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県境山間部の生活文化(平成5年度)

(2)県境を越えた交流②

 イ 檮原町と伊予及び城川のつながり

 (ア)檮原の位置と交通

 檮原町は高岡郡に属し、高知県北西部にあって愛媛県と県境を接し、四万十(しまんと)川の支流である檮原川が町内を南北に貫流している。面積は236km²で、本県でこれを越えるのは松山市・大洲市のみという広大な面積を有するが、林野がその9割を占め、川沿いに56の集落が点在する典型的な山間地である。人口は、5,020人(平成2年国勢調査)で過疎化が進んでいるが、津野山神楽(つのやまかぐら)・千枚田は全国に知られ、それを生かした全国神楽サミットや(都市住民が年に数回農作業を楽しむ)千枚田オーナー制度などユニークな試みにより、新たな町作りをはかっている。
 歴史的には、延喜13年(913年)津野経高(つねたか)が伊予松山を経て、この地に入り津野荘を築いたとされ、慶長5年(1600年)の滅亡まで700年間津野氏の所領として発展した。江戸時代には現在の東津野村と併せて「津野山郷」と称されていた(⑮)。津野山は、山脈により土佐の他地域からへだてられ、伊予からの文化が流入したことから、中世には高度な津野山文化が栄えたとされ、それは室町時代の絶海中津(ぜっかいちゅうしん)、義堂周信(ぎどうしゅうしん)という歴史上著名な五山僧の輩出からもうかがえる(⑮)。また、河野氏と津野氏が姻戚関係にあり、町内の主要神社のほとんどが三島神社であること(⑮)からも、中世の檮原と伊予との関わりの深さを推測できる。津野氏は長宗我部氏の圧迫の中で最後の領主親忠(ちかただ)(孝山(こうざん)公)の切腹により滅亡したが、その後の崇りを鎮めるため、現在まで吉祥寺・円明寺ではその命日に「孝山祭」を行い、また町の著名行事である二十日念仏や茶堂の行事は、親忠の供養を目的の一つにしている(⑮)。このような旧領主を神仏としての信仰は、峠を越えた城川町窪野の三滝神社「豊親様」(北之川氏)の信仰との共通性も感じられ興味深い。
 徒歩の時代には、高知城下へは2日の距離で、須崎、松山へは1日の行程だったという(⑮)。特に、高知城下へは急傾斜の山道ばかりで、後に天誅組に参加した那須信吾は、槍術訓練のため城下までわずか1日で行ったというのが、驚異の念を込めて語り伝えられている(⑭)。このような交通立地のため、江戸時代には他国への往来が厳しく制限されていたにもかかわらず、伊予に向かう者は多かった。檮原町史には、当時の商人の行き来や、間道による抜け荷や逃亡・侵入に関する多数の番所の文書が、まとめられている。また、町内太郎川には、大洲藩の名僧盤珪(ばんけい)(1622年~1693年、臨済宗如法寺を開山した)筆の「瀑本山徳泉寺」と記した額があり、肱川を通じての江戸時代の伊予と土佐の交流をしのばせる。
 明治維新により往来が自由となって後は、この交流は益々盛んとなってきた。日常生活における愛媛との交易について、檮原町史には以下のような記載がある。「塩は五十崎まで行かんとないので度々買いにいった。塩漬けの海魚は伊予三津浜から売りに来た。雑魚売(ざこう)りは俵津(たわらづ)・狩浜(かりはま)(現明浜町)からよく来た。」「私の母は明治40年(1907年)のころ松山へ出た。この時、四万川本(お)モ谷から大野が原童就が奈呂へ出て、渕首(ふちくび)-落出(おちいで)-三坂峠-松山へ出た。帰りはそうぞ-小田-笹(ささ)が峠-小屋-中井桑(なかいこう)-文丸(ぶんまる)の道を経ている。」「土佐の神社や寺院の名前を知らぬ者は多いが、然し伊予の石手寺、龍沢寺(りゅうたくじ)、石鎚様の名前は知らぬ方がよほどどうかしているくらいである。(⑮)」ただ、町内でも越知面(おちめん)地区は柳谷村、四万川(しまがわ)地区は城川町、檮原西地区は日吉村、南部の松原(まつばら)・初瀬(はつせ)地区は須崎というように、尾根越しの結び付きが現在でも強い。
 明治34年(1901年)に須崎への道路が郡道(後県道)として整備されるに従い、須崎・高知への海岸部への通行が増えてきた。この明治30年代に、日吉村元村長の井谷正命、檮原村西村伊之助(元村長、郡会議員)等が中心となって、檮原-日吉-宇和島への県道設立が図られ、昭和3年(1928年)に県境の(旧)高研(たかとぎ)トンネルが開通し、4年に完成した(㉖)。この昭和初期のころを境として檮原の交通網は、それまでの尾根を通る峠道から脱却したのである。
 しかし、昔からの伊予・土佐間の交流は、現在も檮原町の日々の生活文化に様々な形で残っている。特に、茶堂の行事や花取り踊り、念仏踊り等の伝統的民俗行事には共通性が強い。また、隠居慣行(別居隠居で下の子供を連れて出る(㉗))も共通している。茶堂は、かつて檮原町内に39堂あり、14堂が現存している。愛媛県と同じく街道沿いにあり、旅行者・商人の通行を通じて茶堂が伊予との文化流人の窓口にもなっていた。例えば、大蔵谷の茶堂には、慶応3年(1867年)秋に、伊予宇和島の月峯・四猿という俳人を招いて、地元檮原連7人を交えた句会の31句が残されている(㉓)。また、接待を受けて食べたかぼちゃがおいしいので、その種子をもらってきて新しい品種が広がった、あるいは伊予商人の世話で、接待に出ていた娘の縁談が決まったという話が残されている(㉓)。
 また、県境の雨包山(あまつつみやま)(城川町域)には恵比須(えびす)神がまつられ、この縁起や祭礼は文化の交流という面で非常に興味深い。恵比須神が雨包山に祀られたのは宝徳年間(1449年~1450年)で、伊予国西宇和郡川之石(かわのいし)村雨井(あまい)の海底に光るものがあり、海士(あま)が拾って見ると恵比須像であり、お告げで雨井の海が見える雨包山に祀ったという。戦前まではこの恵比須様のお祭りでは伊予土佐の力士の対抗相撲があり、また豊作をもたらす神としてたくさんの参詣者があった。祭りに来る人は恵比須様にその年に一番よくできた作物の種子をお供えすることになっており、参拝した者は、その中で気に入ったものを持ち帰ってよく、祭は優秀な品種の交換、交流の場でもあった(⑩㉘)。この信仰においては、後述の龍王神社とも共通する海岸部漁民との関わりが見られ、また奉納相撲と豊作を祈る神事は、同じ高知県境沿いの高森山(幡多郡十和(はたぐんとわ)村)、佐川山(幡多郡大正町)、堂(どう)が森(もり)(幡多郡西土佐村)にも見られる(㉙)。
 下記では、檮原町の生活文化における愛媛との共通性や檮原の特質について、愛媛県出身者及び城川町と関わりの深い四万川地区の住民の方の調査からまとめてみた。

