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河川流域の生活文化(平成6年度)

(1)酪農一筋

 宇和盆地を南下する国道56号を卯之町で分かれ、県道宇和・野村線を野村に向かって走行すると、山が近づくにつれて肱川は下の谷底を縫うように蛇行しながら流れている。
 広大な盆地から、山に向かって走る車は、当然川の流れに逆って道路を走らねばならないはずである。しかし、「川が逆流している!」初めてこの地を訪れるほとんどの人が、この錯覚を起こすという。
 やがて、幾つかのトンネルを抜けると、満々と水をたたえた、南予の水瓶(がめ)「朝霧湖」を右側に眺めながら野村町の中心部に到着する。ここに掲げる農民憲章は、自然と共生する野村町のあり方を示唆したものと考える。

              -野村町農民憲章-
    わたしたちは、農林業の振興を図り、住みよい農村社会を建設するため、わたしたち農民の願いをこめて、この憲章
   を定めます。
      1 わたしたちは、かけがえのない農地を大切にします。
      1 わたしたちは、本当の農業生産に励みます。
      1 わたしたちは、山を愛し緑を育てます。
      1 わたしたちは、健康で明るい家庭環境を築きます。
      1 わたしたちは、豊かな農業人になります。
      1 わたしたちは、共同の力で活力ある村づくりに努めます。

 野村盆地は東宇和郡東部に位置し、肱川の上流域に開けた海抜約140~200mの盆地である。肱川は盆地中央を北流し、流域には礫(れき)層の河岸段丘が発達している。野村町は東西方向が南北の2倍以上ある細長い中山性山間地帯である(②)。
 昭和19年(1944年)以降乳牛が導入され、酪農と養蚕、葉たばこを主幹作物とする農業地帯として発展し「ミルクとシルクの町」と呼ばれるようになった(口絵参照)。
 平成2年の野村町の農業粗生産額は、約55億円弱であるが、これについて年次別、部門別割合をみると、最もシェアの高いのは畜産で、昭和43年(1968年)から年々増加し、平成2年には61%を占め、その中で乳牛部門の40%は群を抜き、いかに町の基幹的役割を果たしているかをうかがうことができる。また、耕種部門においては野菜が増加し、米が減少、特に養蚕の減少が目立っている(図表2-1-5参照)。

 ア 河岸段丘上に育った農業

 **さん(東宇和郡野村町野村 大正元年生まれ 82歳)
 肱川の上流地域の主要農林業をあげると、野村の酪農は欠かせぬ存在である。そのなり立ちと水と人々のくらしについて、**さんの口述を資料中心にまとめた。
 「この野村地区は、肱川の上流山間部に位置しているので、肱川は急流となり低い所を流れています。そのため川の水を利用することが難しかったのです。上流の宇和地方は広い水田と良質の用水を得て、稲の豊作に恵まれていましたが野村は水田も少なく干害続きで農民は貧しかったのです。嘉永5年(1852年)野村地方は大干害で畑作は全滅し、そのうえ強風下で出火して大火災となり野村の町は全焼してしまったのですが、大火が再度起こらないことを祈って、願相撲を奉納することになったのが、今に続いている『乙亥(おとい)大相撲』です。
 この大干害と大火災によって、農民の夢であった、肱川の水を高台の岡池まで引く計画が始まったのです。岡池は現在町立野村病院が立ち、地域医療に貢献しています。また、先人の偉業により開拓された水路が、現在も活用されている『前嶽溝(ぜんがくこう)」です。なおこの偉業をなした先駆者が徳山駒吉です。くわしいことは『のむら史談第11号(⑩)』に述べています。人々の辛苦の導水路が、濯漑用水、泉貨紙製造、非常用水、その他など、多目的水路として町発展に果たした役割は大きいものがあります。また、駒吉翁と農民の魂と汗を打ちこんだ信念の水は、朝霧湖に満々とたたえられ、町内のほか南予の2市7町(八幡浜、宇和島2市、三崎、瀬戸、伊方、保内、三瓶、明浜、吉田の7町)へ生命の水として供給されています(⑩)。
 このように、駒吉翁と農民の汗と苦難15年目(明治元年〔1868年〕)にして完成を見た水路ですが、干害から農民を救うとともに、これによって新しく開田することのできた水田は、約15町歩(15ha)に過ぎなかったのです。野村地区ではこのように新しく開田することが地形上難しく、水稲作では農家の生活が成り立ちません。そこで農民は、藩専売の泉貨紙を漉(す)き、時代の流れとともに養蚕と有畜農業、次には酪農業が盛んになったのです。また、野村地方の山や、丘陵面には平地では始末に困る山野草や雑草が茂り、これを秣(まぐさ)とする畜産業が自然に盛大になり(⑪)今日に及んでいるのです。」
 野村地域が川沿いの盆地でありながら、開田のための土地にも水利にも恵まれず、水稲作に適さないこと、その自然の立地条件を最大限に活かした農業が必然的に生まれ、人々の生業となっていったことが考えられる。

