データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

河川流域の生活文化(平成6年度)

(1)加茂川とわたし~親子三代が語る川への思い

 **さん(西条市中野 明治32年生まれ 95歳)
 **さん(西条市中野 昭和15年生まれ 54歳)
 **さん(西条市中野 昭和40年生まれ 29歳)
 **さん(西条市中野 昭和44年生まれ 25歳)

 ア 加茂川との付き合い、もう90年(**さん)

 加茂川との付き合いは、もうずいぶん長いものになる。物心がつき始めたときには、加茂川が遊び場となっていた。それ以来、いまだに河川敷でクロッケーをさせてもらっているので、かれこれ90年以上も付き合ってきたことになる。
 わたしが子供のころは、この辺りの子供たちはみんな、夏が来たらほとんど毎日、川につかっていた。当時は、川で遊ぶといってもほとんど泳ぐだけで、男の子も女の子もみんな丸裸だった。家の近くの川原で泳ぐことが多かったが、泳げるところならどこにでも行って泳いだ。
 大雨が降ると、土手のきわの特に深いところは、水が集まって流れがきついので、そこに飛び込んでは、流れに乗って川をどんどん泳ぎ下った。泳ぐ時間はわずかだが、50mくらい下って浅くなると岸にはい上がり、土手を走ってきては、また、飛び込んだ。泳ぐというよりは流されるというほうが適当かもしれないが、たいへんおもしろいので、子供たちは「瀬に乗る」とよんで、みんなやっていた。深さが2、3mあっても、こんまい(小さい)のが平気で飛び込んだが、それで事故があったという記憶はない。泳ぎは、だれに教えられたというものでもなく、遊びの中で自然に覚えてしまっていたので、淵だろうが、何だろうが、別に怖いことはなかった。
 JR予讃線(大正12年〔1923年〕、伊予西条・壬生川(にゅうがわ)間開通)の鉄橋の下流に、当時、「向かいの淵」とよばれていた淵があった。加茂川の水が少なくなると、この辺の子供は、みんなそこへ出かけた。淵は2、3mくらいの深さがあったが、その淵で、わたしたちが「ショウビン」と呼んでいた、飛び込みをよく練習した。「ショウビン」というのは、カワセミという鳥のことで、獲物をねらったカワセミのように川に飛び込むことから、こう呼ばれたのだろう(*1)。岸の高さは、1m50cmくらいあったと思うが、飛び込み方を教えてくれる人がいるわけでもなかったので、まっさかさまに飛び込む者や腹の方からパチャンと飛び込む者もいて、たいへんだった。高さが1m50cmほどあると、頭からすーと行きさえすればいいが、腹の方でも打ったりすると、たいへん痛かった。
 川遊びでは、けががつきものだった。近所の友達が「ショウビン」のけいこをしていて、飛び込んだのはいいのだが、角度が悪くて、石垣の角で頭を打って額に大けがをしたことがあった。わたしも、小学校の3、4年ころに、カジカ(この辺りではゴリと言う。)を釣りに行っていたときに、足を切ったことがあった。わたしが、釣ったカジカを近所の友達が、「逃がしてやる。」などと言って、わざわざ藻でまいて、水の中に落としたので、それを取りに川に入ったところ、石垣の石で足を10cmくらい切ってしまった。そのときは、友達が責任を感じて、背負って家まで連れて帰ってくれた。昔は、悪さもよくしたが、みんな、ちゃんと手加減を知っていたし、しまいもきちんとしてくれた。
 加茂川には、魚もたくさんいた。5月になると、毎年アユが沖(海)から上ってきた。川の水が少ないと、アユが上れず河口付近にたまっていることがあったが、そんなときに水が出ると、沖にいるアユがものすごい勢いで上がってきた。数十cmの幅で、何十mも何百mもまっ黒になって、帯のようにずーっと続いて上がってきた。今なら、みんなほっておかないだろうが、そのころはだれも取ろうとはしなかった。それくらいたくさんのアユが上がってきていた。
 今は、クロッケーが日課になっている。クロッケーは、昭和53年(1978年)から始めた。家のすぐ近くの河川敷が整備されてグランドができ、おかげで年中休みなしである。健康のためには、あれくらいの運動が一番だと思う。勝つとか負けるというのではなく、運動のためにやるようにみんなに奨励している。現在ここに籍を置いているのは40人ほどだが、いつも出てくるのは14、5人である。西条市ではわたしが最年長だが、ここではもっぱら準備係で、朝一番に出かけて、道具を出したりお茶の準備をしたり、冬はストーブをたきつけたりしている。クロッケーも、夏の暑い時や冬の寒い時はちょっとこたえるが、これからもまだまだ元気で、長く加茂川と付き合っていきたいと思っている。