 (イ)九十九曲峠を越えて伊予酒を運ぶ

 **さん(檮原町檮原 昭和7年生まれ 61歳)
 **さん(檮原町檮原 昭和11年生まれ 57歳)
 「父は現在の城川町の土居の下里(さがり)に明治28年(1895年)に生まれました。**の家は代々坊さんだったらしく、祖父は明治の初めころは寺子屋をしておったようですが、読み書きができることもあって、その後土居の酒屋の番頭さんのような仕事をしていたらしいです。父は、その祖父のもとで働き、仕事の都合から土居-川津南(かわづみなみ)(現城川町)-宇和島-川津南と移り、昭和の初めころに誘われて、檮原に移り住みました。ですから兄弟姉妹皆生まれた所が違うんです。川津南に居る頃は、檮原の人が九十九曲の峠を越えて酒を買いに来て、酔ってそのまま酒屋に泊まる人も多かったと聞いております。また樽を馬の背に付けて峠を越えて運んでもいたらしいです。
 私はここの生まれで父の酒屋の商売を継ぎましたが、長兄は戦後、自分が耕作していないと所有権が認められないということで、土居の家を継いで、現在は車でわずか15分ほどの距離ですので、月に1回ほどは互いに行き来しております。土居に里帰りするのに、戦前は(バスも通い始めておりましたが)父と一緒に歩いて九十九曲を越えることが多かったですな。峠だけなら数時間ですが、ここから土居まで帰るには、腰に弁当をぶらさげて、朝早く出ておかんといけませんでした。親戚に頼まれた牛の子を引いて帰ったこともあります。一度は半袖を着ていきましたら、ブヨに囲まれてえらい目にあいました。年を取ってからも、父は、今ごろあの峠はどうなっとるやろうなあと、よく懐かしんでいたものです。
 檮原は、以前は須崎との道が悪くて、あまり海岸部や(高知県)東部との行き来はありませんでした。そのせいか、土佐酒はだいたい辛口なんですが、昔は私等が取り扱ってきた酒はほとんどが甘口の伊予酒でした。戦前までは、檮原にも造り酒屋が12軒ありましたが、そのうちの1軒は明治の頃に伊予から来た稲垣さんで、またそれだけではとうてい足りず、宇和島の問屋や日吉の造り酒屋から酒を持って来ることが多かったですよ。ところが、最近は若い人の嗜好も変わって、辛口の土佐酒しか売れんようになりました。」
 「私は西土佐村(高知県幡多郡)の生まれです。主人と結婚しましたのは母どうしがいとこであったためです。私の両親は日吉村の生まれで、私の方の親戚は日吉村に現在も大部分おります。私が、西土佐村に生まれ主人と結婚しましたのも、父の母は西土佐村、母の父は川津南(城川町)の生まれという血縁があったからです。ですから、車でどこにでも行くようになった現在以上に、昔は山を越えての行き来があったんだろうと思います。
 町組と呼ばれる、町役場前のこの通りに商家が集中しておりますが、3分の1くらいは伊予から来た人じゃないでしょうか。伊予の人はやはり商売上手で。『なんぞ用事はないかな。ほしたらまた来らい。』言うてまた何度も顔を出して、丁寧で粘り強い商いをします。こちらは行商以外にはなかなか買物に行けないような集落もあって、伊予の行商人にとっては、大切な稼ぎ場所だったらしいので、住みついた人が多いんじゃないでしょうか。
 土佐の人は、言う時は『がいな』(きつい)し『ぱん』と言うけれど後に残るようなことはありません。もうすぐ神祭(じんさい)で、皿鉢(さわち)料理をそろえて、お客さんにも来てもらうんですが、こちらであれば、勝手に座って自分で小鉢に料理を取ってもらっております。愛媛の親戚のところに帰ると、皿鉢でもいちいち世話役さんが取り分けて配っており、何か嫌なことがあっても滅多に顔に出すことはありませんし、自分が目立つようなことは嫌うようです。鯛(たい)めん(そうめんに鯛をのせたもの)は昔はしてなかったそうですが、どうも伊予から入ってきたんじゃないでしょうか。みがらし(刺身にからし味噌をつける)は、こちらにはないです。また、料理を作る時、土佐では男の人が台所に立つことは考えられませんが、伊予では男の人も、忙しい時には結構料理を作ってもらって、里帰りした時の叔父さんの料理をしている姿は、印象的だったせいか、子供心にもよく覚えています。そこらあたりのお国ぶりは、峠一つ隔ててずいぶん違っております。197号の国道が整備されてから、日吉村までは車で10分ほどで行けますので、孫のピアノのレッスンは日吉村の先生の所に通っております。町の人も、日吉-宇和島の道路(国道320号線)がよくなりましたので、ちょっとした買物は宇和島にでているみたいです。197号線が整備される時、バイパスが山際を通ってこの町組の商店街を素通りすることとなり、須崎や宇和島にお客が流れるのではないかと、一時は大きな問題となったのですが、どの店も営業努力で何とか頑張っています。Nさんの店では若者向け衣料の安売りを中心としたディスカウント店を始めて、日吉村からも結構買いに来ておられるようです。」
 「商店街では火事が一番恐ろしいため、消防団関係の寄り合いも多いです。父も昔消防の梯子をしておりましたが、正月の出初め式の教錬の方式を伊予から持ち帰って、ここの消防団の行事として伝えたと聞いております。また、息子は『木の里檮原』のPRということもあって、町の商工会青年部で毎年宇和島の和霊大祭に参加してます。神祭(町の三島神社秋季大祭)のお神幸(『おなばれ』と言う)の先頭に立つ牛鬼は、宇和島のとはずいぶん姿形は違いますが、やはり伊予から入って来たものでしょう。西土佐村にも牛鬼があったように思いますが、ここから東にはありません。」