 イ 秣と桑と飼料

 野村ダム管理所(標高160m)における気象観測結果によると、年間平均気温(10か年間) 14.7℃。これは松山(標高32m)の年間平均気温(10か年) 15.8℃に比べて低くなっている。しかし年間平均最高気温は5℃、最低気温は2℃程度それぞれ高い。
 年間降水量は2,157mmでかなり多く、県下有数の多雨地帯である。野村町の気象はいわゆる内陸性の冷涼湿潤、気候区は「山岳気象区」に属している(⑨)。
 土壌質は一般的に音地(オンジ)といわれる火山性土である。これは四国では面積の2.7%を占め、歩くと音がするので音地と名付けられたといわれている。音地によく育つ雑草の代表は秋の七草のうちのススキである。別名カヤとは刈り屋根からとった名前である。ススキは他の植物にとって成育不良の土地でもよく育ち、飼料用としても最適である。
 以上よりみても、当地域の河岸段丘、丘陵、山腹面において、株となる雑草は、夏季の高温多雨という気象条件と、音地という地質にも適合して生育良好であることが考察される。この条件が結局、主幹産業の養蚕の桑(くわ)や、それに代わる飼料草を栽培する素地になったといえる。
 宇和の人々は「山へ行くというと野村方面へ行くこと……」、野村の人は「宇和より桑の芽生えが1週間早い……」と自慢し合ってきた。地方の風土をよくとらえた表現であると考える。

 ウ 「酪農の里」への歩み

 「土地と水利が稲作に適さないため、人々は古くから畑作農業や手すき和紙等で暮らしを立ててきたのですが、需要の減退とともに次第に養蚕に移りました。大正10年代に、愛媛蚕糸農業協同組合の前身が創立され、昭和8年(1933年)これに製糸業が加わり、地域産業の中核となって今日に至っています。
 養蚕が盛んになってくるに従い大量に桑を育てなければなりません。養蚕農家では桑畑に施す肥料代が割高になってきたのです。そこで経営改善のため、畜産改良組合が設立され、きゅう肥、産肉、使役の三つの目的をもって『豊後の黒牛』が導入されたのです。
 この黒牛が農家に貸出され、飼養されながら、桑園施肥用きゅう肥→桑→蚕→残滓(ざんし)→飼料→きゅう肥と循環していったのです。この和牛飼育のことを有畜農業といっています。この有畜農業よりさらに有利な畜産を求めて、次には乳牛の飼養に移っていったのです。」
 昭和11年(1936年)に、県立野村種畜場(現在の畜産試験場)が発足し、乳牛の改良及び酪農の指導が本格化したが、戦時体制の進行とともに、養蚕の不況時代を迎え、桑園は飼料園に姿を変えていき、さらに食料増産の甘藷(かんしょ)畑に変わっていったのである。
 昭和18年(1943年)、野村町農会(会長宇都宮勇太郎)は、今後の新しい営農方法として酪農に着目し、酪農の振興を計画して先進地へ視察員を派遣し、成功の確認をしながら、当時の野村種畜場と対応し、乳牛の繁殖に備えるとともに、酪農の指導奨励を行った。その結果、昭和19年(1944年)の乳牛飼養頭数26頭、飼養戸数24戸を出発点に、昭和30年(1955年)598頭、同486戸、38年2,287頭、同1,058戸とピークに達した。しかし38年以降は経済構造の変化により飼養戸数は減少に転じ、昭和50年(1975年)には昭和45年の約半数となり、その後も依然として減少傾向にある(図表2-1-6参照)。
 1戸当たりの飼養頭数も昭和40年(1965年)2.1頭の少数飼養頭数から、55年(1980年)には13頭の多頭飼養へと移り、専業的酪農経営が定着してきた(②)。
 野村町における「酪農の歩み」を、酪農家数の推移(図表2-1-6)から、3期に区分することができる。
(1)酪農導入期-昭和19年~39年(1944年~1964年)
   「酪農事実行組合」の設立(1944年)、26頭のホルスタイン種牛の導入、明治乳業野村工場の誘致(1950年)、農林
  省集約酪農指定(1955年)、飼養頭数が千頭を突破し野村町酪農の基盤確立(1959年)、乳価交渉闘争(1962年)、東
  宇和酪連発足(1964年)
(2)酪農発展期-昭和40年~47年(1965年~1972年)
   「県酪連」設立(1965年)、四国乳業発足、経営改善より多頭化推奨、一元集荷・多元販売指向、県下一本化した酪農
  組織と流通体系の整備
(3)酪農多頭飼養期-昭和48年(1973年)以降
   乳牛飼養頭数の急増(昭和48年以降)、生乳生産量県下一位の大産地化、飼養戸数減少353戸(昭和53年〔1978年〕)
  となったが飼養頭数過去最高の3,800頭を数え、乳代金12億5千万円に達した。生産過剰と消費停滞、乳製品自由化、米の
  減反等により計画生産という制約を受ける(昭和54年〔1979〕)。以来酪農経営は量的拡大から質的拡大の時代となり、
  後継者対策、ヘルパー制度の採用が図られている(⑬)。

