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身近な「地域のたからもの」発見-県民のための地域学入門-(平成22年度)

14 えひめの人生・通過儀礼-幼児から子どもへ-

 人は、その誕生から死に至るまでに、様々な儀礼を通過するとともに家庭や地域といった社会集団の中で役割を果たしながら、生きていく知恵や術(すべ)を学ぶ。
 医療が未発達で病気や栄養不足による乳幼児の死亡率が高かった時代は、「七つ前は神の子」と言われ、子どもが無事に育つかどうかわからない状況であった。そのため、昭和30年ころまでは県内各地に、子どもの健やかな成長を願う様々な習俗が残っていた。
 今治(いまばり)市伯方(はかた)町では、苦労しながら子どもを一人前に育てあげていくことをコアライともコヤライとも言っている。コヤライとは、子が大勢で身が自由にならないことを矢来(やらい)(タケや丸太を粗く組んだ囲い)に取り囲まれていることに例えたことから生まれた言葉だという。『愛媛のくらし』の中で、越智郡伯方町(現今治市伯方町)の**さん(大正6年生まれ)と**さん(大正10年生まれ)は、コアライについて、次のように語っている。
 「わたしらがコアライ(子育て)をしていたころは大変でした。子供がよく亡くなっていました。七つ(7歳)がきてほっとするくらいでした。まず、ミルクがない時分でしたから、母乳の出の悪い人は、お米を洗って乾かし、かがつ(すり鉢)ですって粉にして炊いた『すり粉』を飲ませていました。ほ乳瓶(びん)がないから、側に付いていてさじで飲まさなければならないので大変でした。母乳が出るか出ないかは、母親と赤ちゃんにとって何よりも大きな問題でした。曇(どん)天(で)の池のお地蔵さんに、布で乳房の形を二つ作ってお供えして、お乳が出るように祈願していました。
 子どもの病気のことですが、麻疹(はしか)とかジフテリアなどの伝染病で赤ちゃんがよく亡くなっていました。麻疹には、イセエビの殻(から)を陰(かげ)干(ぼ)しにしたのをせんじてその汁を飲ませるとよいと言われていました。イセエビはめったに手に入らないものですから、一度せんじたものを、乾かせてまた使っていました。」
 「わたしの母は、よく子どもが急に高い熱を出したときなど、箕(み)加持(かじ)(箕などを用いた祈(き)祷(とう))をしてあげると言って、箕にすりこぎ、火ばし、しゃもじ、しゃくし、はし、まな板、包丁を入れて神棚に祀(まつ)っておいて、それで、がしゃがしゃ音をさせながら、『あびらうんけんそわか、あびらうんけんそわか。』と唱えながら、子どもをあおいでいました(写真3-3-17参照)。」
 子どもが無事に7歳を迎えると、地域社会はそれぞれのやり方で子どもの祝いを行った。7歳を迎えた祝いについて、前述の**さんと**さんは、次のように語っている。
 「女の子は、まず3歳になると、ヒモオトシとかヒモハナシと言っていましたが、着物のひもをのけて、今まで付けひも(着物に縫(ぬ)い付けているひも)で着物を着ていたのをやめて、はじめてしごきの帯(一幅の布を適当な長さに切ったままの帯)を結びました。女の子は、七つのときまでは、着物は平(ひら)袖(そで)(袖口の下方を縫い合わさない袖)で、7歳になって袂(たもと)(袖の下の袋のようになったところ)をつけて、帯を結んでいました。
 男の子の鯉幟(こいのぼり)は、七つになると立て納めをして、その年の5月5日にタチアゲというお祝いをしていました。これは初節句のとき立てた幟その他を飾って祝いをするのです。ちまきをつくって近所に配ったり、両家の両親を呼んでちょっとお客(祝いなどの宴(うたげ))をして、ここまで大きくなったということを祝ったものです。そしてこれ以後は幟を立てることをやめます。鯉幟がなくなると、その家に幼児がいるという標識がなくなるのです。」
 男女ともに7歳は幼児から子どもになる成長段階の一つの区切りの年齢と考えられ、7歳のときに、幼年期最後の通過儀礼を行う地域は県内に多数見られる。

写真3-3-17 箕加持でまじなう

写真3-3-17 箕加持でまじなう

箕の台所の七つ道具を入れ、じゅもんを唱えながらあおぐ。『愛媛のくらし』から。平成11年撮影