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県境山間部の生活文化(平成5年度)

(2)久万高原に野火の火を灯(とも)す明杖(あかづえ)グループ

 ア 全国農業コンクール名誉賞に輝く明杖グループ20年の歩み

 平成4年8月、第41回全国農業コンクール全国大会(毎日新聞社、石川県、財団法人富民協会主催)が金沢市において開催された。毎年行われるこの大会には、都道府県予選、地区予選を経て選ばれた20人の地区代表が、農家の農業経営や生活改善グループの実践の成果を発表するコンクールである。この大会に中国・四国地区代表として出場した久万町上畑野川、明杖生活改善グループ代表の**さんは、最優秀の「名誉賞」(農林水産大臣賞)を受賞する栄誉に輝いた。
 明杖グループの**さんが発表したテーマは、「久万高原に野火を灯して-山村を興しつづけたグループの20年」であった。
 この名誉ある受賞について、明杖グループ員の**さんは「細く長くをモットーに特別活発な活動もできませんけれども、グループ員みんなでお互いに助け合ってやり遂げる協力しあう気持ちが長続き出来た原因ではないかと思います。またグループの中に、私たちを強くひっぱってくれるしっかりしたリーダーに恵まれていること、大変幸せなことだと思います。」と『ささゆり第23号』に感想を寄せ、更に、「この受賞も県の農業改良普及所や町役場はじめ関係機関の皆さんの大きな応援のお陰です。(⑨)」と述べている。

 イ 明杖農家生活改善グループのスタート~農村危機感から結束

 **さん(久万町入野 昭和25年生まれ 43歳)
 **さん(久万町上畑野川 大正14年生まれ 68歳)
 **さん(久万町上畑野川 昭和4年生まれ 64歳)
 **さん(久万町上畑野川 大正15年生まれ 67歳)

 (ア)生活学級からの出発

 明杖グループが結成されたのは昭和44年(1969年)であり、昨年は結成20周年という記念すべき年を迎えた。このグループの母胎は、婦人会による生活学級(若妻学級)の営みにあった。当時の事について**さんと**さんは「当時まだ30代であった私たちは、子育てをしながら熱心に生活学級に通いました。生活学級は明杖の集会所でやりましたが、農業改良普及所からキッチンカーが来て料理講習はじめ育児の方法、家庭電気器具の基礎知識などを学びました。当時はまだ道が狭かったので『負い子』に料理材料を入れて運び、水もバケツで運んだりしました。その中でもっと自主的に勉強したいという共通の願いを持つ16人でもって生活改善グループを結成したのです。」と若い農村婦人たちが燃えるような思いでグループを組織したきっかけについて語っている。
 また、昭和44年には稲作減反政策が打ち出され、農家は稲作転換を迫られた時期であった。このことが彼女たちに強い危機感を抱かせ、結束する意欲をかきたてたのである。
 更に、(1)のクの「農村青年の文化活動の花」で述べたように畑野川地域は、古くから社会教育の先進地帯であり、学ぶ事に熱心な土地柄である(今日でいう生涯学習)という精神的土壌がグループのスタートの背景にあった。

