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県境山間部の生活文化(平成5年度)

(2)南北軸のくらしと人びと

 **さん(新宮村堂成 明治40年生まれ 86歳)
 **さん(高知県大豊町立川上名 昭和6年生まれ 62歳)
 **さん(新宮村中西 大正3年生まれ 79歳)
 **さん(新宮村柿の下 大正11年生まれ 71歳)
 **さん(香川県仁尾町 大正10年生まれ 72歳)

 ア 土佐街道と新土佐街道(高知自動車道)

 新宮村を南北に横断する土佐街道は、土佐藩の参勤交代路として開削された道路であるが、新宮には古代の官道があったといわれる。平凡社の『愛媛県の地名(⑫)』によると、「古代、讃岐の国府(現香川県坂出市)から伊予の国府(現今治市)に通じる南海道。『延喜弐』諸国駅伝馬に『伊予国駅馬、大岡、山背、近井、新居、周敷、越知各五疋』とあり、伊予国内に駅を設け、各駅に五頭の馬を置くことを定めている。延暦15年(796年)には四国山地を越えて土佐国府(現高知県南国市)へ至る新道が開かれ、山背(やましろ)駅はそのために設けられた新駅である(日本後紀)。
 土佐への道は大岡(おおおか)駅(現川之江市)から堀切峠を越えて銅山川の縦谷に下り、山背駅の跡地と推定される馬立川上流の馬立(現新宮村)から急坂を登り、笠取峠などを経て笹ヶ峰を越え、土佐の丹治川(たじがわ)駅(現大豊町)・吾椅(あがはし)駅(現本山町)・頭駅(づえき)(現土佐山田町)を経て土佐国府に達した。」とある。
 土佐街道については、新宮村誌編さん委員長の**さんの研究(未脱稿原稿(⑪))によれば、土佐藩の参勤交代は、はじめ紀伊水道の海路をとっていたが、暴風波浪のためしばしば避難したり足止めされることが多く、その難を避けるため、6代藩主山内豊隆の時、北山(笹ヶ峰)越えによる陸路が検討された。藩主の命を受けた郡奉行岡田又兵衛は、享保2年(1717年)2月立川から笹ヶ峰を越え、馬立村木地屋、市仲、さらに横峰を越え、川之江に、さらに讃岐の仁尾までのルートを調査した。このルートは、古代官道に沿うものだといわれている。立川番所から北山越えの道は、ほとんど新設の道であったという。開削には、土佐の村々から7,000人の人夫が動員された。農民たちの血と汗によって作られた街道である。この道は6代藩主山内豊隆から16代山内豊範まで、文久3年(1863年)までの146年間利用された。翌年から蒸気船海路となり、以後この街道は民間の生活の道として利用されてきた。
 妻鳥和教氏は、『予土の峠物語(⑭)』の中で街道を歩いた感想をつぎのように書いている。「この笹ヶ峰の伊予側へ400m下がった地点に、杖立て地蔵が建立(安政5年)されている。伊予側から登ってきた旅客人がこの地蔵さんの前で、道中の安全とこれからの安堵(あんど)を祈ったにちがいない。ここまで来るには、名だたるきつい峠が何か所かある。笠取峠、汗が噴き出るので笠をとって歩いたとか。腹包丁、坂が急なので刀をお腹に抱えて歩いた坂道。水無峠、のどがカラカラなのに水がない峠。今も昔も登山と飲み水は切り離せないらしい。一方、新宮から横峰に至る道には、一升水(昭和の初めまで茶店があったころ)とか水ヶ峰(地蔵が安置され今も春の祭日には数多くの信者が訪れる所で水がおいしい)というように水に関する地名が残っている。」
