悪なことに気付き、改良を思いたった。文久2年(1862年)、26歳のとき、石田村に奉書の製造場を設けて材料の精選や紙の漉き方の改良を重ねた結果、品質が向上して販路が広がった。さらに「かねます」(カネマス)の商号でもって誠実に取り引きを行ったので、ますます評判を高めて販路が拡大し、生産額・利益ともに増大した。彼は、ともすれば疲弊(ひへい)しがちな石田地方の農民に紙漉き道具や資本を貸し与え、紙漉き業を奨励したので、村民は大変裕福になったといわれる。
 森田重吉は、73歳で死去したが、村民は、明治45年(1912年)、「重厚沈毅すこぶる侠気」な人柄と地域に尽くした功績に対して、追慕と感謝の念をこめて「頌功碑」を建てたのである。

 イ 親子二代、ワラ画仙紙作りに生きる

 **さん(東予市石田 大正14年生まれ 69歳) えひめ伝統工芸士
 **さん(東予市石田 昭和24年生まれ 45歳)

 (ア)石田の風上とワラ奉書の特色

 **さんは、昭和14年(1939年)、地元の吉井尋常高等小学校を卒業後、陸軍兵器学校をへて軍隊に入隊した。太平洋戦争中は中国北部に従軍したが、終戦後はふるさとの石田に復員し、警察官となった。昭和26年(1951年)、警察を退職し、両親、奥さんとともに一家4人が3槽で製紙業を始めた。いわば「脱サラ」による転身であるが、すでに四十有余年のキャリアを積み、平成元年(1989年)には「えひめ伝統工芸士」に選ばれたベテランである。
 **さんは、「石田は、ワラ奉書が特色です。石田和紙のすぐれた先覚者は森田重吉翁ですが、そのころはコウゾを使っていたようです。ワラを使いだしたのは明治24、5年(1891、92年)ころからと伝えられています。技術的にはワラをうまく炊くのが伝統的なコツですね。また、和紙には良い水が第一条件ですが、石田は中山川の伏流水のお陰で水に恵まれています。だから製造所も『ひょうたん池』付近が多いです。わたしが手漉きを始めた昭和20年代ころ石田には50軒近くが紙を漉いていましたが、今は6軒に減りました。しかし、全体として経営は安定している方ですし、事業者もわたしより若い昭和生まれの人が多いですよ。主として画仙紙・折手本・半紙を漉いています。」と、石田和紙の特色と中山川の恵みを強調している(写真2-2-6参照)。

 (イ)書道用のフラ画仙紙を漉く

 **さん親子は、画仙紙の書道用紙4種類(かな用、漢字用)を1か月約100反(1反は100枚)生産し、月額約100万円(業者卸)の生産額をあげている(従業員は**さん親子と乾燥担当の女性1人)。
 **さんは、これまでの歩みを振り返って「わたしは途中から始めた素人なので、技術的には大変苦労しました。苦労と思う暇がないくらい苦労の連続でした。」と語っている。
 **さんにより画仙紙の製造工程をまとめると、次のようになる。

      【ワラ画仙紙の製造工程】
   ① 原料のワラを煮る(煮熟(しゃじゅく))。
     ワラを平釜(ひらかま)または地球釜に入れ、苛(か)性ソーダを加えて煮る。**さんの地球釜は独特の高圧釜(昭和
    58年1983年〕製作)で、2時間半で効率的に煮ることができる。古紙やパルプも平釜で煮る。煮た後そのまま蒸して
    翌朝まで冷ます。
   ② 多量の水で洗い、苛性ソーダ分を除去する。
   ③ 次亜塩素酸ナトリウムで漂白する。
   ④ ホレンダービーター(叩解機(こうかいき))で紙の原料を押しつぶしたり、切断したりしなびら繊維を短くする
    (**さんが子供のころは臼(うす)でついていたが、昭和10年(1935年)くらいまでは、木製の打盤器(だばんき)を
    使っていた)。
   ⑤ 漂白したワラ・パルプ・古紙の三種類を混合して漉き素を作る。混合は3:3:3の割合を基本とするが、紙の種
    類によって割合は変わる。割合のコツは業者の秘伝であり、同じ分量でも作り方によって、各業者の製品に違いがあ
    る。
   ⑥ 漉槽で漉く(抄紙(しょうし))。
     紙素にタズ(北海道産のノリウツギ)を加え、漉槽でかきまぜ、簀桁で漉く。笹桁は画仙紙判(69.7cmx136.4
    cm)が漉けるサイズ。漉いた紙は紙床に重ねる。
   ⑦ 紙床の紙を圧搾機で脱水する。
   ⑧ 乾燥する。まず1週間くらい素乾(すがわ)し(陰乾し)をする。次に乾燥した紙をいったん水につけ、1枚1枚はい
    で温水乾燥器(三角形の鉄板ドライヤー)にかけ、「刷毛(はけ)」ではいて乾かす(昭和26、7年ころは、クグ草の刷
    毛をよく使ったが、現在はシュロ刷毛や羽根の刷毛ではいている。乾燥は、かつてトチの乾板による屋外乾燥であった
    が、天候相手で不安定のため乾燥器に変わっていった。乾燥は女性の仕事。)。
   ⑨ 紙を裁断し、製品に仕上げて出荷する(取り引きの問屋は、主に国安と伊予三島の森川たかお商店・リュウグウ
    KK、県外は東京の書道団体の統合文化有限会社など)。

 (ウ)ワラ原料の確保が一番

 **さんは、「石田和紙の主原料はワラだから、ワラの確保が一番です。かつては、米俵や縄が沢山あったが、やはり苦労といえば、ワラの確保です。パルプ(ロシア・サハリン地方から輸入)や古紙(伊予三島から)は心配ないけれど。」と、原料確保の大切さについて強調している。さいわい地元の石田はじめ周桑平野は米所であり、ワラの質も良い。**さんは1年間に約1ha分のワラを親せきの農家から確保している。ワラは穂先の第一節の芯を使うと良い紙ができるので、農家に穂先だけ刈ってもらい、ワラそぐり機で処理して原料とする(写真2-2-9参照)。

 (エ)後継者に恵まれる

 長男の**さんは、昭和42年(1967年)、小松高校を卒業後、直ちに紙漉き業を手伝い、両親を助けてきた。当時は経済成長時代を迎えて景気が上向きの時期であり、手漉き和紙に将来性が感じられた時代であった。今日、石田地区で営業中の手漉き和紙業者5軒のうち、後継者がいるのは**さん宅のみである。
 **さんは、「もう息子の時代です。息子の方が、わたしらより上手に早く紙を漉きますよ。技術的にはかないません。」と、**さんに期待をかけている。長男の**さんは、「子供のときから紙漉きを見てきたので、後継ぎはやりやすかった。この地域では後継者が少なくなって、しんどいけれど何とか頑張って紙漉き業を続けていきたい。」と、将来への思いを語っている。
 **さん親子の二人三脚によるワラ画仙紙作りは、森田翁頌功碑が見下ろす「ひょうたん池」の清らかな水とともに、21世紀に向けて続けられていくことであろう。

写真2-2-5 森田重吉翁の頌功碑

写真2-2-5 森田重吉翁の頌功碑

東予市石田 大智寺境内。平成6年9月撮影

写真2-2-6 ひょうたん池(東予市石田)

写真2-2-6 ひょうたん池(東予市石田)

左側に大智寺がある。正面は中山川の堤防。右側は揚水ポンプ小屋。平成7年1月撮影

写真2-2-9 ワラの芯を取るワラそぐり機

写真2-2-9 ワラの芯を取るワラそぐり機

平成6年9月撮影