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県境山間部の生活文化(平成5年度)

(4)少年時代を高市で過ごした実業家

 里親をしている**さんが、高市小学校に勤務していたころにあったという、30年ほど前のエピソードを紹介してくれた。

 高市小学校の10代目の校長は川崎政吉先生といって、この高市に3年ほど勤められました(明治44年(1911年)~大正3年(1914年))。この先生の子供にあたる川崎正蔵さんは、その後、東京で実業家として成功されたんですが、「一度死ぬまでに、高市へ行ってみたい。」と言って、昭和38年(1963年)の夏休みにひょっこり訪ねてきたんです(写真3-2-20参照)。
 学校に現われたときは、大きな風呂敷にお土産をいっぱい詰めた出で立ちだったので、日直の女の先生が学校近くの私の家へやってきて、「どうも**先生、押し売りみたいな人がおいでとんじゃが、来てみてーな。」と言うんで、行ってみました。風呂敷の中には、缶に入った浅草海苔や外国タバコなんかがいっぱい入ってました。話を聞くと、実はこうこうで「高市がなつかしい、昔の自然が、山も川も、形が変わっとらん。当時の写真を見せて欲しい。同級生の○○さんはおいでるか。」と言われるんで、私は校長先生やPTAの会長さん、村のみんなを集めて、昔の話に花を咲かせました。
 「私も今でこそ成功さしてもろとるんで、学校に対してできるだけのことをしたい。何でも言うてくれ。」と言われるんです。早速PTAの委員会を開いて相談した結果、「学校単独で給食を始めて間がないんで、冷蔵庫を買うてもろたら…。」と。そのことを川崎さんに伝えると、「そんなもんじゃない。もっと大きなもんを言うてくれ。」、それなら、東京オリンピックが近づいて共同アンテナの設備ができたところだったんで、当時で30万くらいする「ブラウン管の前に観音開きの扉がついて、高い台の上に置くようなテレビを…」、「そんなもんじゃない。もっと大きなもん、もっと大きなもんを…。」と。
 当時は、小さな川で子供が泳げんので、年に1回だけ臨海学校に連れて行った程度だったんで、「それじゃあプールを」ということになりました。土地は地元が負担したんですが、とうとう本当にプールを作ってもらったんです。それから後も、次から次から、「高市の子が利用するから中学校へもプール」、「老人が寄るから公民館に冷暖房」、「玉谷小学校だけプールがないのではかわいそうだからそこにもプール」と言ってくれ、ものすごいことになってしまったんです。
 中にはその好意を悪く言う人もいましたが、その気持ちは大変ありがたいと感じました。

写真3-2-20 広田村教育委員会前に建つ川崎正蔵氏の胸像

写真3-2-20 広田村教育委員会前に建つ川崎正蔵氏の胸像

平成5年5月撮影