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身近な「地域のたからもの」発見-県民のための地域学入門-(平成22年度)

19 えひめの自然・景観-小田川の原風景-

 川は、いつの時代にあっても、その流域に生きる人々の生活に深く影響を与えている。400年の歴史をもつ大凧(おおだこ)合戦の開催で有名な小(お)田(だ)川(がわ)は、喜多(きた)郡内(うち)子(こ)町小田を上流域として西へ流れ、内子町で中山川(なかやまかわ)を吸収し、五(い)十(か)崎(ざき)を貫流して鳥首(とりくび)で肱川(ひじかわ)に合流している。
 小田川は水量が豊富で流れが緩やかであるため、戦前までは、筏(いかだ)や川舟を利用した輸送が行われていた。小田(おだ)深(み)山(やま)で伐採された木材を旧小田町と旧内子町境の突合(つきあわせ)に集め、そこでフジカズラを使って筏を組み、小田川を流し、途中、川幅の広くなる龍宮(りゅうぐん)渕(ふち)と鳥首で連結を増やして流送し、筏師によって長浜(ながはま)まで運ばれた。筏師は、帰るときは筏に積んでいた自転車に乗って帰っていた。
 小田川と中山川の合流地に位置する知(ち)清(せい)は、川舟の起点・終点として整備され、六(むい)日(か)市(いち)、八(よう)日(か)市(いち)で生産された晒蠟(さらしろう)や木炭、楮(こうぞ)、棕(しゅ)櫚(ろ)皮、和紙などを舟に積み、長浜へ運んでいた。『河川流域の生活文化』の中で喜多郡肱川町(現大洲市)の**さん(大正12年生まれ)は、川舟について次のように語っている。
 「川舟は大正時代が最盛期で、肱川上流からは木炭や野菜、繭(まゆ)を、小田川沿いには晒蠟、銅鉱石を運んでいた。人も乗せていた。帰りの便には、塩干物や生活物資を積んでいた。川舟はほとんどが一人乗りで、川の流れに乗って軽く滑っていた。上りは潮を待ち、後は八多喜(はたき)あたりまで帆(ほ)をかけて上り切る。瀬にさしかかると船頭が綱を肩にかけ、あるいは牛を雇(やと)って舟を引かせていた。その川舟も筏も次第に馬車・トラックに変わり、昭和24年(1949年)ころには姿を消した。」
 知清には洗い場があり、周辺の人々が集まり、着物を洗ったり野菜を洗ったりしていた。また、河原は花見や競馬、相撲(すもう)の興行など人々の娯楽の場でもあった。子どもにとっては、魚取りや水泳など遊びの場であった。
 五十崎地区でも同様で、『わがふるさとと愛媛学Ⅵ』の中で五十崎町天神(現内子町天神)の**さん(昭和8年生まれ)は、次のように語っている。
 「私の幼いころは、上池(かみいけ)で泳ぎを習い、少し上手に泳げるようになると、『りゅうぐんの住吉さん』(龍宮堰(せき)の下流にある住吉神社のあたり)の比較的危険の少ないところで遊び、上手に泳げるようになると、深みのある大岩(龍宮堰の100m上流にある珪岩(けいがん)の巨(きょ)礫(れき))付近で遊ぶことができたのです。私たちの少年時代といえば、戦中戦後の食糧難の時代だったので、水で遊ぶといっても延縄(はえなわ)・じんどう・餌付(えづ)け・四(よつ)手網(であみ)等のいろいろな漁をしながら遊んだものでした。」
 物流、娯楽、遊びの場としてだけでなく、小田川は流域の産業にも大きな恵みを与えている。五十崎では古くから龍宮に龍宮堰を設けて水田の灌漑(かんがい)用水を取っていた。また、五十崎を中心とする大洲和紙も小田川の豊かな伏流水によってはぐくまれ、発展してきた。小田川と和紙づくりとのかかわりについて、『わがふるさとと愛媛学Ⅵ』の中で、五十崎町天神で手漉き和紙工場を経営する**さんは、次のように語っている。
 「全国を見てみましても、和紙産業というのは必ず大きな川のほとりにできています。原料をたく、洗う、さらす、すくというすべての工程で、多くのきれいな水が必要となるからです。当地でも和紙づくりが盛んになったのは、原料もさることながら、やはり大きなのは小田川というものがあったからだろうと思っております。」
 かつて小田川は、生活用水、農業用水、産業、物流、遊漁、娯楽の場、子どもの遊びの場として流域の人々の生活に不可欠なものであった。しかし、近年の河川改修や人々の生活の変化により、川と人々の生活との関係も大きく様変わりした。