 (イ)生き残りを賭けてトマト作りへ~10億円産業「久万高原トマト桃太郎」への苦労の道

 久万町は、冬には積雪の厳しい自然条件の中、田畑合わせても1戸平均の経営面積がわずか65aの小規模農家の多い地域である。それだけに稲作転換の減反政策は、農家の人々にとって死活の問題であった。
 そこでグループの彼女たちは夫と共に「生き残る道」を求めて行動を開始した。当時の様子を**さんは、次のように語っている。
 「そこで私たちは、それこそ生き残りを賭けて地域に合う新しい作物を模索し始めました。夫たちと共に先進地や市場調査、過去に地元で栽培していた作物の見直し等を重ね、更に改良普及所や農協の指導も受けた末に、6組のグループ員夫婦が協力してトマトづくりに取り組むことに決めました。まず、6組の夫婦は、合計30aの水田にトマトを試作し、トマトの露地栽培(ろじさいばい)、収穫、市場出荷と寝る間も惜しんでまるで熱病のように取り組みました。夜は12時にすんだら早いほうで、普通は午前2時ころまでやり、地下たびを脱ぐ間もなく眠るというで状態で、仕事がすんだら夜が白むことも年に数回はありました。それというのもトマトの出荷は、当番制で朝6時ころ、前の晩に自分たちで選果しておいたトマトを車に積み込み、その上に私たちが乗っていきました。高知の市場へ届けるのは道路事情が悪く、片道4時間もかかりました。その後高知から帰り、その日の収穫、選果作業をしましたから大変でした。(写真3-1-28参照)」
 「私たちがトマトを作り始めた当時は『あんな臭いもん作って、金になるもんか』とお年寄りや地域の人たちから言われたりしましたが、苦労の甲斐があって30aの試作で10a当たり4tの収穫をあげ、30万円の売上げがありました。始めて30万円の代金を手にした時は、喜びと感動で胸が一杯になりました。」
 以上のようにグループの夫婦が一体となって苦労に苦労を重ねた実践活動で得た自信を基に、翌年から本格的にトマト栽培を進め、夫婦協力して同志を募り、遂に1年後の昭和46年に久万農協トマト部会結成にこぎつけたのである。当時、トマト生産の成果については「一畝で5万円取った人もおる。タバコで一反4万円だったから、いかにトマトがよかったか」とも言われ、農業所得の向上と生活の安定に貢献することとなった。
 その後、久万町は関西一の夏秋トマトの産地となり、20年後の今日では、トマトの栽培農家198戸、10ha、10億円規模の産業となり、「(久)高原トマト桃太郎」と命名されて名声を博するようになった。

 (ウ)農業の基盤づくりと農家生活の合理化

 グループでトマトづくりを始めたころは、まだ基盤の整備がされていない棚田で作っていたので重労働の連続であった。トマトを箱に詰めて、急な坂道を負い子で背負って運搬し、庭先で選別して高知へ出荷するというような苦しい体験から、収入は増えても、からだが続かなくなると基盤整備が切望されるようになった。グループは夫婦ともども地域の根まわしに奔走し、久万町や農協の積極的な支援により昭和48年に農業構造改善事業の導入ができ、地域の圃場(ほじょう)が整備された。
 更に、農家の人々の健康を守り、健康管理と農家生活の合理化を図るため、雨よけ施設や共同選果場の設置を粘り強く要望した。やがて昭和56年(1981年)には、転作促進対策事業によってトマトの大型選果場と農協リース制度によって全戸に雨よけ施設の設置が実現した。
 **さんは「大型選果機の導入により、農家の主婦に時間的な余裕ができたので、大正琴や民謡、カラオケと皆さんそれぞれ余暇を楽しむようになりました。しかし、余裕が出来た反面では、かつて農作業が多忙な時、子供やお年寄りも家族全員が手伝って家族同士の交流とふれあいがありましたが、そのような光景もだんだん少なくなるのは淋しいことです。」と農業の基盤づくりや機械化、合理化の成果とともに農家生活の変化の様子を語っている。

 ウ 住居の改善に取り組む~初めて主婦が連帯で借金

 このようにトマトの生産で、従来よりも多忙となった農家の主婦たちは、昔ながらの住居が家事作業に大変不便である事を痛感するようになった。
 グループの人たちが住居の改善に取り組んだことについて、**さんと**さんは「農家の住まいについては、風呂は外棟で台所も暗く、トイレも外で汚く不便であったので、何とか便利にならないものかと思っていましたら、無利子の農家生活改善資金制度があることを教えられ、これを借りて改善することにしました。
 ところが、おばあさんたちが『おんなが借金してはいけない。どうしても借金するのなら、私か貸してやるけん。』と強く反対されたのですが、私たちはグループみんなが連帯して改善資金(5年で返却)を10万円から30万円借りて住居の改善に踏み切りました。自分たちで設計して台所や内風呂、便所や子供部屋などを改善しました。昔からの『おくど』や流し台の改善、便所は無臭トイレに、井戸も改善してモーターのポンプとなり大変便利になりました。初め反対したおばあさんが改善したトイレを最初に使ってもらって安堵したものです。このように家族みんなから感謝された住居改善の始まりは、昭和45年のころでした。」と明杖地区において、初めて主婦たちが連帯の借金により、みずからの手で住居改善を実行した時の取り組みの様子と喜びを語っている。

