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身近な「地域のたからもの」発見-県民のための地域学入門-(平成22年度)

(1)写真から読み解く地域のすがた②

 イ 松山市湊町

 松山(まつやま)市湊町(みなとまち)は江戸時代初期には永(なが)(長)町と呼ばれ、当時から町人が住み商業が営まれていた。明治に入り、県庁や地方裁判所などの官公庁の番町地区への立地や学校の集中化などで、小(こ)唐人(とうじん)町(現大街道(おおかいどう))とともに繁華な町へ発展した。明治21年(1888年)の伊予鉄道(松山-三津間)の開通や松山駅(現松山市駅)の設置、さらには、明治20年代~30年代にかけての高浜(たかはま)、森松(もりまつ)、郡中(ぐんちゅう)、横(よこ)河原(がわら)線の新設延長により松山駅がターミナルになったことで、湊町は活況を呈(てい)した。
 戦前、湊町三丁目は呉服店・洋品店・履物(はきもの)店・足袋(たび)店・金物店・帽子店・眼鏡店・仏具店など種々の商店が並び、四丁目は呉服店が多く、11月には大売り出しのえびす市が開かれていた。湊町と大街道一丁目が交差するあたりは「魚(うお)の棚(たな)」と呼ばれ、魚屋、蒲鉾(かまぼこ)屋、天ぷら屋が多くあり、庶民の市場として栄えていた。しかし、昭和20年7月の松山空襲により湊町商店街は全滅した。
 戦後の昭和20年12月、伊予鉄道本社焼け跡地にバラックで伊予鉄マーケットが開店し、翌年には湊町三丁目にいよや百貨店が、さらに大街道に三越百貨店が開店したのを契機に、湊町商店街も急速に復興していった。昭和28年には、全国に先駆けてアーケードを設置した。そのアーケードの天井(てんじょう)が銀色に光っていたことが、銀天街の名前の由来になっている。街が東西に長く伸びている(約600m)ため、当時は「銀天街横のデパート」と呼ばれ松山の新しい名所の一つになった。アーケード完成後は、市駅で降りて湊町商店街を通り大街道を通って三越へ行くというL字型に人の流れが変化した。その後、高度経済成長とともに大量消費の時代が到来すると商店街はますます繁栄した。
 しかし、昭和43年(1968年)、近隣にフジ、ニチイ、いづみと立て続けにスーパーが開店し、同45年にダイエーが千舟町に開店してから人の流れが大きく変化した。市駅から直接、ダイエーに向う人が増え、湊町商店街を通らなくなった。さらにスーパーに対抗する形で昭和46年に三越が増床、いよてつそごうが開店し、市駅で降りると、いよてつそごうからダイエーへ、それから千舟町経由で大街道を通って三越へ行き、百貨店やスーパーで買い物をする人が多くなった。
 一方、湊町でも昭和48年に三丁目にラブリープラザが開店、さらに同52年にはまつちかタウン入口付近にシルバーモールが開店し活力を取り戻した。その後、1980年代後半からのバブル景気により、平成2年には人通りもピークに達し、商店街の地面が見えないほど人があふれていたこともあった。
 ところが、バブル景気の崩壊とその後の平成不況、郊外型のショッピングセンターや大型店舗の進出により人通りは激減し、空き店舗も目立つようになった。そこで、昔の活気を取り戻そうと平成22年4月には約40年ぶりに歩道を全面改修するなど、新たな街づくりに取り組んでいる(写真2-4-4・6参照)。

