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河川流域の生活文化(平成6年度)

(3)伊予路に春を告げるシロウオ漁

 **さん(北宇和郡津島町岩松 昭和2年生まれ 67歳)
 **さん(北宇和郡津島町岩松 昭和5年生まれ 64歳)
 **さんの本業は水道工事(本管敷設)をする水道屋さんである。水道の仕事を始めたのは35歳ころからである。祖父の代から家は農林業の道具を作るかじ屋であった。父親も高知でかじの修業をした。そんなことで**さんも小学校を終え、18歳ころから父親についてかじ屋の仕事を手伝っていた。昭和30年代に入ると耕うん機など、農業機械の普及につれて、かじ屋では生計が立たなくなったため、水道工事に変わったとのことである。戦時中は軍隊には行かなかった。地元に航空管制の監視所があり、そこで働いていた。
 **さんは北灘の高等小学校を修了して、今治の軍需工場で働いた。元は紡績工場であったが、飛行機を製作する工場となり、毎日、飛行機のびょう打ちの仕事をしていた。今治が空襲で焼け野原となったので、友達と一緒に宇和島まで汽車で、宇和島からは歩いて松尾峠を越えて北灘のわが家まで帰ってきた。「戦争体験は主人よりもわたしの方が強い。今治の駅も丸焼けでしたが、汽車は通っていて、今も覚えていますが、汽車賃は今治から宇和島までが5円50銭でした。宇和島から北灘まで歩くのは苦になりません。峠には茶屋がありました。そのうちに終戦となり、8月15日の天皇の戦争が終わったという玉音放送は自宅で聞きました。わたしの家は半農半漁で段々畑でイモを作っていました。夜になると父は打瀬網(うたせあみ)で一人で出漁していた。朝帰ってきたら、子供心にびっくりするほど、大きなエビや伊勢エビが、昔ですきん(ので)よう取れていました。昔ですきんバスもないのですよ。お婆さんがギッチョンチョンと荷のうて、問屋さんに毎朝持っていきよりました。」今治より帰った**さんは家事手伝いをしていたが、縁があって昭和28年(1953年)に**さんと結婚する。
 2人の間には4人の子供さんがいるが、皆さん結婚されたり、大阪で就職したりで、今は2人の生活である。現在は本業のかたわら夫婦でシロウオ漁もやるし、アオサ養殖もやっている。
 シロウオ漁のこと。シロウオ漁は**さんの祖父、父親の代から**家の副業として受け継がれてきた。毎年岩松川に1月10日ころから産卵のためシロウオがあがってくる。**さんは昔と今のシロウオ漁について次のように話した。「うちのお爺(じい)さんは昔風の人で、『節分が来んと取られん。昔から引きよって分かっとる。』と言うてなかなか引かしてくれなんだ。お爺さんは節分が来ないと取れんと言っていたが、そうじゃない。シロウオがのぼるのは1月10曰くらいから見える。昔は節分時分がピークで、その前後、昔は長いこと取れていた。昨年(平成5年)は川の工事で、川が濁っていたから、産卵の時期だのに、例年の半分位しか取れなかった。2月に入って節分の3日から17、18日までしか取れなんだ。まえは2月一杯網を引いていた。今は20日くらいしか取れない。昔は取れ始めのシロウオは小さいが、次に大きいのがのぼって、それが済んだら二辺目にまた、こんまい(小さい)のがあがってきていた。岩松川のシロウオ漁は取れ始める時期は日本中でもっとも早い。岩松川の漁が終わると、宇和島や九州の佐賀の方が始まる。日本で最初に取れて、大きさもころが良くておいしい。皆さんがそがい言って来なはる。」
 岩松川のシロウオ漁は地引き網である。長さ45mの網を二人で引く(写真1-2-15参照)。佐賀県や山口県や宇和島は四ツ手網であるが、これは漁場が深いためである。岩松川の場合、水深が浅くやや河床に傾斜がついているので地引き網である。シロウオは潮がさす(満潮になり始める)時、のぼってくる。普通は下げ潮(干潮)の時はのぼって来ないが、最盛期になれば、下げの時でもどんどんのぼってくる。潮がさしてくると網をふくらませて、そこへ乗せるようなやり方で網を張る。昔はひと網で樽(たる)(直径1尺5寸=45.5cm)に1杯も2杯も取れていた。