 エ 特産品づくりの楽しみ~山里(やまざと)の味を創り出す

 山村の主婦の得意技の一つは、野菜など自給生産物を上手に生かし、付加価値を付けて地域の特産品に仕上げることにある。上畑野川地区の主婦による特産品づくりの取り組みについて、**さんは次のように語った。
 「私たちは誰もが、山村特有の料理や漬物をつくることは得意です。しょうゆ・みそ・こんにゃく・ぎょうせん飴(あめ)・うどん・煮豆、雑穀や山菜・山の果実を使った料理やおやつ、常備菜・漬物など山村の味を示す手づくりの食物は数多くあります。
 私たちは、改良普及員さんの指導を得て、大根栽培農家から大量に出る規格品外の大根を加工して売ることに取り組みました。この活動を基に久万町は、昭和58年に新農業構造改善事業の一環として農産加工場を建設したので、私たちグループも参加して、『久万高原婦人農産物加工組合』を設立しました。計画栽培、加工まで一貫した手作りとし、『久万山漬』と名づけた8種類の自然食品を商品化して年間1,600万円を売りあげるまでに成長しました(写真3-1-31参照)。
 明杖グループでは、トマトの農繁期以外の時期にパリパリ漬・セロリ漬・干しかぶ漬と3種類の漬物をグループ員の空いた隠居部屋を借りて作っています。更に、私たち明杖グループがかねてから要望していた農産加工場が、いよいよ平成6年度には明杖地区に設置されるようになりました。この加工場設置のため、私たちグループ員はそれぞれが準備資金の一部を出資しましたが、若妻グループの11人の人たちも一部を出資して協力してくれるようになり、大変心強く思っています。私たちが住む近くに、本格的な活動の舞台として描いてきた長年の夢が、ようやく実現しようとしていますので、大いに期待しています。」と待望の農産加工場の新設プランをグループの仲間とともに喜んでいた。

 オ 久万町のふるさとづくりの推進力として~地域との連帯

 (ア)神奈川県の高校生の体験学習の受け入れ

 久万町では、昭和58年(1983年)より平成3年まで神奈川県立生田(いくた)高校の修学旅行生の農家体験学習を受け入れてきた。毎年10月はじめ、60余名の高校生たちは一日久万町内の農家に分宿して、稲刈りやトマトの収穫、リンゴもぎ、土おこしの手伝いなど都会では味わえない貴重な農作業と農家生活の体験を積んで帰った。
 毎年3人ほどの生田高校生を受け入れて世話をしてきた**さんは「私の家は萱葺ふき屋根の家ですので、この時には部屋の囲炉裏を開いて自在かぎを下ろし、炭を燃やして歓待します。高校生たちにとって萱葺き家は初めての体験ですので、温かい雰囲気と山村の手作りの食べ物を大変喜んでくれました。アマゴを囲炉裏に並べて焼くと、うまい、うまいと一人で8匹も平らげた生徒もいまして大変にぎやかでしたが、どの生徒も良い子ばかりでしたので世話のやり甲斐がありました。今でも時々『大学に無事合格しました』とか『目下、海外旅行をしています』というような手紙をくれるやさしい子もいます。」と高校生の体験学習の受け入れが、若者との貴重な交流の機会として世話をしてきた喜びを語っているが、昨年から生田高校の体験学習が中止されたことを大変残念がっていた。

 (イ)「ふるさと小包」に「たかきび餅」を

 久万町が取り組んでいる町おこし事業の一つに「ふるさと小包」があり、全国から募集した「ふるさとの森オーナー」に年4回の久万町の手作りの加工品を送っている。この加工品は久万町内の19の農村生活研究グループが引き受け、それぞれが分担して全国のオーナーに届けるようにしている。
 **さんと**さんは、明杖グループの分担について「一年目に干し柿を3,000個作り、2年目からは『タカキビ』の栽培から始めて『タカキビ餅』(タカキビともち米を混ぜる)を8俵1万4,000個作りましたが、これもなかなかの好評でした。」とグループの創意工夫と並々ならぬ努力を語っている。