 (ウ)大茅峠を越えて四万川へ

 **さん(檮原町四万川六丁 昭和10年生まれ 58歳)
 「私の祖父は、愛媛県の温泉郡から行商でこちらに来ておって、ここに定住するようになったんです。慶応元年の生まれで、一徹な性格だったらしいです。オウクと呼ばれる担い棒で商品を運び往復とも商売をしながら行くんですが、決まった得意先以外には、ここで売ったら選りカスになって、先で待ってくれとるお客さんに迷惑がかかるから売らんと言ったという話も聞いております。定住してからは、雑貨店をこの六丁で開いてました。六丁は伊予からの街道沿いにあるために、この四万川地区の中で唯一、明治の初めころから店が何軒もあって、隣の山本屋旅館の和田さんは、明治の初年ころに伊予から来て旅館を開かれております。父は読み書きそろばんが得意であったため、ここの人に重宝がられて大事にされ、仲持ちの仲介や、山持ちの人の売買の仲介、(頼母子)講の(借金の)仲介や相殺等の世話を、いろいろやっておったようですな。祖母の家も紺屋をしておって、祖父よりは早く伊予から転住してきた家だそうです。大正7年(1918年)に祖父が地域の人と郵便局を開きまして、父はずっと郵便局勤めでした。当時は私設の請願制でしたから、資産をもってなければできないことでした。他にも十和村(高知県幡多郡)まで行って、共同の椎茸栽培も導入しました。祖父が言っておったそうですが、こちらに来て初めのころは多くの人からお金も借りてお世話になったので、そのご恩返しをしようということで、様々な地域の世話役を勤めていたのでしょう。
 私の妻は、城川の出身で、前町長の妹です。祖父も六丁に住み、講の関係で祖父とも交際があったようです。また、弟が檮原の親戚に養子に行ったんですが、その人と父方の祖母は姉妹で行き来があり、私もその弟と同じころ東京の大学に在学し遊びに行っているうちに、結婚することになったわけです。ここらでは、土居(城川町)に行ったら何でもあるといわれ、終戦直後の物資がない時に、川で「ハヤ」や「イダ」(ウグイ)を取ることが仲間内で盛んで、土居に行ったら、その仕掛けのビンがあるということを聞いて、小学生ながら、大茅峠を越えて買いにも行きました。魚成の龍沢寺にお参りに行くのも当たり前の事でしたし、檮原の中でもこの四万川地区と城川町は、特につながりが深いようです。
 私は二男で、実母の里の**家に養子に入ったのですが、養母の実家はこの六丁の奥の中(なか)の川(かわ)という集落にあります。ここの円明寺は廻り舞台がある(高知県保護指定文化財)ことで有名です。廻り舞台では、戦後しばらくまで毎年孝山祭(旧領主津野親忠公供養の祭)の時に地(ぢ)芝居をやっておりました。養母の兄のお嫁さんは、驚くほど上品なきれいな人でしたが、愛媛県の小田町の人で、たまたまこの円明寺の芝居を見に来て、それを(養母の)祖母が見初めて、息子の嫁はこの人でないといかんということで、お嫁さんに来てもらったらしいですな。実は、芝居を見に来たのは、もともとは他の人とのお見合いの機会だったらしいのですが、祖母は無理を押して結婚まで持っていってしまったということです。龍王さんの大祭に来る人も多かったですし、大野が原を越しての山間部の行き来は、昔は相当広い範囲に渡っていたようです。」