 昭和37年(1962年)5月5日に、坂東梅生氏は高知県大豊町立川から、土佐街道を歩いた。その時の紀行文『土佐街道を訪ねて(⑬)』がある。この紀行文の中で興味をひくところは、土佐街道を通じて伊予と土佐の人の交流の記述である。「現在、このあたりの森林(木番所跡)は、明治の中ころ立川に移り住んできた川之江市上分町出身の石川氏の所有だという。私が立川を訪れ、いささか驚いたことは、封建的傾向の強かった土佐のしかも境目番所の所在地刈屋(かりや)に予想に反し、外来者特に伊予から移住者の多いことであった。私の宿をとった成川の河野旅館の先祖も江戸の初期に伊予の三島よりこの地にやってきたという。現在(昭和37年当時)立川本陣に居住されている鈴木氏の祖父も、明治初期川之江市妻鳥からこの地にやってきた一人である。鈴木氏の語るところによれば、刈屋の戸数は28戸、うち伊予からの移住者は5戸、その他姻戚(せき)関係のたぐいで伊予と密接な関係にあるものが7戸もあるという。(⑮)」
 大豊町立川上名の**さんの奥さんは、新宮村の馬立本陣(写真2-2-8参照)の**家から嫁いで来られたが、**家も祖父の代に立川上名に移住してきた。土佐街道は後述する『茶の道・塩の道』としての物の動きだけでなく、法皇山脈の横峰越え、堀切峠を通して、また笹ヶ峰の北山越えによって、人々の交流が盛んに行われてきた。**さんの話では、新宮村の人は姓によって阿波か土佐かの系統が分かるという。**さんも、「私たちの先祖にも阿波系統の血が流れているようで、馬立の方は言葉が今でも少し違う。あちらは土佐の言葉に近い。新宮から4kmほど下流の県境あたりに行くと阿波言葉に近い。」と話す。**さんも、昔は馬立の嫁さんはほとんど土佐からといってよいほどで、馬立の通婚圏は地元よりも土佐との結びつきが強かったという。
 大豊町の**さんは、立川から新宮を眺めた場合、「立川地域にとっては、新宮の文化、経済は一歩先んじていた。それを立川地域の人々は吸収してきた。そういう感じで新宮というところを受け止めている。」と語った。
 大豊町立川下名の「旧立川番所書院」(写真2-2-5参照)が、昭和49年(1974年)に国の重要文化財に指定され、解体修理を契機として、昭和54年(1979年)に、川之江市・新宮村・大豊町の三者が、往年の交流を回復しようと、「古代官道調査協議会」を設立した。いまも欠かすことなく三者による交流会が続けられている。交流会の参加者は小・中学生であったり、婦人会であったり年によって異なるが、行事としては土佐街道を歩く、ソバ落としの体験学習(収穫から脱穀・手打ち、石うすでソバ粉をつくり、手打ちそばにして試食する)や、大豊町に残る碁石茶(ごいしちゃ)で「茶ガユ」を作り食べるなどがある。また昭和56年(1981年)には笹ヶ峰にあった榜木(ぼうぎ)が古くなり朽ちたので新しく建て替えた。このように平成の時代にも人びとの交流は続けられている。
 昭和42年(1967年)4月1日、新宮と大豊を結ぶ笹ヶ峰トンネルが開通し、ついで昭和55年(1980年)8月8日、村民宿願の新宮と川之江を結ぶ堀切トンネルが開通した。この堀切トンネルの開通によって、県道川之江・大豊線が昭和の土佐街道として機能するようになった。
 さらに平成4年(1992年)1月30日、高知自動車道が川之江・大豊間に開通した。この自動車道の特色はトンネルが多いことである。新宮村だけでも五つのトンネルが抜けている。新宮には土佐街道の馬立本陣跡の上を走るインターチェンジが設けられ、平成の土佐街道として、高知・高松・松山・徳島の四国の県庁所在地は高速道で結ばれることになる。まさに新宮は四国のへそとして未来に大きな夢をつなぐことになった。