 ウ 西予市三瓶町朝立

 昭和20年ころの三瓶町(現西(せい)予(よ)市三(み)瓶(かめ)町)朝立(あさだつ)には桑畑が広がっている。三瓶町では、明治時代に木綿(もめん)縞(じま)製造が繁栄していたため養蚕の導入が立ち遅れたが、大正末から昭和初期にかけて養蚕業は最盛期に入り、水田までも桑畑にするところがでてきた。しかし、昭和初期のあいつぐ恐慌による繭(けん)価(か)の暴落、戦中・戦後の食糧増産策による甘藷(かんしょ)栽培への転換、その後のミカン栽培により、桑畑は完全に消えてしまった。桑畑も、現在は柑橘(かんきつ)園(えん)や住宅地に変わっている。
 『宇和海と生活文化』の中で三瓶町の**さん(大正12年生まれ)は、養蚕が盛んであった当時の状況を次のように語っている。
 「わたしの家ではクワ畑が標高300 m位のところにあって、往復に2時間もかかります。夏のクワなど、かごに詰め込むと、熱を出して、それこそ手がつけられないほど熱くなります。家に帰るとすぐ水をかけ、冷やしながらクワつぼ(土間や床下にある)に広げるわけです。晩秋(ばんしゅう)蚕(さん)や晩々(ばんばん)秋(しゅう)蚕(さん)には炉(ろ)があって暖房します。カイコの世話では除沙(じょしゃ)といって排せつ物そのほかの汚物の掃除が毎日あって、それこそネコの手もほしくなります。
 その上、最盛期の4齢に入ると、座敷も床の間もありません。どの部屋も全部蚕棚で一杯になるので、夫婦は蚕棚の谷間に、せんべい布団を出して着のみ着のまま、仮寝の1週間です。そのため、一(ひと)蚕(かいこ)の後には決まって、町の医院に患者が増えたそうです。それにひきかえ、カイコはお座敷で『お蚕(かいこ)様(さま)』でした。」 
 敷島(しきしま)紡績(ぼうせき)三瓶工場は、昭和4年(1929年)に三瓶町発展のために誘致され、翌年に操業を開始した近江(おうみ)帆布(はんぷ)三瓶工場である。昭和8年に近江帆布は朝日紡績になり、工員1,430名(男子130名、女子1,300名)、工場の規模は55,000錘(すい)で、県内では川之江の富士紡績、北条の倉敷紡績に次ぐ規模を誇った。戦時中の昭和19年、朝日紡績は敷島紡績に併合され敷島紡績三瓶工場になった。
 明治時代から木綿織りが盛んであった三瓶では、近江帆布が誘致される前の大正8年(1919年)に三瓶織(しょく)布(ふ)が操業を開始した。しかし、戦後恐慌(きょうこう)や関東大震災の余波で取引先の営業がゆきづまり、昭和4年に八幡浜の酒(さか)六(ろく)に一任し入山綿布として再出発した。入山綿布は、昭和21年に酒六に合併し、酒六三瓶工場(当時の工員240名、全自動織機618台)となった。
 昭和26年から30年ころが綿布生産の最盛期で、敷島紡績と酒六の両工場には、南予一円から1,500人以上の従業員が集まり、町は活況を呈(てい)した。大正末期に塩田を埋め立ててつくられた塩田町通りの商店はにぎわい、町の中心商店街となった。しかし、このような恩恵を町に与えた敷島紡績三瓶工場も、昭和30年代初期の繊維不況のあおりを受けて昭和35年に閉鎖された。工場施設は、昭和36年から規模の縮小はあったものの伊予紡績会社として復活、昭和52年に喜福工業株式会社と合併し、社名を喜福工業伊予工場に改称した。同年、酒六三瓶工場が工場の整理統合により閉鎖され、その後、繊維産業の不振により、喜福工業伊予工場も平成2年に閉鎖された。
 現在、敷島紡績工場跡は、三瓶小学校や三瓶保育園、文化会館、保健福祉総合センターなどの公共施設や商店、住宅などになり、酒六工場跡も大型スーパーや商店、住宅などに変わった。昭和の時代に、保内町とともに南予を代表する紡績の町として栄えた三瓶町は、繊維産業の衰退とともに大きく変容した。

写真2-4-4 魚の棚より湊町三丁目付近をのぞむ(現在)

写真2-4-4 魚の棚より湊町三丁目付近をのぞむ(現在)

松山市湊町。平成22年10月撮影

写真2-4-6 現在の銀天街

写真2-4-6 現在の銀天街

松山市湊町。平成22年10月撮影