 (エ)山と海の関わり-竜王神社の信仰

 檮原町四万川の竜王神社は、豊漁、雨乞いに霊験あらたかな神として、高知県・愛媛県各地から、現在も多くの信者を集めている。神社鎮座の縁起として、以下のことが棟札(むなふだ)と口碑に伝えられている。「中の川の『峯(山頂)古池』の水上にしばしば不思議の霊象が現われ、里人は神秘の事象として、安永5年(1776年)に池の神として祀る。その後大風雨起こり古池決壊し、大洪水となり山林田畑を押し流し、それより度々奇限な事変が起こった。巫女をもって神意を問えば、無信心の輩が池を冒涜(ぼうとく)したことによるものとし、さらに『われは、この池を去り、人跡まれなる大野が原小松が池に身を隠すべし。されど、われを祀らば、神鎮まり諸々の幸福を与うべし(㉘)』とのことで、寛政6年(1794年)蛇王権現として社殿を建立したとされる。その後現在地の壁路(へきろ)山城(中世の城郭があった)に遷宮し、竜王大権現(だいごんげん)(明治初年の神仏分離令で海津見(わだつみ)神社に改称し、豊玉姫(とよたまひめ)を祭神とする)として、四万川地区の総鎮守として杞(まつ)るよう(⑬⑮)になった。」この竜王神社には、峠を越えての愛媛県からの参拝者が多く、城川とのつながりが深いことから、その関わりを、現宮司の**さんからお聞きした。
 **さん(檮原町四万川茶や谷 明治34年生まれ 93歳)
 **さん(檮原町四万川茶や谷 昭和10年生まれ 59歳)
 **「**の家は須崎の出で、明治初年ころ曾祖父がこちらのほうに移ってきました。四万川小学校の学校創設の記念碑に、円明寺の住職さんとともに曾祖父の名前が刻んでありますので、寺子屋時代から学制頒布(はんぷ)の頃に教育に関わっていたようです。読み書きができるのと併せて何らかの経験があったのか、その後、この同じ村のHさんから神職の譲りを受けて、曾祖父は竜王神社の宮司となったそうです。祖父は檮原村村長も一時勤め、その時に電灯が初めてついたということです。父や夫が宮司として神社を守ってきましたが、十数年前に夫を亡くし、昭和50年から私か宮司を勤めております。そんなこともあって、神社の由来や昔の事ははっきりしないことも多いのですが、伝えられている縁起によると中の川の峯古池から信仰が始まっております。」
 「大祭(新暦4月29日、11月23日)には、戦前は神社の石段が自分であがれず人波で押し上げられるくらい、数万以上の人が参拝に来られてました。昭和30年代以降は参拝者が減ってきましたが、最近は自動車やバスでちょっと寄られることが多いです。昔から参拝者の半数以上は漁師さんで、県内の佐賀(幡多郡)、須崎・久礼(高岡郡)や宇佐(土佐市)から、よく来られてました。愛媛からの参拝者も未だに多いです。昔から参拝者の半数近くは愛媛からの人で、遊子(現宇和島市)では竜王様の分社をお祭りしていることから、漁業組合の人が毎年お参りに来られます。以前は3人ほどの代参(代表して参拝すること)でしたが、最近はバスで30人ほど一緒に来られます。戸島(としま)(現宇和島市)や足成(あしなる)(現西宇和郡瀬戸町)にも講があって、講員の方がお参りに来られてました。他には、双海町(伊予郡)や、吉田町・津島町(北宇和郡)からの参拝者も多いです。鳥居は長浜町(喜多郡)の方の寄進によるもので、拝殿向拝(はいでんこうはい)の彫刻は内子(喜多郡)の発助さんの作で、本殿一間四面流造(神に幣帛を捧る所)の彫刻は山口県大島郡東和町の中本喜助さんが、釘を使わずに夜中にランプをつけて10年がかりで作ったものだそうです。両方とも明治時代の製作で、今はこんな手のこんだものは作れないんじゃないかと思うくらいの細工がしてあります。境内の下に旅館が2軒あって、大祭の日にはそれも一杯で、私等の家にも泊まってもらう有様で、学校の生徒まで、一杯になった自転車の整理に駆りだされていました。大祭以外にも、参拝客は絶えずありまして、毎月のように、お供えのブリ等の魚を俵に入れたままいただき、近所にも差し上げたりしておりました。」
 「神社の神事としては、お正月は元旦祭、昔は4月28日が大祭で翌29日の天皇誕生日は四万川の集落の神祭(じんさい)として、『おなばれ』=お神幸をやりました。六丁の集落まで1里(4km)ほどの路を御輿(みこし)や牛鬼が連なって賑やかであったのですが、今は過疎化で本殿から石段を降りるまでが精一杯です。6月30日が『大祓(おおはら)い』で、茶や谷集落の者がそれぞれたいまつを持って、昔番所のあった松が峠に集まり、下組の集落との境まで、虫送り(害虫退治)と夏病みの退散を願って歩きます。私は神職総代として参加しております。なごし(夏越し)の祭とも言っております。11月の23日が秋の大祭で、勤労感謝の日とあわせ、集落の神祭とお神幸がございます。12月31日は神社の大祓いとして、神事を行っております。」
 「私は坪(つぼ)の田(た)の生まれで、ここは桜が峠(さくらがとう)・韮(にら)が峠(とう)がすぐそばで、峠を越えて野井川(城川町)や惣川(野村町)との行き来が多く、いとこなどたくさん縁づいております。惣川には買物などにもよく行きました。この竜王様に嫁に行くとは露ほども思わず、小さい時は、1銭もらって2里ほど歩いて、大祭に来よりました。大祭には、戦前までは奉納相撲があって、境内に土俵をついて、伊予からも大きい相撲取りさんが何人も来ておりました。私は親に無理を言うて高知の女子師範に行かしてもらい、嫁入りしてからも小学校に勤めましたんで、あまり神社のことは知りません。嫁入りの時は、坪の田からずっと徒歩で、六丁では夜に皆が大火(おおび)をたいて迎えてもらって、火が着物にかかりそうだったので恐ろしかったです。
 嫁入りしてからは、買物は主に六丁でしましたが、伊予から行商にもたくさん来ておりました。ミカンや野菜売り、おじゃこ(雑魚)売り、反物売りの入らかよく出入りして、本村のUさんはおじゃこ売りさんと結婚して、一緒に行商に回っておりました。円明寺の孝山祭の時の地芝居は、朝早くからゴザを敷きにいって、近くの親戚も来て御馳走を持っていって、夜露にぬれながら見に行っとりました。」
 山間奥地の竜王神社と漁村のむすびつきは、現在の我々から見ると不思議にも思えるが、前述の雨包山の恵比寿神社と並べて考えて見ると、広く山間地域にそのような関係があったように思える。また大野が原の竜王神社との関わりも興味深い。現在の道路事情では、この茶や谷の集落が行き止まりとなるが、ここには松が峠番所があり、大野が原、惣川方面に旧道が抜けていたため、大野が原を通して各方面に古くからの交流があったと考えられる。ともかく、この神社の存在が土佐と伊予との交流を大きく発展させたことに注目すべきであろう。