 エ 酪農一筋の道

 **さん(東宇和郡野村町野村 大正9年生まれ 74歳)
 **さん(東宇和郡野村町野村 昭和10年生まれ 59歳)

 (ア)128番目の酪農家

 専業酪農家の**さんは、乳牛との出会いについて次のように語っている。「牛の大好きな父が、畜産試験場等の推奨もあって(写真2-1-10参照)、乳牛を飼い始めたのが昭和23年(1948年)でした。野村町の酪農家としては128番目になります。当時わたしは中学生でした。翌年から搾乳を始めたのですが、父が年を取っていたため、4歳上の姉と搾乳の全てをやったのです。その当時の搾乳法は分べん後の2か月間は、1日4回の手絞りです。止むを得ず昼食時に学校を抜け出して搾乳をして、また登校するといった生活でした。これが最初の乳牛との必然的な出会いで、酪農への第一歩となりました。
 昭和28年(1953年)の高校卒業当時の搾乳頭数は、2~3頭で、主幹作物はやはり養蚕でした。昭和32年(1957年)の春、21歳の若さで結婚したのです。
 その直後、酪農協同組合長の推せんで、広島県の先進地を見学する機会に恵まれ、これが本格的酪農経営の契機となったのです。昭和35年、結婚3年目に、当時としてはまれな5頭搾乳牛舎を建てました。少頭数飼養(2~3頭)の時代でしたので、その牛舎が珍しく多くの見学者が来られました。
 養蚕から酪農へ全面的に移行する大きなきっかけとなったのが、家内が毎日毎日綿密に記録してくれていた『農業簿記』です。この記録は年間労力の配分上、ピークの高い養蚕の縮小の必要性をはっきり示しています。そこで昭和42年(1967年)養蚕の全廃に踏み切ったわけです。
 酪農開始13年目にして、28頭飼育の牛舎を新築することができ、多頭飼育による専業的酪農経営の仲間入りをしたのです。〝これも家内の『農業簿記』のお陰〟と大いに感謝をしています。」

 (イ)酪農10か年間の歩み

 「当時を振り返って、最も難儀な思いをしたのは、周囲すべての桑畑の消毒によって、飼料用牧草が刈れなかったことです。牛に食わす青草が全く無くなり、しんどいめをしたものです。今は権現駄場(ごんげんだば)(地名)に桑畑は見当たらなくなりましたが……(写真2-1-11参照)。
 昭和42年(1967年)、家内は結婚10年目を一つの節目としてわが家の経営状況を経理上から、『酪農10か年間の歩み』と題し県大会で発表しました。これが家内にとっては酪農へ本気で取り組むきっかけとなっているのです。
 22歳で後を継ぎ、25歳(昭和36年)当時ですが、進学している弟に毎月1~1.5万円の学費を送金しなければなりません。当時男子の初任給1万円の頃ですから、これが実に経済的にしんどかったのです。家計を預かる家内にとっても大変でした。ついに家内が早朝から勤めに行く破目となり、大きなショックを受けました。朝早くから出勤し1か月後手にした給料袋は軽いものだったのです。しかし、このことが2人にとって、〝酪農一筋に生きる〟最大の契機となったのです。これが昭和36年(1961年)のことで、それ以後重点を徐々に酪農に移し、昭和42年(1967年)全面的に移行しましたが、44、5年ころ乳価の値下りがあり、反対に養蚕は好況で繭価の追加支払いがあるという状況でした。選択を誤った疑念も生じましたが、家内の『農業簿記』は不況ではなく黒字経営を続けています。ここへきてやっと酪農に対する〝確信〟なるものができました。
 昭和48年(1973年)、搾乳牛28頭、子牛9頭を飼養するまでに漕ぎつけることができました。」

 (ウ)乳牛との絆(きずな)