 イ 遠くなった加茂川(**さん)

 結婚してここに来たのは、昭和39年(1964年)、ちょうど東京オリンピックの年でした。
 今年(平成6年)の夏は渇水で、このあたりも水がありませんが、そのころは、水がかれることもなく、アユもよくとれていました。おじいさん(**さん)の時代とほとんど変わっていなかったのではないかと思います。堤防もずいぶん低く、人の手が入っていないという感じで、それだけに洪水の不安が大きかったのも事実です。
 子供が小学校に行くころになると、加茂川も危険箇所が増えて、川遊びは愛護班活動の一環として行われるようになりました。3人の子供が、合わせて10年間、小学校でお世話になりましたが、この地域の愛護班は熱心だったので、加茂川でキャンプをしたり、泳いだり、いろいろな催し物をしたりしました。わたし自身は、子供たちを川に連れていくということはあまりなかったのですが、その代わり、主人が子供たちをよく川に連れていっていました。自分が魚を取りに行きたいので、嫌がる子供たちを無理に連れていったことの方が多かったような気もします。加茂川で育った主人やわたしなどの世代には、まだまだ川への愛着が強く残っているように思いますが、子供たちの世代になると、加茂川で遊ぶことも少なくなり、それだけ川に対する親しみが薄くなったのではないでしょうか。今では、加茂川に行くのは、犬の散歩のときくらいになってしまいました。

 ウ 泳ぎは、やっぱり川のもんじゃ(**さん・**さん)

 小学校のころは、加茂川に遊びに行くというようなことはほとんどなかったが、中学校になると、友達と上流の方へ泳ぎに出かけるようになった。自作のヤスで、アユなどを突きにいったこともあった。そのころは、アユもけっこうたくさんいたように思う。取ったアユは、河原で焼いて食べたが、わたしたちの世代になると、焼き方がわからず黒焦げにしたり、大きなアユだったのに、焼いているうちにほとんど身がなくなってしまうということもしばしばだった。加茂川の清流で、泳いだり魚をとったりしながら、友達と1日中遊んだことは、今も楽しい思い出となっている。
 最近は、加茂川も、川幅は広くなったが、川は浅くなり、わたしたちのころと比べると、淵が少なくなったように思う。わたしは、淵に潜って一番底でじっとしているのが好きだった。淵の底から水面を見上げると、太陽がキラキラキラキラゆらいで、その中を泳いでいる者や魚の影がよぎったりする。まるで自分が魚になったような気分で、息の続く限り潜っていた。息が苦しくなり浮かび上がろうとしたが、なかなか水面に出られず、溺れかけてあわてたこともあった。今考えると、ずいぶん深かったのだろう。水がきれいだから、そんな楽しみもあった。
 加茂川で泳いでいると、海などではとても泳げない。水から上がったときの感じが、とてもさっぱりしているので、「泳ぎは、やっぱり、川のもんじゃ。海で泳ぐのは、邪道じゃ。」などという声もよく聞く。
 現在、加茂川が最も身近に感じられるのは、10月15、16日の西条祭りのときである。市内のだんじりが加茂川に勢ぞろいするが、川に入れるのは、わたしたち神戸(かんべ)のだんじりだけで、たいへん名誉に思っている。友達のうち半分くらいは西条を離れてしまっていて、日ごろはわずかしかいないが、祭りになるとみんな戻ってきて、すぐに50名くらいにふくれ上がる。したがって、祭りの運営には支障はないが、できれば、若い人が戻れる環境が整備されて、都会で吸収したものをこちらで生かせられるようになればいいと思う。


*1:大洲神伝流の飛び込み業の中にも同じ名のものがあり、興味深い。

写真1-1-1 加茂川風景

写真1-1-1 加茂川風景

西条市中野付近。平成6年7月撮影