 (オ)茶堂を守る

 **さん(檮原町四万川茶(ちゃ)や谷(だに) 大正7年生まれ 75歳)
 「私の家は茶堂が建っている地所の地主で、代々そのお世話をしてまいりました。昔はどこでも茶の接待をしておりましたが、今、檮原町で接待が残っているのは(太郎川公園で町の事業としてやっているものを除いては)ここだけです。この上に江戸時代の番所がありまして、昔は伊予に、或いは伊予からこの茶堂の前の道を通行する人も多かったようです。戦後になってもみつまた買いの商人や行商人が、茶堂で休んでいかれることも結構ありました。ちょっと前まで炉(ろ)も中に切ってありまして、接待の時のお湯を沸かしたりもし、お遍路さんが泊まるときは炉を使ってもおられたようですが、最近板をはってしまいました。
 接待は8月1日から約1か月間です。以前は当番になった人が一日茶堂にいて、道往く人に『お茶をどうぞ』と、梅干や手作りのお饅頭・干菓子等出していました。現在も、1日から1日交替で茶や谷の戸数あるかぎりで、『お茶当番』という名で、おぼんに湯飲みとお茶の入った茶瓶を置き、誰でも飲めるようにしてあります。お大師様には、当番の人が炊きたてのごはんを供え、『ハナシバ』の水を取り替えて、線香をたててお参りをします。その他の時は、地主である私どもの方で、何かの折に、茶堂の回りの草抜きをしたり、『ハナシバ』の水を取替えたりしております。
 一夜念仏は、今でも8月21日の夜、その夏8月15日に新盆を迎えた家から、その時お飾りした盆提灯を持ち寄って、それに火を灯した明かりの下で念仏を唱えます。線香1本の燃えつきるまでを一庭としてます。供養と言えば、檮原町では、この茶堂だけに孝山公(津野親忠公)の位牌があって、ともにご供養をしております。
 大師講という大数珠繰りを、私の小さいときは各家持ち回りでやっておりました。その時は、集まった人に御馳走を出し酒盛りをして数珠を繰り、『なんまいだぶ』と賑やかでした。今では、その当番をする人もなくなり、茶堂の地主である我が家が数珠を預かっており、夏の終りころ、孫たち相手に数珠だけは繰っております。また、石鎚講は現在もあって、昔は数珠を肩にかけて、代表の者が交代でお参りをし、その後飲食をしておりました。今は募集してバス1台で西条の石鎚祭に行き、夏の終りころ、名乗りでてもらった家で講の人々に連絡をいれ、手作りの皿鉢料理で酒盛りをしてお祭りします。
 私は越知面地区の上本村(かみほんむら)の生まれです。越知面とここ茶や谷・中の川は、谷でつながってまして、昔から婚姻も多かったようです。越知面は東津野村との婚姻も多く、同じ四万川地区でも六丁は(愛媛の)城川町と、越知面北部の永野(ながの)は(愛媛の)柳谷村と婚姻が多く、同じ地区の中でも、谷一つ山一つで付き合いの範囲がずいぶん違うようです。上本村でも愛媛からよく行商人が来て、小間物屋さんが櫛(くし)などを持ってくるのが楽しかったんですが、現在でも愛媛県の八百屋さんや果物屋さんが、ここまで車で行商に来られます。私等も、病院は宇和島に行くことが現在では多いです。
 小学校4年に初めて檮原にバスが通うようになり、同じころに叔父がここらでは初めてトラックを買いました。私は佐川町(須崎市の東北)の女学校に行きましたが、休みが終わり寄宿舎に帰る時には、叔父のトラックに便乗して帰りました。それでも、須崎まで着くには朝出て夕方までかかってました。昭和12年(1937年)に**家に嫁入りしましたが、主人は商船会社に勤めていたため結婚後は東京暮らしで、主人の復員後こちらに帰ってきました。しばらくして県会議員にもなりましたが、昭和38年の大豪雪の時は車も何も動かず、主人は地下足袋履いて道路復旧と今後の整備の陳情にいったことを覚えております。
 須崎との布施(ふせ)が峠のトンネルが開通した時は、これで檮原の生活も変わると、わがことのように喜んでおりました。数年前に主人は亡くなりましたが、父母たちがお世話してきたように、地域の皆さんと一緒に茶堂を守っていきたいと思っております。」

 (力)檮原のみやび

 **さん(檮原町檮原西仲間 大正5年生まれ 77歳)
 「私はこの仲間に生まれ、小学校の教員・校長を長くやってきました。小学校時代に旧道の高研トンネルができまして、昭和10年ころに日吉村との間で、定期バスが走るようになったと思います。戦前までは2頭曳きの馬車が、炭を積んで中土佐町まで行っておりました。それでも、まだまだ集落問の道は未整備で狭く、昭和12年の結婚式の時はタクシーが溝にはまりこんで服を泥だらけにして押し上げました。嫁入り道具のタンスも全部こちらで作っておったように思います。妻は城川町の出身で、増田松太郎の姪になります。これは、教員になった時、松太郎の後妻さんの妹さんの所に下宿しておった関係からです。
 叔母も城川の魚成に嫁いでおります。この檮原西地区は日吉村(北宇和郡)との関係が深く、町史作成の時に調べると、この西地区だけで日吉との婚姻が34組ありました。行商の人も愛媛からたくさん来て、特にざこ売りとバクロウが多かったように思います。バクロウさんはぼろ牛をさげてこちらに来るんですが、昔は牛は農家にとって欠かせないものでしたんで、一生懸命世話をしたもんです。田を起こす牛鍬は、土佐は右倒しなんですが、伊予は左倒しで、バクロウさんが連れてくる牛には、全部伊予の癖がついており、四万川地区ではとうとう牛のために牛鍬を左にやりかえたそうです。
 津野山神楽は、最近フランスやアメリカでの海外公演や、全国神楽サミット等で世界的なものになっております。歌詞を見ると、古今集のころの言葉が多く、宮中のお神楽のものと一致するところも多いので、かなり古くから伝えられたものと思います。大祭の時などに舞われたもので、正式に舞い納めるには8時間を要し、もともとは神官の間だけに口伝(くでん)で伝えられておりました。しかし終戦直後舞える人が三島神社の掛橋富松(かけはしとみまつ)さん唯1人という状態で消滅しかかっていたのを、富松さんを師として津野山神楽保存会が結成され、一般の青年たちが数か月かけて修得したことで現在に残されたんです。伝統の雅(みや)びを大事にしようという檮原の人間の心が、神楽には現われているように思います。越知面の二十日念仏は、津野親忠公供養のため始められたもので、今は新暦の8月20日にやっております。歌詞は『遍(へん)南無阿弥陀仏』だけをいろいろ節を変えて歌っております。地元では御施餓鬼祭と言っておりますが、私等の所でも、昔は盆の施餓鬼の時には鉦と太鼓でお念仏をやっておりました(後述の城川・野村町近辺の立ち念仏二念仏楽と、鉦・太鼓の使用や服装、立って体をひねりながら踊る所作等の共通性が感じられ、興味深い。)。昔は各集落に一つはあった茶堂でのお接待とともに、旅人をもてなし、先祖を大事にする心をこれからも大事にしていきたいし、それが町おこしにもつながるのではないかと思います。」