 (ウ)中学生に郷土料理を伝える

 また、明杖グループは「地元の畑野川中学校の生徒たちに郷土の伝承料理を伝える講習会を公民館・婦人会・教職員と共に行っています。例えば、野菜とイリコを混ぜた炊き込み御飯、タカキビの団子汁、ナマスというように身近で素朴な郷土料理を伝えて、みんなで楽しむ講習会にしています。」と語っているが、そこにも地域の信頼のもとに地域との連帯を大切にするグループの姿勢が示されている。

 力 都市の人々との交流~契約農園収穫祭の楽しみ

 (ア)契約農園のきっかけ

 明杖グループは、平成4年から都市の住民との交流を通して地域の活性化を図ろうとして「契約農園」を始めた。この契約農園を開くきっかけとなったのは、平成4年1月に結成された「明日の畑野川を考える会」に参加して地域の人々と話し合った課題にあった。この会は畑野川地区の20の各種団体のリーダーが集まって、高齢化、過疎化が進む畑野川の明日をどうするかを考えて行動しようと組織された。
 この会で提起された「都市との共生による集落の活性化」という共通課題については、明杖グループと河之内グループが女性の台所感覚で受け持つこととし、契約農園という活性化事業に取り組んだものである。この契約農園は、松山市のフジ・グランの友の会と提携して一口4,000円で入会した消費者に、契約農園で収穫した農産物を持って帰ってもらうという内容であった(写真3-1-32参照)。

 (イ)契約農園のスタート~自然の恵みに歓声

 明杖グループでは、まず、地区の高齢者が栽培しなくなった遊休地を20aほど借り受けて契約農園をオープンし、グループ員全員で農作業の合間をみてダイコン・サトイモ・サツマイモを栽培して丹念に育てた。
 第1年目の収穫祭は、平成4年10月4日と18日に行われ、松山市や東予市などの消費者の会員300人が夫婦・親子共々参加して、サツマイモやサトイモを掘るのは初めてという体験に歓声が各所であがった。
 その農園では焼きトウキビや焼きイモがサービスされ、昼食もグループ員手作りの炊き込み御飯や田楽など山の味をたん能して街へ帰っていった。
 また、当日の参加者から「来年もぜひ来て収穫を体験したい」という声が数多く寄せられ、グループ員も第1回の収穫祭の大きな成果に肩の荷を下ろした。
 **さんは、「前日は全員で収穫に来てくれる人たちへの栗御飯やお餅を作り、お土産のトマトを袋詰めして、テンヤワンヤの忙しさでした。夜は興奮と天気が心配で眠れませんでした。終わった後も参加者からお礼の電話や礼状が多く寄せられ、契約農園の反響の大きさに驚きました。いまさらのように、街の人とのふれあいと交流の良さを痛感しました」と昨年の第1回の思い出を語っている。
 続いて平成5年度の第2回契約農園収穫祭は、明杖グループが10月2日・12日・17日、河之内グループが8月9日、10月13日・17日とそれぞれ3日間にわたって盛大に行われ、松山市などから合計240口にのぼる契約家族が訪れた。今年も親子連れが多くイモ掘りやダイコン・ニンジン・カブなどの収穫に鍬(くわ)をふるったり、焼きイモをほおばって、普段静かな山里もにぎやかな一日となった。
 今年の一口あたりの収穫の目安は、サツマイモ約5株(約5kg)、サトイモ約3株(約3kg)、ダイコン5本、ニンジン、カブ若干という数量であったが、参加者は大きな袋に一杯詰めて満足そうであった。また、昼食サービスの場所となったグループ員宅では「田舎の味は格別ですよ。来年もまた来ます。」という参加者であふれ、グループ員もうれしい悲鳴をあげていたが、街の人々との交流に満足な表情であった。
 更に、グループは収穫祭に来れない人のために、同金額と同量の野菜を宅配便で届けており、今年は140口の野菜の宅配便を送って街の消費者の人々に喜ばれた。