 「昭和40年代の後半には、ここに同席されている**さんの後任として、酪農経営者協議会長に就任したのですが、他の役職も兼任しているため、会議や出張等で不在の日が多かったのです。その間の乳牛のお守りは全て家内の肩にかかり、大変な骨折りをかけてきましたが、一切不平不満を言わず黙々と努めてくれました。3人の子供達も、大学を卒業し一人前の社会人になりました。これもわたしたち夫婦が本気で酪農に取り組み、乳牛がいたお陰だと話しています。子供にも十分そのことが分かっている様子です。3人の子供が大学に在学中の6年間は二人が在学しているわけですから、毎月の送金はかなり多額になります。子供達3人は乳牛が大学を卒業させてくれたようなものです。これが乳牛とわたしら家族との絆(きずな)とでもいうものでしょうか。
 現在長男は自宅で獣医を開業し、将来は酪農の後を継ぐ予定のようですので、わたしは外では隠居、内では現役といった状況です。」

 (エ)酪農ヘルパー組合の設立

 「酪農家にとって宿命的な課題は、盆も正月もなく、冠婚葬祭といえども休日がなく時間的な拘束力が強いということです。この永年の課題について検討を重ねた結果、昭和54年(1979年)野村町酪農ヘルパー組合が設立され、初代組合長に就きました。
 創造の苦労は当然ですが、何度となく危機が訪れ、再出発を重ねました。お互いの立場を十分話し合い理解した上で、細部規約を定め組合長と各組合員が契約書を交し、組合員5名、ヘルパー要員5名、臨時要員2名で新しくスタートしたのですが、現在まで順調に経過し、第2、第3の組合も設立され、15年目を迎え組合員も85名に成長しています。この制度のお陰で今では、年2回家内と小旅行を楽しむこともできます。野村町の酪農にとって欠くことのできない存在にまで成長しました。」

 (オ)5年間の辛抱

 **さんは、元農業の酪農家であったが、後継者及び年齢構成上の家族労力の面から、酪農をユズ栽培に切り替え、現在70歳代半ばであるが元気に活躍されている。ユズ栽培についての講演も依頼があれば、快諾されている。
 **さん、「農家の生活は、昔の方がずっと豊かだったのです。手鎌で草を刈り、背負い子で負って帰り牛の秣にし、手で乳を絞る生活は、今の機械化、省力化された時代に比べ実に裕福でした。生活レベル自体は比べようもありませんが、仲間は『昔は楽だったノー。』といつも言っています。仲間や近所との付き合いも多くありました。いわば仲間意識、助け合いの精神が強かったと思います。今は生活に追われ、ゆとりも潤いも少なくなった気がします。また、農家の栽培する作目についても、目先のことばかり走り計画性も辛抱も足りない気がします。」
 **さん、「若い仲間に牛を飼い始めたら、『5年は辛抱して借金を抑えよ』といっています。これは、見掛けより中味が大切だということです。地道に5年辛抱すれば、〝牛に関すること〟が見えてきます。これが酪農経営の土台になり成功するか、しないかの分岐点ともなるのです。」
 **さん、「昔から『縄のない始めと、仕事のし始めはこんまい(細かい)ほどよい』と言い伝えられてきました。縄も仕事も同じことですが、最初から大きくすると後で困ることになるということなのです。
 酪晨も同じことで、最初から大きく始めた人は、苦労している人が多いようですが、小さく始めて次第に積み上げた人は、土台がしっかりしているので安定しています。**さんの酪農には〝堅実〟という一本の筋金が入っているのです。例えば、夜一度牛舎を巡回するとします。牛が食い散らしたはめ(餌)を、もう一度掃き集めて食わせる。その小さな気配りが翌日からの搾乳量の増加につながっていくのです。これが農業のまた酪農経営のコツということができます。平成6年の現在も野村町の酪農家は減少の傾向ですが、そのなかで近代感覚を身につけ若い酪農後継者が、堅実な経営に徹し活躍している姿を見かけるようになり、実に心強く思っています。」
 両氏が口を揃えて言われたことは、「われわれ農民の思いは、農民憲章にあります。しかし、その前に何と言っても〝家内の協力〟があってのことです。口に出さずとも、家内と家族の協力には、心から感謝しているのです。」

図表2-1-5 農業粗生産額の部門別構成割合の推移(野村町)

図表2-1-5 農業粗生産額の部門別構成割合の推移(野村町)

『野村町の農林業(⑨)』P24より作成。

図表2-1-6 野村町における酪農家数の推移

図表2-1-6 野村町における酪農家数の推移

『愛媛県史地誌Ⅱ(南予)(②)』P449・『高教研社会部会会報38(⑬)』P44より作成。

写真2-1-10 愛媛県畜産試験場

写真2-1-10 愛媛県畜産試験場

野村町阿下。平成7年1月撮影

写真2-1-11 冬の飼料園

写真2-1-11 冬の飼料園

野村町阿下権現駄場の上方から。平成7年1月撮影

写真2-1-12 ミルカーによる搾乳

写真2-1-12 ミルカーによる搾乳

搾乳は1日2回12時間間隔で行う。平成7年1月撮影