 ウ 県境沿いの集落の生活

 ここで取り上げる3氏は、それぞれ長崎、川津南、泉川という、城川町内でも山間県境の集落で生活してこられた。同じ城川町内でも、下相、魚成などの公共機関が集中する道路沿いの平地では人口が増加し、これらの山間の小集落では過疎化の進展が著しい。しかし、高知との行き来が盛んで、昔ながらの風俗の良さを残し、厳しい生活を切り開いてきた人々の話から、かつての集落の様子と今後のありようを考えてみたい。

 (ア)大茅峠の往還沿いの生活-窪野長崎区

 **さん(城川町窪野字長崎 大正6年生まれ 76歳)
 「私の住んでいる長崎区(区は組のこと)は、かつては15・6戸、7・80人の集落でしたが、今は5戸、十数人ばかりになっております。冠婚葬祭もこの小組が主で互いに世話をしますが、他に農協や町の役員にも区として人を出さんといかず、とうてい昔のままではやっていけませんので、十数年前に長崎、大茅、桂(かつら)の3区が対等合併して三上(みかみ)区となり、現在あわせて10軒でようやく日常生活ができております。私は古市の生まれで、15歳ころは荷物の運搬の手伝いをしては小遣い稼ぎをし、芸者さんのいる土居や日吉の方まで、セルの着物と下駄で遊びに行きよったもんです。
 25歳でこの家に養子に来た時は、電気がまだついておらず、『ゆるり』(囲炉裏)で肥え松をたいて明かりの代わりにしておりました。結婚してすぐくらいにランプを買うたんです。大体が何もかも自給自足で、精米機もなく『やぐら』(足踏みで杵(きね)を動かす道具)で、5升入れて1,000回くらい搗かんとはげんかった(脱穀できない)ですよ。食べ物もしゃげ麦がなく丸麦が主で、米を少し入れて食べよりました。ちんちまんま(白米のごはん)はお正月くらいでしたなあ。焼畑も戦後しばらくまではやっておりました。8月に焼いてソバを植えて、3・4月にみつまたを植えておりました。他には楮(こうぞ)やトウキビ、琉球芋(りゅうきゅういも)(サツマイモ)を植えておりました。ミツマタや楮が現金収入の中心であった時代が長かったですな。味噌・醤油・豆腐も自家製で、魚はお正月かお盆くらいに塩鯖(しおさば)を土居に買いに行くくらいでした。牛は預かり牛で、資産のある家から預かって農作業にも使い、太らしてからその手間賃をもらっておりました。この集落まで車道もついて生活が大きく変わったのは、昭和30年代になってからですかな。そのころから、私も自分の山にどんどん造林をしていくようになりました。今、木はだいぶ太ってきましたが、値段が安うて金になるてだてがつかんし、高齢者ばかりでなかなか枝打ち等の世話ができないのが問題です。
 仲人としてお椀(わん)がはげるほど通って、40組ほども縁談をまとめましたが、檮原との縁組みも何組か世話しました。竜王さんのある四万川(檮原町)にも飲み友達があり、何度か通ったもんです。人の世話をするのは苦にならん方で、様々な地域の役職もして、林内作業道を三上区につくってもらうよう奔走もしました。今は50歳くらいになっても、そういう地域の世話をするのを皆さん嫌がる人が多いのですが、とにかく人と接しておかんと物事は動かんものです。数年前ある会合に県議さんが来た時、自作でうまくないものですがと断って『深山(しんざん)に立てばこけむす廃屋 祖先の功績見るも哀れなり 風雷奮発群像の契り乾坤一擲(けんこんいってき)生涯を捧ぐ』と読むと感激してもらいましたが、国や県の方策としても山間地の将来を考えていただけたらと思っております。」

