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河川流域の生活文化(平成6年度)

(1)肱川河口のアオノリ

 **さん(喜多郡長浜町下須戎 大正9年生まれ 74歳)
 **さん(北宇和郡津島町岩松 昭和2年生まれ 67歳)
 **さんは、第二次世界大戦中は、南方第3航空隊司令部付偵察機の操縦士として、3年間ボルネオ島で勤務し現地で終戦を迎え、昭和21年(1946年)4月に帰国した。軍隊に入る前に八幡製鉄所の社員であったので、会社から復職するよう連絡があったが、帰国後もマラリヤに悩まされ退職を申し出た。その後農協の手伝いをしているうちに、長浜町役場へ就職した。その期間は昭和25年から52年までである。役場退職後はボランティアとして保育園長、公民館長、保護司、区長などを務めた。その後老人クラブに誘われ、会長に推され、そのうち連合会長に、さらに喜多郡の会長や県の理事などを歴任している。戦争で一度死んだ命である。元気な間は地域に奉仕することが与えられた使命だと思ってボランティア活動を続けている。ノリ組合の会長にもなり、みんなと一緒にアオノリを取っている。

 ア 大和ノリ組合のこと

 正式の名称は長浜漁業協同組合大和支部である。だから内水面漁業協同組合とは異なる。
 昔から大和ノリ組合といっており、運営も会計は独立採算である。賦合金(ぶあいきん)として売上げから諸経費を差引いた5%を漁協に納入している。
 ノリ組合は1戸1株の154株制をとっている。これは町村合併で6町村が合併し長浜町となる以前、旧大和村時代からの株制を踏襲している。大正末期に広島から来た人が、肱川にもノリができることを教え、昭和の初め、ノリを乾燥させて、商標『大和ノリ』として、初めて東京の「カメセ水産」に出荷した。途中で竹ヒビ(ノリの胞子を付着させるため、海中の干潟(ひがた)に立てる枝付の竹)で養殖を試みたことがあったが、結果は、天然ノリが良いということで現在に至っている。長浜のノリは岩松川の養殖ノリと異なり、浜の自然を相手にする天然ノリ採取である。
 長浜ではノリのことをアオノリとかアオサとか混同して呼んでいる。長浜で取れるノリは正式の和名はアオスジノリである。東京の「カメセ水産」では品質は日本一だと太鼓判をもらっている。長浜のノリは、高級菓子の材料として「カメセ」からアメリカにも輸出している。
 残念ながら生産量が少ない。平成5年度で乾燥製品は2.5tである。昔は年に10t以上の収穫があり、多い年は15tも取っていた。現在は5tも取れれば良い方である。ノリは清流でないと育たない。生活排水や河川工事で川が汚れ、浜も狭くなってきている。それでも取り引きの値段は比較的安定していてキロ当たり1万円である。昨年のノリ組合の取り扱い金額は2,000万円程度である。一戸当たりの収入は20万円から30万円程度にすぎない。
 現在、ノリ組合に所属する人々はほとんどが農業を経営している。今は高齢化が進み、ノリ採取は年寄りの片手間であり、この人々の唯一の小遣銭の財源でもある。天然のノリだから元手がいらない。その日のうちに水洗いして乾燥させる。朝干せば夕方に取り入れられる。一日工程の作業である。ノリ組合として10月にブルドーザーでノリ場の河床をかきならし、ノリのつく荒石を出す作業をしてきた。昨年は収量が上がらなかったのでブルドーザーは入れなかった。専門家によると10月はノリの胞子が活動している時期だから8月の方が良いという。しかしながら、8月に河床をならしたのでは、台風がやってくればブルドーザーを入れた意味がないので、今年も入れることをやめている。
 旧大和村は肱川を挾んで8つの集落に分かれている。1戸1株で154株の人々がノリを採取する場合、申し合わせ事項がある。株を持つ家で親子が同一世帯の場合は、親子で採取してもよい。親兄弟が別世帯であれば、親のみに採取する権利があり、ほかにはない。したがって、採取したノリを運ぶのはよいが、ノリの採取はできないことになっている。
 ロ明けは**会長が各集落の役員と相談して決める。浜を見て二日前に組合員に連絡することになっている。漁区は肱川の河口から白滝の柿早橋までである。組合員であればどの場所で採取してもかまわない。干潮の時間に合わせ、口明けの時間を決める。その時間になると一斉に浜に出て、石に付いたノリをはぐ(採取すること)。大体において二日ではいでしまう。条件が良い年は月に2回とれる場合もある。口明けの時は、どれほどほかに仕事があっても、1年の生活の中の最大の楽しみとして、みんな浜に出てノリをはぐ(写真1-2-13参照)。
 組合では出荷日を決めて、製品を大和ノリ組合の倉庫に集め、東京の「カメセ水産」に送る。「カメセ」と組合の長年の取り引きと信用で、送った製品を見て値段の交渉をしている。ノリ採取はその規模は零細であるが、昔からの株制が維持された村落共同体であり、現在では老人の唯一の楽しみとなっている。肱川の川の流れと海との接点の恵みとして後世まで受け継がれることを願うものである。

 イ 河口付近の川漁の思い出

 **さんは、昔の肱川河口の川漁について話された。「今はウナギも少なくなったが、戦後引き揚げて役場に勤めた時分は、役場からもらう月給よりも、ウナギを取って売った代金の方が多かった。父親はウナギ取りを専門にやっていたので、父親についてウナギ取りを手伝うわけだが、役場の勤務時間外の朝と晩にウナギ漁に従事した。春先はシンドウを仕掛けて取ったが、あとは山から柴を切って、この辺ではインダマといって葉がクスノキに似た木である。これは潮に漬かっても葉が茶褐色になって落ちないので、それを長さ50mの綱に15から20本ほうき状に縛り付ける。これが一配(はえ)で、これを四配から五配持って夜川底に沈めておく。夜が明け始める早朝に、これを上げに行く。柴をあげて水を切る前に、サデ(網)を下につけて打ち振ると、一つの柴に3尾から5尾のウナギが入っていた。それが終わって役場に出掛けていた。
 カ二も柴の中に入っていた。カ二は近所にあげる位で金にはしなかった。多い時はカゴ一杯とれていた。それがなくなるのは農薬撒布が始まってからである。昔は大和だけで6人から7人の人がウナギ漁専門で生計を立てていたが、今は一人もいなくなった。」と回想された。

写真1-2-13 アオノリの漁場(肱川河口)

写真1-2-13 アオノリの漁場(肱川河口)

平成5年1月撮影