 (ウ)グループを支える男性たち

 このような明杖グループの活動を陰になり日なたになって支えているのが、グループ員の御主人たちである。このことについて**さん、**さんや河之内グループの**さんは「私たちが、ここまでグループ活動をやれてこれたのも、おとうさんたちの理解と応援によるところが大きいです。河之内における契約農園の参加者用の本の腰掛けなどは、おとうさんが一日かかって山から木を切って帰り100個ほど作ってくれました。何事にせよ専業農家の主人の応援体制が心強いです。」とそれぞれの御主人たちを素直にほめている。そこには地域の活性化のために生き抜く夫婦の信頼と連帯感があふれていた。

 キ おばあさんの世紀を拓(ひら)く~へき地の時代、へき地こそ面白い

 山村を興こしつづけて20年という明杖農家生活改善グループの今後の課題と展望について、**さんは「明杖グループは、多い時には14・5人もいましたが、高齢化のため本人が弱ったり、家族の病人の看病のためなどの事情で現在では50歳代から70歳代の8人となりました。どの農家生活改善グループにとっても今後の課題は、いかにして後継者を作るかにありますが、明杖地区では若妻グループが作られ、さらに呼びかけて10人ほどの若いグループと広がったので大変頼もしく思っています。来年できる予定の明杖の農産加工場を拠点として嫁や若い人とともに、山村の活性化のため連帯の輪を広げていきたいと願っています。大きな夢が一つ実現しようとしていますが、どんなに年をとっても大きな夢を見ていたいものです。それが更なる発展のきっかけとなりましょう。」と未来への夢と希望にあふれた思いを語っている。
 また、**さんは、昨年の全国農業コンクール大会における発表の中で「史上初めて訪れた年寄りの時代、それも『おばあさん』が脚光を浴びる時代です。じっとしていては退歩します。新しいものに挑戦し続けて、久万高原におばあさんの世紀を拓きたいと心はずむ毎日です。」と述べて大会参加者の注目を浴びた。
 久万農業改良普及所の**さんは、明杖グループはじめ上浮穴郡各地の農家生活改善グループ活動の指導助言に当たり、各グループと共に歩んできた人である。**さんは、明杖グループの20年にわたる活動の積み上げの歩みと姿勢について、次のように語っている。
 「明杖グループの皆さんは、可能性を秘めた女性のすばらしさがあります。3足でも4足でもワラジをその都度履き替えていく力、すなわち、わが家の農作業、家庭生活、自分たちの生活改善グループ、婦人会、農協婦人部というように、その都度切り替えて実践的に対応していく意識と行動力があるすばらしい女性たちです。また、明杖のリーダーは、自分だけが成長していくのではなく、グループ員と共に歩んで共に成長していく姿勢があります。更に、明杖グループは、実践活動の中で主人はじめ家族に認めてもらい、地域の活動に積極的に参加して地域に認めてもらい、地道に信頼と連帯の輪を広げつつ歩んでいます。」
 今日、上浮穴郡はじめ愛媛県下には、明杖グループのように長年にわたって農家生活改善活動に取り組んでいる多くの農家の主婦がいる。その代表的な先達の一人である柳谷村の**さん(上浮穴地区農家生活改善グループ連絡研究会長)は、「私たち山村に住む者は、時代の変動の中、新たな試練に立たされると思いますが、グループ活動を通して、高齢化・過疎化を逆手に取り、この恵み豊かな地域資源を生かし、今まで培って来た知恵と技にさらに工夫を重ね新しいものを生み出す努力をしたいものです(⑨)」と『ささゆり23号』(平成5年3月)の巻頭言で述べている。ひたむきに山村の農家生活改善グループ活動に取り組んできた**さんの力強い言葉こそ久万高原に野火の火を灯すグループ全体の心意気を示すものであろう。

写真3-1-28 「久万高原トマト発祥の地」の記念標識(昭和45年設立)

写真3-1-28 「久万高原トマト発祥の地」の記念標識(昭和45年設立)

西明杖集会所前。平成5年12月撮影

写真3-1-31 山里の主婦たちが創り出す味「久万山漬」

写真3-1-31 山里の主婦たちが創り出す味「久万山漬」

久万高原婦人農産加工組合 久万町物産館みどりで販売。平成5年9月撮影

写真3-1-32 明杖グループの契約農園の標識

写真3-1-32 明杖グループの契約農園の標識

平成5年10月撮影