 (イ)九十九曲峠の馬子唄-川津南

 **さん(城川町川津南 明治37年生まれ 89歳)
 「小学校の前が旧の往還でした。若いころには10頭あまりの馬が連れ立って、毎日九十九曲の峠を越えて、檮原に物を運んでおりましたのを覚えています。こちらからは米や塩を、檮原からは酒や木材を運んでました。新倉丑松(しんくらうしまつ)さんや松浦竹治さんらが、農業兼業で駄賃持ちをしておられました。丑松さんは浄瑠璃語りの名人で、峠を降りた曲がり角で川津の村が見えるところから、いつも馬子唄を唄い、その声がまた良くて、家からも聞こえたものです。どうして角から唄を唄うんじゃと聞きましたら、家の者に帰ったぞ、『はみ』も用意しとけという合図じゃと言っておられました。丑松さんらは宇和島にも通ってました。高野子に『家森商店』というのがあって、そこが宇和島などからの塩や何やかやの取次ぎもしておりました。馬は皆、鈴をつけてその音がまた、それぞれ違うものですから、鈴の音だけで誰が通っておるか聞き分けておりました。大雪の降った年には、檮原の造り酒屋で仕込む米が入ってこんので頼むといわれ、若い衆十数名で、雪を踏み分けて檮原まで米を運んだこともあります。日照りの時は雨乞いのために、竜王様に雨もらいに行って、代表者が木札をもらって帰りました。
 峠の付近は萱場(かやば)でもありまして、一か年に一度焼いてはまた萱が生えるようにします。萱を刈る時には区全員で行って、区長さんがほら貝を吹いてから、皆で一斉に刈り、助け合って屋根葺きをしました。焼くときには火道(ひみち)をこしらえてから、上から下に焼いていきます。焼いた後はしばらくは畑として、真夏の暑い時分にソバやミツマタを植え、春にはトウキビや里イモも植えました。トウキビは、檮原に持っていって水車で挽(ひ)いてもらい、はったいこにしてよく食べました。この峠の近辺には高川財産区(旧高川村の所有山林で町村合併において各区二旧村の財産とされたもの)があります。これは、昭和初期の村長であった大野三次(みよし)さんが『村の基本財産を作るには何より山林を育成することである』と言うて、自ら先頭に立って植林したもので、この木を売ったお金で農村環境改善センター(宝泉坊温泉も付随)もできたんです。
 私は若い頃は体の弱い方で、一時宇和島の病院に入院したこともありましたが、そのころは長持ちのふたにひもをつけて病人の生活用具を入れ、それを担って筒井坂から三間町へ抜けたもんです。朝早う出て、10時間ほどかけて夕方についておりました。ところが、養生をしながら働いたせいか、30歳の時、区で各人12貫(かん)の萱を集めてくることになり、目見当で持っていき、量ってもらいましたら20貫余(75kg)あるということで、年取ってから力持ちと言われるようになりました。体の丈夫であった両親と兄が(私が)20歳の時に赤痢で一遍に亡くなり、弱いと言われた私が長生きするのですから、人の運命というのはわからんもんです。そのようなこともありまして、若い頃はよく西方寺に念仏を聞きにも行き、住職さんにも大事にしてもらいました。この西方寺で毎年8月6日に行う楽念仏(がくねんぶつ)(立ち念仏)は、施餓鬼会として新仏さんを供養するもので、県下でも有名ですがな。供養のためもあって、町外に出ておる者も帰ってきます。城川の他の地域でも立ち念仏はやっておりますが、西方寺のは高野楽(こうやがく)の系統だそうで、勇壮で動きが激しいところに特徴があるようです。胴取(どうり)(大太鼓)7人、楽方(がくかた)(鉦(かね))15人で、太鼓・鉦を鳴らしながら、『ヒンヨー、ナムゴーミドウ、ナームゴミード』と唱えながら、体をひねりつつ前後に動き、最後の『打ち上げ』は読経しておられる住職さんを囲んで円陣を作り、激しく動きながら太鼓と鉦を打ち鳴らして廻ります(口絵写真参照)。楽念仏は、若い人が小中学生を指導して、これを後継しようとしてくれてますが、高川の良さをこれからも伝え続けて欲しいものです。」

 (ウ)峠の行き来、村の神-野井川・遊子谷

 **さん(城川町遊子谷泉川 明治33年生まれ 93歳)
 「私は、野井川の竜泉で生まれ、19歳でこの遊子谷の泉川に養子に来ました。実家は田9反歩、畑5反歩を耕しており、焼き畑もして楮・ミツマタを作っておりました。**の家に来たころは、山地を開いた桑園が5反歩で養蚕が主な仕事でして、田3反歩は小作で作ってもらっておりました。若い頃は、秋冬が炭焼きとミツマタの加工、春夏は田仕事と養蚕が、毎日の仕事でした。植林は、私が小学校の1年のころですから、明治の終わりころに野井川のBさんらが手がけておりました。今でこそ国道から入ると、遊子谷より野井川の方が山の奥で不便ですが、昔は尾根越しで惣川(野村町)や檮原にもつながっておって、山中にも関わらず案外平地もあるので、進んでおったように思います。
 竜泉に居る頃は、楮・ミツマタは担(にな)うて惣川や横林の方に出しておりました。桜峠を越えて檮原の坪の田に米を売りに行き、竜泉には、Mさんという取次ぎの商人もおりました。泉川からは、おおむね堂野窪(どうのくぼ)を経て河成(こうなる)に出ることが多く、大きい材木等を出す時は、南平(みなみひら)-佐須(さす)-赤木(あかぎ)と出て坂石か河成に持っていっておりました。負い子で背負えるのは米1俵で、私も頼まれて自分の馬で人の荷物を運びましたが、昭和の初めで1俵50銭でした。主に運んだのは繭です。遊子谷に店ができたのは昭和に入ってからで、それまでは川(野井川)の左岸(北)は坂石や硯に、右岸(南)は土居に、尾根を越えて買物に行っておりました(図表2-3-2参照)。神社の氏子も、左岸は横林・惣川の神社に、右岸は土居の三島神社に、それぞれ属しております。行商人も多く来て、特に俵津(現明浜町)の人は、いりこや呉服を持って、天秤棒にかついで、祭や正月前に年に3回ほど来ておりました。しかし、買物いうても普段は麦を少し買うほどで、おおむね自給自足でした。味噌・醤油作りのための塩は、川船が着く夕方に坂石まで買いに行っておりました。
 野井川には五つ組があって、私の生まれた竜泉はそのひとつです。遊子谷と野井川には総務区長さんが各一人おり、各組には区長さんがおります。総務区長さんの下に、会計担当の『年行事』と、組長への伝達をする『小走り』がおり、小走り代として田をもらっておりました。総務区長の仕事は、祭礼や村の行事をとりしきり、道等の草刈りを含む道路整備を行うことが主な仕事で、役場への要望・陳情や、役場から頼まれた仕事も多いですな。区長は、総務区長からの連絡事項を区民に伝え、部落費等の徴収をします。昔は、役職はそれぞれ選挙で決めておったのですが、今は人も少ないことから、回り持ちになっています。区や区長の仕組みは城川町ではどの区も同じです。組(=区)の制度は江戸時代からのものでしょう。私は、子供が23歳になって『部屋』に移り(隠居し)、部落費等は『オモヤ』が出してくれております。しかし、子供も67歳で、先年連れ合いを亡くしましたので、今は炊事は共同でやっております。
 竜泉の氏神は白王神社です。ここから峯を登る旧道は、高知県境を越して檮原の井桑に出ますが(坪の田に出る桜峠の北方)、不思義なことに峯を降りた井桑側にも白王神社があります。この旧道は、四つの峯に囲まれた所を通り、このような峯の四辻は魔物が出ると言われ、昔から不吉なことがあったと伝えられております。この土佐と伊予の白王神社は、どっちが前後かはわかりませんが、古くからのつながりがあったのでしょう。竜泉は、以前は寺野という地名でしたが、これはこの白王神社から小川を挟んで、昔はここに宝泉寺があったからとされ(現在は重谷区にある)、寺川・寺畠の地名も残っております。
 泉川の氏神は新田様で、今でも「おこもり」だけは集会所でやっておるようです。講では、戦前には、お篠(ささ)講があって、私も2度ほど篠山(ささやま)(一本松町にあり霊山として信仰されている)にお参りしました。頼まれてお出石(いずし)講(長浜町の出石寺、弘法大師が修業したとされる)にも参加し、やはり2度ほど行ったことがあります。石鎚講も盛んで、現在でも行く人がおります。
 茶堂はいずれの区にもあって、8月の初句ころに堂施餓鬼といって、ご本尊様にお供えをし、また暑いころだからお茶を用意して、区の行事で家々が交代で、道行く人にお接待をしておりました。鉦がなくなり、道路の改修で通る人も少なくなったので、接待の行事も(立ち)念仏とともに戦後止めました。泉川の茶堂では、堂に従前通り集まり、坐り念仏を行い、また施餓鬼に代えて、田の豊作を祈って寺で枇杷(びわ)の葉に咒文(じゅもん)を寺で書いてもらい、共にお祈りを行い、後日各々がその葉を竹に挟んで田に立てます。区内で初盆の家々を、この時にそろって訪問し、坐り念仏を唱えて、故人を慰む行としております。」