 イ 茶の道・塩の道

 江戸時代の土佐街道は、土佐藩の参勤交代路として大きな役割を果たしてきた。それとともに、山と海との物流が盛んに行われてきた道でもある。土佐の山分(やまぶん)(嶺北地域)の茶が大量に人の背や馬によって、笹ヶ峰を越え法皇山脈の横峰を越えて、伊予の川之江、讃岐の仁尾に送られている。土佐の茶で有名なものが碁石茶(写真2-2-9参照)である。碁石茶は発酵茶であり、その販路は瀬戸内海沿岸や島方であった。碁石茶は塩分を含んだ島方の水に合うためとか、島方で常用される「茶ガユ」の原料に用いるためとかいわれている。高橋克夫氏によれば(⑭)、碁石茶の変わった用い方として、仁尾町の漁民は、はえなわの染料に用いたという。事実、大豊町川口の碁石茶博物館の中にすばらしい色調で染めあげられた衣装が展示されていた。
 『大豊町史(⑮)』によると、「碁石茶は土佐の嶺北山間の村々で生産され、特に東本山村(大杉村)・西豊永村で多く生産された。明治14年(1881年)に編集された本山郷下分17か村(旧大杉村)の村誌によると、その生産数量は3,580貫(13,425kg)余に上り、そのほとんどを愛媛県川之江方面に出荷している。」とある。
 『仁尾町史(⑯)』によれば、「最初土州侯より茶売買の特権を得た仁尾商人は12軒であったが、その後茶業繁栄の結果、幕末には18軒が茶商売を行っていた。」また「天保5年(1834年)の土州立川口御番所より茶商売のための往来手形、寺請証文には又七ほか総数39名の名前があがっている。これらの商人は、購入した茶を土州山分より北山通り立川口番所を通り、山越をして伊予川之江、さらに和田浜へ運び、それより船にて仁尾へ送り、丸亀を始め瀬戸内沿岸の有名な都市に取引所や売店を設けて、仁尾茶として販売し大いに繁栄発展した。」と記述されている。このように藩政期には、仁尾商人と土佐(嶺北地方)との結びつきは強かった。それを示すものに大豊町立川上名に「仁尾ヶ内」という地名がある。また笹ヶ峰を越えた新宮側に杖立地蔵がある。これは安政5年(1858年)3月、馬立村栄谷の種治(内田家の祖)が願主で建立されたもので、この地蔵尊は仁尾の九兵衛の作である。
 **さんの『茶の道・塩の道(⑰)』(新宮村誌未脱稿原稿)の研究では、氏自身の発見にかかる史料として、「馬立茶渡通」がある。この文書は文久元年(1861年)の茶の買付通(かよい)で、讃岐仁尾の年行司(茶屋仲間が交代で年間総荷受手配をする役)が上山村田ノ内鉄次に出したものである。ここでいう馬立茶とは、土佐街道を通って馬立堂成の荷継場に運ばれた碁石茶のことである。この文書の印は年行司が各問屋の荷受数量の上に決済印を押している。
 享保18年(1733年)6月26日から11月19日まで立川番所に茶丸が18回、日浦村名本八之烝の番所通過12回、茶丸の番所通過172丸(1丸30斤人)計5,160斤825貫600匁(3,096kg)の記録がある。文化・文政(1804年~1829年)期から幕末までの問は年間800丸前後の茶丸が立川番所を通過している。
 土佐の山分から馬立を中継して、伊予川之江、讃岐仁尾の港に碁石茶が運ばれ、一方海から山へは塩が運ばれた。それを物語る史料として、次の切手が残っている。磯谷村の孫七ら8名の者の道中切手である。それによれば「右ハ此もの共予州馬立迄茶丸持越塩荷取二参上申候間其元にて御改之上御通し被下度奉存候已上磯谷村名本小左衛門図(印)卯八月十六日〔注:享保20年(1735年)〕本山与右衛門殿川井甚之烝殿(⑳)」とある。
 また享保19年・20年の道中切手和田村分だけでも、道中切手の行先は馬立、川之江、仁尾であり、送り荷は茶丸であり帰り荷は塩であった。
 碁石茶の取り引きで活躍した仁尾商人が、明治維新で壊滅的打撃を受け、名声高かった仁尾茶が全讃岐より姿を消した理由について、仁尾町の**さんは「土佐藩では幕末の財政危機で大量に藩札を発行した。取り引きもすべて藩札であった。明治維新で土佐藩の藩札の暴落で、仁尾商人が持っていた藩札は紙くず同然になってしまった。当時仁尾では、土佐藩札のことを苦茶札(くちゃさつ)と読んでいた。」と話された。

