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身近な「地域のたからもの」発見-県民のための地域学入門-(平成22年度)

2 地域のことを知る

 身近な地域を歩きながら、歴史を感じさせるものや、ほかの場所ではあまり見かけることのないものを目にすると、「どのようないわれを持つのだろう。」とか、「なぜここにあるのだろう。」と疑問に思い、興味がわいてきます。
 前項で述べた、愛媛県生涯学習センター周辺で見つけたものに関していえば、「衛門三郎とはどのような人物なのだろう。」とか、「なぜ衛門三郎が四国遍路の開祖といわれるのだろう。」とか、「道標を建立した中(なか)務(つかさ)茂(も)兵(へ)衛(え)という人物について記録は残っているのだろうか。」とか、「この辺りに遍路にかかわる道標や建物等が多いのはなぜだろう。」とか、「そもそも遍路とはどのようなものなのだろう。」といった様々な疑問が浮かびます。
 ただし、道標や建物などを見ているだけでは、それらの疑問を解決することはできません。「衛門三郎(右衛門三郎)」や「中務茂兵衛」、「遍路」などの言葉を頼りにしながら、本を探して読んだり、インターネット等で情報を検索したり、地域の歴史や伝承などに詳しい人に話を聞いたりしながら、知りたい内容について調べる必要があります。
 そこで、例えば、愛媛県生涯学習センターで刊行された遍路文化についての調査研究報告書(『四国遍路のあゆみ』『伊予の遍路道』『遍路のこころ』の3冊、写真2-1-6参照)を開いてみると、衛門三郎(右衛門三郎)について次のように書かれています。
 「四国における弘(こう)法(ぼう)大(だい)師(し)をめぐる大師伝説は数多く伝承しているが、その中でも右衛門三郎発心譚(ほっしんたん)は、四国遍路の元祖とも称されている伝説である。この伝説については、各論者がそれぞれ示しているが、ほぼ同一の筋書きであるので、真野俊和著『旅の中の宗教』の記述を次に紹介しておきたい。
 右衛門三郎はもと伊予国荏原荘(現在の松山市恵原町)に住む長者であった。しかしその人柄は天(てん)下(か)無(む)双(そう)の悪人、慳貪(けんどん)放逸(ほういつ)の者であったという。ある日彼の屋敷の門前に一人の旅の乞食(こつじき)僧(そう)が立ち、一鉢(ひとはち)の食を乞(こ)うた。もとより強欲(ごうよく)非道(ひどう)の三郎のこととて、一文(いちもん)の喜(き)捨(しゃ)にすら応ずるはずもない。だが旅僧もまたそれから七日の間、門前に立っては同じことをくり返した。そしてついに八日目の朝、僧がやってくるのを見るや、三郎はいきなり僧の差し出す鉄鉢を奪いとり、地面にたたきつけた。鉄鉢はたちまち八つに砕け、八方に飛び散っていった。ところがどうしたことか翌日から八日間にわたって、三郎の八人の子どもたちは次々に原因不明の高熱を発し、手あての甲斐(かい)もなくあっけなく皆死んでしまった。
 八人の子どもをなくしてはじめて己(おのれ)の悪業(あくごう)を知り、また無(む)常(じょう)を感じた彼は、さてはかの乞食僧こそ弘法大師であったかと、罪を謝(しゃ)すべく僧のあとを追って旅に出るのであった。けれども再び乞食僧にめぐり会うこともできず、故郷を捨てて四国路を巡ること二十度、そして二十一度めの遍路の途中、ここ阿波(あわ)国は焼(しょう)山(さん)寺(じ)の麓(ふもと)までたどりつき、彼はついに老いと疲労のために倒れてしまったのである。今まさに息を引き取ろうとしている三郎のもとにかの乞食僧、実は弘法大師はようやく姿を見せた。そして大師は三郎の罪を許し、また最後の願いごとがあれば何なりと聞き届けようと約束する。三郎は大いに喜び、ただひとつ伊予の国主(こくしゅ)河野家の子どもとして生まれかわりたい願いのあることを語り、ついに息をひきとるのであった。