 ひと網引く時間は15分から20分である。1日に20回は網を引く。シロウオは暗いうちは絶対に上がってこない。曇り日や雪の日もこない。空が明るくなって水中まで太陽でピカピカ光る時にのぼってくる。地引き網は二人で行うが、一人は岸で網綱を持ち1人が船で網を回していく。船は底の浅い川船で木造船である。冬になると季節風も吹き、プラスチック船では軽くて流される。その点、木造船は重くて風にも強い。潮が来る時はイカリを打っている。**さん所有の本造船は建造して30年になるが、今も十分に使用できるほど丈夫である。
 岩松川のシロウオ漁の地引き網は、昔は8条あった。現在のシロウオ漁の同業者は3軒である。**さんによると、「昔はよく取れた時など買う人がいなくて困ったこともあった。当時はシロウオに対する認識もあまりなかった。ある時お婆(ばあ)さんが一度バケツに一杯シロウオを入れて、宇和島まで売りにいったことがある。途中シロウオが死んだらいけんので、民家に寄っては新しい水に入れ替えて持っていった。宇和島の医者や商店に行っても売れない。これを取って帰るわけにもいかんと、しまいには呉服屋さんに入って、『これ買うてやんなせんか。』と言うたら、『もらいましょうか。』言うて、シロウオとネルを交換して帰ったという時代もあった。現金でなく物々交換であった。やっぱり売れんのじゃなということが分かりました。」
 **さんは、昔のシロウオ漁の思い出として、「お爺(じい)さんが言いよりました。小学校6年生位になると、昔は大人並みですけん、霜の降りている朝に、まだ外は暗いんですが、わらじはだしで、親父に連れられて漁に行かされた。冬ですきん、水の中に入ると冷とうて冷とうて。そのうえ、あかぎれでひびが切れて、それがしみるので、朝、親父に連れて行かれるのが、もういよいよつらかった。そう、お爺さんがしょっちゅう言いよりました。今はええもん(ゴム長靴のこと)ができて、水の中に入っても、ちっとも冷とうない。」と昔を語る。今はゴム長靴にゴムのスーツに手袋もあり、昔と比べて随分と楽になった。
 **さんは、「潮もええし風も吹かんし、お日様は照るし、張り切って漁に出るんですが、シロウオが取れん。なぜだろうと考えることが多い。」と嘆かれるほど、最近は漁がない。**さんは、「シロウオは大体のぼる道が分かっていた。最近川の工事のためか、川底が変わって、一番深いところをのぼるようになった。シロウオの習性としては、岸に近い水瀬のないところへのぼってくる魚ですけど、最近はそれも分からない状態になった。シロウオがおおよそ、この辺に来ると思って網を回しても、沖の方から来たりして網がとどかない。反対に回しても絶対取れない。なんぼ櫂(かい)でつついても逃げてしまって取れないことが度々です。」と話す。
 **さん夫婦のシロウオ漁も自分ら一代だろうと言われる。漁は3年に1回の書き替えで許可されており、今もシロウオ漁をやりたいと希望する人はいる。1合(0.15kg)が1,200円であるので、ちょっと見ると人目には、今日は何万円も引いているように思われる。シロウオ漁の期間も昔に比べて、今は20日間くらいで終わってしまう。**さんのところでは、取ったシロウオは岩松名物ということで、宇和島や松山の知り合いがお土産用として持っていく。容器に酸素を入れることが可能となって、新居浜からも毎年やってくるお得意もいる。取れる量が少ないため料理店に渡すだけの余裕はない。それでも津島町の産業まつりのために、当日参加する人の試食する分は確保しておく。またシロウオは、春のメバル釣りの餌(えさ)として最高という。身が固いので餌として針が落ちにくいので求めにくる人もある。餌は冷凍して置けば良いが、餌にするほど供給できないのが現実である。
 岩松川にアオサが育ち、シロウオがあがってくることは、岩松川や海の自然の良さが残っている証拠である。なんとかして良好な環境を保全し、これを後世にまで残していきたいものである。

写真1-2-15 岩松川の地引き綱によるシロウオ漁

写真1-2-15 岩松川の地引き綱によるシロウオ漁

平成4年2月撮影