 ウ 貧乏の棒には芯がある-仲持さんのくらし-

 この地域ではかつて物を運搬して生計を営んだ人のことを仲持(なかもち)さんと呼んでいる。仲持には、馬を使って荷を運ぶ人(馬方とか馬追いという)、自分の背に負い縄で荷を運ぶ人、オウコ(天秤棒(てんびんぼう)のこと。おもに草(肥刈)の束、木炭、板材等を運ぶ)で物を担ぎ運ぶ人がある。馬方には問屋が持つ馬を追う人と、自分持ちの馬で運ぶ人がいた。新宮の人々は明治以降、土佐街道の茶や塩に変って、おもに新宮で生産される山の産物を横峰を越えて、金田や上分に運び、帰り荷として里の物産を運んできた。
 新宮村中西の**さん(79歳)は、かつて仲持を経験した今は数少ない一人である。小柄ではあるが今もかくしゃくとしていて若いころの労働で鍛えた様子がうかがえる。**さんに若いころ仲持をやった当時のことを語ってもらった。「私は次男であったので、仲持が一番手つ取り早く金が入るだろうと思って、16歳の時(昭和3年頃)に仲持を始めた。1間(約1.8m)ものの板を運べば賃も良かったのだが、背が低くて負うてようあがれん。タバコ丸(7貫目= 26.25kg)を背負うと片道は行けても、もどりは物を持って帰れんので、タバコ丸を背負うのはなるべく控え、炭俵(1俵6貫= 22.5kg)を背負った。もどりは頼まれたお米1斗(15kℓ)を負うて帰っていた。
 仲持の道順は、新宮を出発し、五分坂を通り、朝日(山受けで太陽が出るとすぐ日が当たる場所)、それから一升水(じいさんとばあさんで茶屋)で一服(いっぷく)して好きなものを買うて食べ、水ヶ峰さん(地蔵さんがある。ここにもおばあさんの茶屋があった)へ行くが、わずかな仲持賃じゃきん買って食べられんよな。ちょっとしたものを買うて食べ、それからモンザ部落を通り横峰へ出る。ここには店はないので自分の持ち合わせを少し食べて一服(一休み)して、おもいおもいに下に降りましたら、昔土佐の殿様が一服したところでお茶屋というところがある。そこには幹の囲りが4尺(1.2m)近いクスの木が2本あった。ヤブの中に入ると、泥の中から清水がこんこんと湧き出している。そこでのどの渇きをいやして西方(さいほう)に着く。ここには梅じいさんがいた。そこから東金川へ降り、金田へ出て上分に着く。わしが仲持の仕事を辞める終りころ、少し小遣いができて、炭を山で直接買って向こうへ持って行き売るようにした。これは運び賃をもらうよりええが、今と違って不景気であったので、時には買った値よりも安く売らんといかん時もあった。売れるところまで行って、上分の先の城の鼻まで行くと、安くてもかまわん売って、もどりの荷を買うて帰らんと暗くなる。
 当時馬は20頭ぐらいいた。馬の方は行きがけたら早い。自分らは馬より先に出ていても後になった。子どもじゃきん行きかけたら、ちょこちょこ行きますけど、今度は馬鹿みたいに休んだりしていた。
 上山の女の人も20人ぐらい仲持をしていた。女の人でも1間の板を負うたら、馬が通ると体をねじて横にして負うていた。馬方さんは朝わしらが登っていると、わしらを通り越して行く。横峰を越えて上分に降りよると、早い馬は荷を付けて帰ってきよる。自分で馬を持って仲持するものは、自分らより3倍も4倍も稼いでいた。女の人は炭2俵(12貫=45kg)を背負う。わしは1俵であった。馬は6俵をつけて駆けあがっていた。鈴をつけてリン、リンと列をつくってくる。その後に馬方がついてくる。坂道をチャボチャボ通るから水たまりができ、わしらに泥がはねて気持ち悪かった。
 帰りが遅い時は夜の8時か8時半になる時もあった。ちょうちんを荷の上につけてもどってきてから、翌日仲持に行く草履を作らないかん。買うとなると当時一足5銭していた。自分で炭を買って持って行けば60銭の口銭がある。戻りは米1斗を買うて帰ると15銭であった。ウドンを買うと10銭とられるので、戻り荷は子どものわしには疲れるだけで割り合わなかった。」と当時の仲持の様子を話された。
 「その後、仲持を辞めて讃岐の和田村で奉公をするようになる。農家であったので米作りからナシ・ミカン作りの農作業や牛使いもできるようになった。また住込みの家ではカマス織りをやった。」この経験が後に新宮に帰ってからの**さんの職業になるわけであるが、最初の間は人に言えない苦労の連続であった。