 またこの話には幾(いく)つかの後日談がある。一つは弘法大師が三郎をその地に葬(ほうむ)り、そこに大師持参の杖(つえ)を立てると、杖はやがて成長して大きな杉の大木になったという話である。またもう一つの話は、三郎を葬るにあたって、大師は彼の左手に『右衛門三郎』と記した小石を握らせた。ある時河野家に一人の男子が生まれ、その子は左手にしっかりと小石を握っており、あけてみると「右衛門三郎」の文字が読め、人々はこの子が右衛門三郎の後身であることを知ったという話である。そして前者の話は、現在も番外霊場の杖(じょう)杉(しん)庵(あん)に、阿波焼山寺伝説として伝承されており、後者の話は、松山市にある石手寺の名前の由来(安養寺から石手寺に変更)ともなり、その石は寺宝となっている。」
 また、『四国遍路のあゆみ』には、周(す)防(おう)国(現在の山口県)生まれの中務茂兵衛(1845~1922年)について、「四国霊場を280回も巡拝し、人々に生き仏として慕われた遍路人」として紹介され、前人未到の巡拝度数を記録し230余基の道標石を建立したといわれる中務茂兵衛の生涯や業績がまとめられています。
 一方、調査研究報告書の『伊予の遍路道』では、「上(かみ)浮(うけ)穴(な)郡久万(くま)町の四十四番大宝(だいほう)寺と美(み)川(かわ)村の四十五番岩(いわ)屋(や)寺を打ち終えた遍路は、現在の三(み)坂(さか)峠より北東約250mにあるかつての土(と)佐(さ)街道の三(見)坂峠を越えて、松山市浄(じょう)瑠(る)璃(り)町の四十六番浄瑠璃寺に向かう。」と記され、明治20年(1887年)に三坂新道(現在の国道33号の前身)が開通するまでは、札始大師堂や八ツ塚群集古墳、文殊院がある辺りに松山と久万・土佐を結ぶ重要な街道が走り、それが遍路道でもあったことが書かれています。
 このように、本を読むことによって、衛門三郎についての伝承や中務茂兵衛に関することを知ることができ、美川村(現久万高原町)の岩屋寺から三坂峠を経て松山市の石手寺にいたるまでの遍路道が上野町や小村町、恵原町に通っていて、そのためにこれらの町では遍路にかかわる道標や建物等が少なからず見られる、ということを再認識できます。しかも、前項で述べたような、札始大師堂から文殊院に向かって歩く道筋は、本来の遍路の道順からすれば逆に進んでいることになり、その文殊院を後にして、さらに県道194号を南に進むと、四十七番札所の八(や)坂(さか)寺と四十六番札所の浄瑠璃寺とが隣接するようにあることもわかります。
 目に留めたものへの、「これは何だろう。」とか、「なぜここにあるのだろう。」といった疑問を解決することで、それまで見るともなく見ていた日常の風景を意識して眺(なが)めるようになったり、新たな疑問が浮かんできたりします。これまでの話に戻せば、身近な地域の田んぼの中を通っている特にとりたてて言うほどのこともない道(写真2-1-7参照)を、何百年も前から多くの遍路が行(ゆ)き交(か)ったことに思いをはせながら見つめるようになったり、「衛門三郎の伝承はなぜ残ったのだろう。」とか「地域の人たちは遍路と接しながらどのような生活をおくってきたのだろう。」といった新たな疑問をいだいたりして、遍路文化や遍路と地域の人たちとのかかわりなどへと興味や関心が広がるかもしれません。
 このように、地域を歩き、地域を調べ、地域を知ることを繰り返す中で、身近な地域を見つめ直し、第1章で述べた「地域のたからもの」、すなわち地域に根づいた生活や文化、産業などを再発見することができます。次節では、その「地域を調べる」ための具体的な方法について紹介します。

写真2-1-6 遍路文化についての調査研究報告書

写真2-1-6 遍路文化についての調査研究報告書


写真2-1-7 田んぼの中の遍路道

写真2-1-7 田んぼの中の遍路道

四十七番札所八坂寺を過ぎた辺りの遍路道。この道を少し先に進むと、左前方に八ツ塚群集古墳が見える。松山市恵原町。平成23年1月撮影