  〔明治末期の修学旅行(**さん手記)〕
 「私が小学校3年の時に学制が変わり(明治40年=1907年)、4年から6年になり、4年で卒業したら家の手伝いをさすのにと、各々に反対の小言を言っておった。また唱歌の授業が、女の子には裁縫が加わり、特にオルガンの購入が大反対で、誰は尺八が上手、彼が三味線が上手だから、その人を雇って習わしたらよいのに等々、勝手な反対があった。オルガンも購入し唱歌や裁縫の先生も来られた。校舎もそのままではいけないので建替えをすることとなり、今までの萱葺きは壊され、我々は神社と寺を仮の校舎として習った。5年生になって新しい学校が野井川の川端の田の中にでき、反対の声もなくなった。落成式には広い校舎を一周し、新しい校舎に恥じない勉強をせよとの校長先生の訓示は、今に忘れない。ウチの子はこんなものを縫っておると、母たちが喜ばしそうに話しておったこともある。
 6年生の時、遊子谷に2年制の高等科が併置されることとなった。これは希望者が入学するので、なんの反対の声もなかったが、驚くほど入学がない。わずか5名で男子のみ、野井川から4人、遊子谷1人で、1年の時(明治45年=1911年)はその5名で修学旅行に行った。宇和島市、宇和町、野村を経て泊まる4泊5日で、しかも小雨の降る日である。履物はワラジで、一足は腰に巻きつけておる。魚成村を郡境に登り、峯伝いに愛治村に下り、川が土佐へ流れ下るのだと言われて驚きつつ、川を左にして二名村を通り、三間村に入って見事に改修された道路に驚き、夕暮れ近くの雨の中を高串に着くと、馬車は既にでており、宇和島まで泣き泣き歩いた。
 翌日から見学だ。先生も見兼ねて、麻裏(あさうら)履きを買って履かすこととなり、ワラジは宿に置いた。昨日は1日徒歩であったのだから、ずいぶん疲労しておる。市内を見学したが、丸穂学校では、タッタ5人ガ修学旅行トヨイヨイと罵りはやされた。2日間宇和島を見学し、3日目に吉田町へ船で着き、蜜柑の熟れた立間村を鼻が峠に登り、卯之町に来て宿に着く。先生は山田村の自宅に帰られたので、生徒5人で戯れ、主人にヤカマシイ静カニセヨと度々叱られ、また先生が自宅から電話され電話の教育をしてもらった。翌日は農蚕学校・郡役所を見たり、宇和の平野のたんぼを見学し、来年は農蚕学校入学と決めた。
 野村へ向かって歩み、日切り観音、ヤセ松コエ松の大岩の前を通り、野村発電の水力貯水淵を見て、夕方野村発電所でいろいろと話を聞いた後、店に入る。朝、野村の町から川向かいの権現に出て、その道を坂石に出て、山の中腹を登り、赤木・佐須を通り、南平に着き、竜泉はそこから2里で、家に帰ったのは夕方であった。学校初めての、自分は最初で最後の修学旅行であった。」

図表2-3-13 檮原町商工業者の出身(江戸時代からの家系伝承、母方の血縁含む)

図表2-3-13 檮原町商工業者の出身(江戸時代からの家系伝承、母方の血縁含む)

「檮原町誌(⑮)」P44の関係数値より作成。

写真2-3-6 円明寺廻り舞台

写真2-3-6 円明寺廻り舞台

平成5年10月撮影

写真2-3-10 茶や谷茶堂

写真2-3-10 茶や谷茶堂

平成5年10月撮影

写真2-3-11 茶や谷の石鎚講の講員帳と念珠

写真2-3-11 茶や谷の石鎚講の講員帳と念珠

平成5年10月撮影

図表2-3-17 遊子谷・野井川の自治組織

図表2-3-17 遊子谷・野井川の自治組織