 「縄ない機械とムシロ機とを持って、ワラジ・ゾウリ・ナワ・ムシロなんでもワラ加工をする。そのうち人からも信用されるようになり、現在の幸せがある。」**さんの人生哲学は、『貧乏の棒には芯がある』ということである。何事も真剣にやれば、いつの世でも食べられる。ここに住みついた当時のつらさを、自分の信念を貫き通したことで今日がある。**さんが語ることで『貧乏の棒には芯がある』という言葉は、一層真実味と説得力があった。
 **さん(71歳)の家は馬立柿の下にある。ここは古代官道、土佐街道のあったとされるところで、土佐藩主の飲料水に利用された「梅の泉」が残っている。**さんは第2次世界大戦後モンゴルに抑留され、昭和22年(1947年)に帰国した。翌年10月に新宮鉱山が再開されるが、**さんは電気の技術を買われて入社し、昭和53年(1978年)の閉山まで勤め、閉山後も人柄を見込まれ残務整理をまかされた。退職後も専門外の分野も研究心旺盛で、昭和60年(1985年)には、『村誌資料集新宮の植物』を共同執筆している。
 **さんの話では、「鉱山には10人ぐらいの仲持がいた。製錬して型に入った粗銅は約40貫(150kg)あったが、それを背負って運んでいた。女性のうち数人の仲持は40貫を毎日運んだ。距離は2kmそこここではあるが、坂のけもの道を1日に何度も往復して運んだ。」という。「仲持さんは重労働をしても生活は貧しかった。昭和10年(1935年)ころ、酒1升が1円時代、馬方の稼ぎは1日3円から4円であった。背で負う仲持は馬方の4分の1ぐらいにしかならなかった。馬方は良いというが、馬に飼料をやらねばならないし、当時は道も悪かったので、馬にけがをさせると元も子もなくなってしまう。だから馬方といっても1日に疲れをいやすため、しょうちゅうと米1升買えればよかった。」とのことであった。
 **さんの生家は、新瀬川の土居であった。子どものころは木炭の問屋で2頭の馬を飼っていた。農家から毎日のように炭が集まってきていた。木炭生産の盛んなころは、新宮に24軒の馬方がいた。上分からは3軒、金田から2軒の馬方がやってきていた。新宮から上分や金田に送られる荷を「下げ荷」と呼んでいた。「下げ荷」の種類は木炭が中心で、移動製材機で作られた木板、製紙原料の梶(かじ)・楮(こうぞ)・三椏(みつまた)、シュロ皮、ゼンマイなどであった。**家では木炭の問屋とともに、村人の生活に必要な、みそ・しょうゆ・塩・酒類・煙草・菓子類・缶詰・干物類・呉服・化粧品・学用品・ちょうちんなどあらゆるものを取り扱っていた。これらは川之江や上分から「上げ荷」として運ばれた。村人は焼いた炭を問屋に運び、問屋から生活に必要なものを持ち帰る。精算は盆と暮れの2回であった。生活は貧しくとも、現金がなくてもつけで生活が可能な時代でもあった。
 村誌編さん室の**さんの調査では、新宮に初めて自動車が導入されるのは昭和6年(1931年)で、徳島県の川口経由で運行していた。幅員も2.7mの馬車道で路面も悪く、小型トラックが走っていた。昭和22年(1947年)に川之江の金田から新宮まで国鉄バスが運行されるようになった。昭和30年(1955年)に村内の自動車は9台であった。
 このように、最初は馬車道ではあるが小型トラックが運行されるようになると、仲持は新宮から急速に姿を消していった。
 **さんの話では、仲持をやっていた人たちは再び農林業にもどるか、大阪方面に移住して、仲持のように自分の肉体を使う職業につく人もいたという。

写真2-2-5 高知県大豊町立川下名に残る旧立川番所書院

写真2-2-5 高知県大豊町立川下名に残る旧立川番所書院

立川番所書院は、国の重要文化財(昭和49年指定)。昭和55年より3か年をかけ解体復元工事がなされた。平成5年10月撮影

写真2-2-7 新宮村馬立 柿の下に残る「梅の泉」

写真2-2-7 新宮村馬立 柿の下に残る「梅の泉」

参勤交代時代には土佐藩主専用の泉であった。この泉の上に梅の古木があったところから「梅の泉」と呼称されてきた。現在は、周辺が茶畑、シキビ畑等に開発され、飲料水としては使用されていない。平成5年10月撮影

写真2-2-8 新宮村馬立の馬立本陣跡

写真2-2-8 新宮村馬立の馬立本陣跡

馬立本陣は、明治30年火災で焼失したが、当時の面影として正門と石垣が残っている。平成5年8月撮影

写真2-2-9 高知県大豊町に今も残る碁石茶

写真2-2-9 高知県大豊町に今も残る碁石茶

発酵させた碁石茶を圧縮し、それを碁板目に切って、ムシロの上に乾燥させる。平成5年10月撮影